ペルシャ絨毯工房で聞こえる子守唄
[画像:絨毯工房の風景]
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、イギリスのジーグラー商会やOCMなど外国企業によるイランにおける絨毯資本主義の発展は、絨毯織りの伝統、女性織師たちの生計、絨毯のデザインに劇的な変化をもたらしました。
外国企業はイラン国外で高まるペルシャ絨毯の需要に応えて生産量を最大化するため、農村部の女性たちを織師として雇用します。
次第に男性が工房の所有者や監督者となり、女性や子供が織師として働くようになりました。
男性はナグシェ・ハーンの役割も担い、ナグシェ・ハニを大声で唱えましたが、女性はこれを習得することはほとんどありませんでした。
これは、見知らぬ男性の前で声を張り上げるのを避けるためでもあったのです。
ナグシェ・ハニとは、絨毯工房で織り手たちに絨毯のデザインを声に出して読み上げる慣習のこと。
ペルシャ語で「ナグシェ」はデザイン、または意匠図を意味し、「ハニ」は読む者または歌う者のことを意味します。
絨毯は意匠図に沿って織られますが、ナグシェ・ハーンは工程を迅速化し、人為的なミスを最小限に抑えるために、織師たちに絨毯の意匠図の配色を声に出して読み上げる役割を担っていたのです。
ナグシェ・ハーンは織師たちに「2列目の青い点3つの隣に赤い点2つ」などと指示します。
絨毯生産が産業化される前、女性たちは自宅で絨毯を織っていました。
絨毯は自家用に供され、他者に販売されることはありませんでした。
しかし、絨毯を商用として製作するの工房が開設されると、村の女性たちが雇用されるようになります。
家と職場とは離れた場所にあったため、女性たちは幼児を工房に連れて行き、背中におぶって子守唄を歌いながら作業していました。
そして、子守唄を聴きながら眠りについていた子供たちも成長すると、織師の職に就いたのです。
織師たちは単純作業を克服し、また自らの人生を振り返るため、しばしば歌を通して自己表現をします。
社会や経済の変化は、女性織師たちの生活や絨毯のデザインに影響を与えただけでなく、絨毯工房の環境にも影響を与えたのです。
イラン中部、カシャーン郊外の小さな町、バルズクの絨毯工房では、ある女性が子守唄を歌っていました。
しかし、工房に子供の姿はなく、織師として働くのは中年女性だけです。
かつて絨毯職人たちは子供たちを連れて仕事に出かけていました。
しかし、いまでは子供たちは学校に通い、女性たちは黙々と作業をこなすだけです。
子供たちがいなくなっても、子守唄のメロディーは絨毯工房の作業風景の一部であり続けています。
しかし、歌詞は変化し、織師たち自身の苦しみや困難に焦点が当てられるようになりました。
ある織師の女性は26歳の時に夫を亡くし、絨毯織で稼いだお金だけで、6人の子供たちを育てなければならなかったと言います。
織師たちが色や模様を追うのを助けるために歌われるのはナクシェ・ハニだけではなく、歌や詩など様々です。
織師たちは長い時間を織機の前で過ごし、ゆっくりと絨毯を織ってゆきます。
しかし、絨毯が完成すると、彼女らの役目は終わり、絨毯は工房から見知らぬ誰かの家へと運ばれてゆくのです。
「見知らぬ誰か」は工房での作業風景を見たことがないため、絨毯の製作工程は勿論のこと、何時間も織機の前でパイルを結び続ける織師たちの苦労を十分に理解していません……。
絨毯商が顧客の需要に応えて製作するようになってからは、絨毯のデザインも変化しました。
生産が商業化される以前は、絨毯は誰かの注文を受けて作られたり、市場に流通したりすることはあまりなく、そのためデザインには大きな柔軟性があったのです。
女性たちは自宅で絨毯を織り、自身の人生の物語や日々の経験をデザインの題材とすることもありました。
小さな村々や部族の間にいまも残るこうした即興的なデザインとは対照的に、消費者の趣向に合わせて商業化されたデザインがあります。
例えば、今日カシャーンで用いられるデザインには、ゴルダニ(花瓶)、ラチャク・トランジ(メダリオン・コーナー)、ミフラブ(モスクの壁龕)などがあります。
これらとは別に、女性たちが即興で生み出したデザインを絨毯商は「ガラット」(不正確)と呼びます。
なぜなら、それらは標準化されたデザインや一般的な長方形の絨毯の形状に従っていないからです。
しかし、都市部の絨毯が規格化された現代において、ガラットの作品はそのオリジナリティを高く評価されています。
ガラットの絨毯には、語られざる物語が秘められているものが多くあります。
例えば、ナルゲス・エラミは著書『梯子と織機について』の中で、カシュガイの遊牧民の女性が妊娠中に初めて織った絨毯について述べています。
最初の物語は母親によって織り込まれました。
しかし、彼女は出産中に亡くなってしまいます。
未完成のまま残された絨毯を完成させたのは、母親と命を交換した娘でした。
この絨毯には母親と娘、二人の物語が織り込まれているのです。
幼い頃から、少女たちは絨毯に自分たちの物語を織り込み、やがてその絨毯を嫁入道具として夫の家に向かいました。
彼女たちは絨毯を通して、母親から娘へと人生の物語を語り継いできたのです。
しかし、絨毯製作が産業化されるに伴い、工房のオーナーは絨毯のデザインをプロのデザイナーに依頼するようになりました。
織師たちにデザインを指示するのは、絨毯作家と絨毯デザイナーであり、女性たちの物語が語られることはなくなったのです。
絨毯織りが産業化され、消費者志向になった時点で、工房の棟梁がデザインを声で伝えるナグシェ・ハニという慣習が生まれました。
今日ではナクシェ・ハニは伝統文化から生まれたものと考えられがちです。
しかし実際には、資本主義と商業主義の路線に沿った絨毯市場の再編と密接に関わっています。
こうした社会的かつ経済的な変化は、女性織師たちの生活や絨毯のデザインだけでなく、工房の風景をも変えました。
1979年のイスラム革命、1980年から8年間続いたイラン・イラク戦争、そして近隣諸国における絨毯産業の台頭、米国主導による制裁措置の後、伝統的な工房は経済的衰退に直面します。
結果、男性はより高収入な職を求めて工房を去りました。
女性織師たちには、多くの工房で男性が担ってきた役目を引き受けざるを得ないようになります。
昔、カシャーンの女性織師のほとんどは、5、6歳のときから絨毯織りを始めたと言います。
40歳代、50歳代となった女性たちの手は硬く、タコだらけで、キャリアを感じさせるものでした。
ある工房の棟梁(現場監督)であるラヒミ氏は、農業工学の修士号を持つ若い女性です。
絨毯織りはラヒミ家の家業ですが、彼女も工房内の織師もナクシェ・ハーニを学んだことはありません。
今では、ほとんどの織師が教育訓練を受け、自身で意匠図を読めるようになっています。
ナクシェ・ハーンはかつては絨毯工房に欠かせない存在でしたが、その役割は失われました。
ナクシェ・ハニも消滅を待つばかりで、ほとんどの絨毯工房で聴くことができなくなっています。
商業主義は、母親たる織師が歌う子守唄にも変化をもたらしました。
いまでは母親が子供を工房に連れてくることは稀です。
かつてイランでは児童就労が一般的でしたが、政府はこれを違法とし、1990年代以降、辺境の村々にも学校を建設しました。
その結果、ほとんどの家庭が子供を学校に通わせるようになったのです。
しかし、子供たちが工房にいなくても、母親たちは子守唄を歌い続けています。
しかし、そのテーマは育児についてではなく、労働の苦労に関わるものです。
子守唄は、イランの農村部に暮らす女性織師たちにとって、子供を養うための経済的苦労がいかに強く結びついているかを示唆しています。
例えば、バルズクの織師の一人は、次のような詩を読みました。
私は絨毯の織師です
私は家を掃除せずに絨毯を織ります
私は家事をせずに絨毯を織ります
私の赤ちゃんをお風呂に入れなければならないので
私は絨毯を織ります
上の詩は、彼女が人生のすべてを絨毯織りに捧げてきたという内容ですが、村の女性たちの人生と絨毯織りが強く絡み合っていること示唆しています。
子守唄のメロディーは子どもの耳に留まります。
子どもは歌詩の内容こそ理解できませんが、母親の声との親密さが赤ちゃんを眠りに誘うのです。
第二部である詩は母親のためのものです。
なぜなら、彼女はまさに揺りかごの中の我が子に語りかけているからです。
これらの歌には、母親が我が子のために待ち望んでいた夢と祈りが込められています。
アーモンドの花よ、静かに眠れ
あなたが花婿になったとき、私を幸せにしておくれ
静かに眠れ、アーモンドの花よ
花婿になったとき、私を幸せにしておくれ
しかしながら、絨毯工房での労働は、女性織工たちの子守唄の題材にも影響を与え、彼女たちのガーラトのデザインにも似た影響を与えています。
作業工程の苦痛と苦労が、幼子への母性的な愛情に取って代わり、彼女たちの歌は仕事の困難さと危険を想起させるのです。
イランの絨毯産業における資本主義とその影響を辿ると、音楽、社会、経済、そして環境といった生活の領域が密接に絡み合っていることが分かります。
絨毯生産が工業化される以前は、絨毯は織り手のもとにあり、母から娘へと持参金として受け継がれていたが、現在では「織り代」を作るために、絨毯は織り手から切り離されなければなりません。
多くの困難を乗り越え、これらの女性たちはイランの絨毯織りの伝統を常に受け継ぎ、彼女たちの声で工房の雰囲気を活気づけてきました。
仕事中に歌を通して苦しみや人生の物語を表現することで、女性織り手たちの間に社会性が生まれ、それはこの世界に生きている証しとなるのです。

