ペルシャ絨毯はイランの歴史とともにある
ペルシャ絨毯を知る上で、イラン(ペルシャ)の歴史についての知識は不可欠。
詳しくは西アジア史専門の書籍やサイトに譲ることにして、
本ページではペルシャ絨毯を学ぶために必要なイランの歴史の概要のみを紹介することにします。
古代
原エラム期(前3200~前2700年)
シュメール文明とほぼ時を同じくしてスーサ(イラン南西部、現在のフゼスタン地方)に興ったイラン最古の文明。
原エラム人は城塞都市を築き、エラム文字の前身といわれる原エラム文字を用いていました。
エラム王国(前2700~前539年)
スーサを中心に紀元前2700年頃に成立した国家で、隣接するメソポタミアと争いを繰り返しました。
紀元前2000年頃、メソポタミアのウル第3王朝を滅亡させ、更に紀元前1200年頃にはバビロニアを攻略。
有名なハムラビ法典を持ち帰りました。
その後もバビロニアやアッシリアと争いますが、紀元前640年頃、アッシュールバニパル率いるアッシリア軍の攻撃を受けスーサが陥落。
王国は弱体化し、紀元前539年、アケメネス朝ペルシャに支配され滅亡しました。
チョガー・ザンビル(アフワーズ)
メディア王国(前715~前550年)
西イラン族のメディア人により、イラン高原のエクパダナ(現ハマダン)を都として建設された国家。
アッシリア王国の支配下にありましたが、紀元前612年に第3代君主キュアクサレスは新バビロニア王国と共闘してアッシリアを滅ぼしました。
以後オリエントはメディア、新バビロニア、リュディア、エジプトによる群雄割拠の時代に入ります。
最盛期にはアッシリアからはアナトリア東部に至るまでの地域を支配しましたが、キュロス2世のアケメネス朝に吸収され消滅しました。
エクパダナの丘(ハマダン)
アケメネス朝(前550~前330年)
キュロス2世(在位:前550~前529年)と息子のカンビュセス2世はインダス川からエジプトまでを支配下におさめる「世界帝国」を築きました。
ダリウス1世(在位:前522~前486年)の時代には壮大な祭礼都市ペルセポリスを建設して遷都するとともに、政治の中枢であるスーサから小アジアのサルデスに至る「王の道」を整備。
駅伝制や官僚制度を充実させ強固な中央集権制を敷いた半面、諸民族の自治のみならず、言語や宗教を認める融和政策をとりました。
4度にわたってギリシャに遠征するも失敗。
アレキサンダー率いるマケドニア軍の東征敗れて滅亡しました。
ペルセポリス(シラーズ)
※ジル・ハキ文様のタブリーズ産やカシュマール産、最近のクム産などにはダリウス1世や同王の近衛兵、ペルセポリスを織り出した作品が多く見られます。
タブリーズ産
セレウコス朝(前312~前63年)
アレキサンダーの後継者の一人であったマケドニア系ギリシャ人のセレウコス1世がバビロンに開いた王朝で、「シリア王国」ともよばれます。
紀元前305年にはチグリス河畔に建設したセレウキアに遷都し、更に紀元前300年にはオロンテス河畔のアンティオキアも都としました。
最盛期には小アジアからインダス川に至るまでの地域を支配しプトレマイオス朝と対峙しましたが次第に弱体化。
ローマ軍に滅ぼされました。
アルケサス朝(前247~224年)
セレウコス朝を脱した中央アジアの遊牧民がイラン東部に建設した国家で、「アルケサス朝パルティア」ともよばれます。
前141年にはセレウコス朝の首都セレウキアを征服し、勢力拡大を図るローマ帝国と衝突を繰り返しました。
王位継承をめぐる内乱が発生し、その隙に乗じたササン朝によって滅ぼされました。
タフテ・スレイマーン(ザンジャン)
※狩猟文様の絨毯には背後に向けて矢を放つ騎乗の人物が描かれることが多いのですが、これを「パルティアン・ショット」とよびます。
この名称は、パルティア(アルケサス朝)の兵士がササン朝の軍勢に追われて逃げる姿に由来したものといわれています。
パルティアン・ショット
ササン朝(226~642年)
パルス(現在のイラン南西部ファース地方)を治めていたパーパクの息子アルデシール1世(在位:226~241年)は、即位するとアルケサス朝を攻略。
首都クテシフォンに入城し「シャー・ハン・シャー」(諸王の王)を名乗ります。
アケメネス朝の再興を目指し、ゾロアスター教を国教としました。
第21代君主ホスロー1世の時代に最盛期を迎え、ユーフラテス以東のオリエントを支配する大帝国を建設。
西をビザンチン帝国やローマ帝国、東を遊牧集団エフタルと戦いを繰り返しました。
ゾロアスター教の聖典アヴァスターを編纂する一方、マニ教徒を弾圧。アラブ人による侵攻により消滅しました。
ターゲ・ブスタン(ケルマンシャー)
中世
ウマイヤ朝(661~750年)
第4代カリフ(イスラム教の最高指導者)であったアリーの暗殺後、シリア総督を務めていたウマイヤ家のムアーウィア1世がカリフの位につき樹立したアラブ・イスラム国家です。
ダマスカスを都にイスラム世界の拡大と統一とを目指して「ジハード」(聖戦)を展開。
イベリア半島からインド北西部に至る広大な地域を支配下におさめ「パックス・イスラミカ」(イスラムによる平和)を築きました。
カリフは世襲制とされ、またアラブ人以外の被征服民にのみ税金を課すなどの強権策をとったことから不満が募り、預言者ムハンマドの家系にある者こそカリフに相応しいとするアッバス家によって倒されました。
ウマイヤド・モスク(シリア ダマスカス)
アッバス朝(750~1258年)
預言者ムハンマドの血縁者であるサッファーフ(アブ・アッバス)がクーファに築いたイスラム国家。
第2代カリフとなったマンスールは766年、チグリス川西岸の村バグダッドに三重の城壁で囲まれた「マディーナ・アッサラーム」(平和の町)を築いて遷都するとともに、多くの非アラブ人改宗者を政治の中枢に登用。
コーランが説くイスラムの統一に基づいた中央集権制を敷きました。
やがて『千夜一夜物語』にも登場する第5代カリフ、ハールーン・アッラシード(在位:786~809年)の時代に最盛期を迎えますが、9世紀後半になるとカリフの力は弱まり、地方では戦乱が相次ぐようになります。
945年にブワイフ朝、1055年にはセルジュク朝にバグダッドを占領されてその支配下に入り、その後モンゴル軍の襲来により滅亡しました。
バグダッド(イラク)
ターヒル朝(820~872年)
アッバス朝第7代カリフとなるマームーンの下で戦功をあげ、マームーン即位後にホラサン太守となったターヒルが興した王朝。
二シャ―プールを都としイラン北東部のホラサン地方を勢力下に置いていましたが、アッバス朝には朝貢を続け、領土的野心も見せませんでした。
ターヘル朝は初のイラン人によるイスラム国家として失地回復への灯火となったものの、シスターンに興ったサッファール朝にニシャ―プールを奪われ消滅しました。
ニシャープールの遺跡
サッファール朝(820~872年)
イラン南東部シスターン地方の盗賊団から身を興したヤークブ・イブン・アッライースが開いた王朝。
ヤークブはもとは銅細工師で、王朝名は同細工師を意味するアラビア語「サッファール」に由来しています。
現在のイラン・アフガニスタン国境のザランジを都とし、北部を除くイランからパキスタン以西の地域を勢力下に置きました。
その後バグダッドを攻略せんとアッバス朝に戦いを挑むも敗退。
ヤ―クブの死後、弟のアムール・イブン・アッライースが王位につきますがサーマン朝に敗れて事実上滅亡しました。
サーマン朝(874~999年)
アム・ダリア南、バルフ地方の豪族サーマン家のナスル1世が、アッバス朝から独立して開いた王朝。
ナスル1世はサマルカンドを都とし、弟のイスマイル・サーマニ(在位:892~907年)をブハラに派遣してホラサン攻略の拠点としました。
ナスル1世の死後、イスマイルは都をブハラに移して王位につき、サッファール朝を倒してホラサンを支配下におさめます。しかし10世紀後半から内乱により弱体化。
ガズナ朝とカラハン朝によって滅ぼされました。
サーマン朝のもとではイラン文化とイスラム文化の融合が進み、ペルシャ語の表記にアラビア文字が用いられるようになったほか、ルーダキー、ダキーキーらの詩人が登場。
ペルシャ文学が開花しました。
ブハラ(ウズベキスタン)
ブワイフ朝(932~1055年)
カスピ海の南、ダイラム地方の軍人であったアフマドが、アッバス朝のカリフから実権を奪取して樹立した王朝。
ブワイフ家のアリー、ハサン、アフマドの三兄弟はズィヤール朝のもとで勢力を拡大し、イラン南部に進出しました。
946年に末弟のアフマドがアッバス朝の混乱に乗じてバグダッドに入城。
カリフから大アミールに任命されイスラム法執行の権限を得ました。
これによりカリフの権威は形骸化するとともに、イスラム教におけるスンナ派とシーア派の力関係が逆転します。
その後、王族間の権力争いにより分裂傾向が強まり、やがて東方より侵攻してきたセルジュク朝によって滅ぼされました。
ガズニ朝(962~1186年)
マムルーク(トルコ人奴隷)出身でサーマン朝の軍人であったアルプティギーンがアフガニスタンのガズニに興した王朝。
第5代君主であったスブクティギーンはペシャワールに進出します。
その息子マフムード(在位:997~1030年)の時代にはサーマン朝を倒してホラサンを支配下におさめ、更に北インドに侵攻して最盛期を迎えました。
マフムードの死後、セルジュク朝に敗れてホラサンを失い、その後ゴール朝にガズニを奪われ滅亡しました。
セルジュク朝(1037~1157年)
トルコ系遊牧民オグズ族の一派であるセルジュク家のトゥグリル・ベク(在位:1037~1157年)が、ホラサン地方のニシャープールに樹立した王朝。
トゥグリル・ベクは1055年、アッバス朝カリフの救済を名分にブワイフ朝を排してバグダッドに入城し、スルタンの称号を授かりました。
第3代君主マリク・シャー1世の時代に全盛期を迎えますが、ビザンツ帝国と対峙し、十字軍が派遣されることになります。
12世紀半ばを過ぎると分裂が始まり、イルハン朝に吸収され消滅しました。
ゴール朝(1148~1206年)
ガズニ朝の支配下にあったゴール地方(アフガニスタン中部)のアラー・ウッディン・ムハンマドが、ガズニを奪って樹立した王朝。
1186年、ギヤース・ウッディン・ムハンマドとその弟シャーブはラホールに逃れていたガズニ朝を滅ぼし、ホラズム朝からホラサンを奪い領土を拡大します。
更に北インドに侵攻し、これを傘下に収めるとイスラム教の布教に努めました。
1206年にギヤース・ウッディンが暗殺されるとゴール朝は分裂状態に陥り、北インドではマムルーク(トルコ人奴隷)出身の部将、クトゥブ・ウッディン・アイバクが奴隷王朝を興して独立。
弱体化したゴール朝はホラズム朝に併合され消滅しました。
ホラズム朝(1077~1220年)
セルジュク朝の支配下にあったホラズム地方の太守、アヌーシュ・デギーンが興した王朝。
アヌーシュ・デギーンの死後、太守を継いだ息子のクトゥブ・ウッディン・ムハンマドはホラズム・シャーを名乗りました。
第6代君主アラー・アッディン・テキシュはイランに侵攻してセルジュク朝を倒し、アッバス朝カリフからスルタンの称号を得ます。
その息子アラーウッディン・ムハンマドの時代にはホラサン地方に侵入したゴール朝を撃退してヘラートを奪い、更に西カラハン朝を滅ぼしてサマルカンドに遷都。
1215年にはゴール朝を滅ぼし最盛期を迎えます。
しかしアラー・アッディンの死後、対立するモンゴルの攻撃を受け滅亡しました。
イルハン朝(1258~1336年)
モンゴル帝国のモンケ・ハンの命を受けた弟のフラグはイランに遠征し、次いでバグダッドを占領してアッバス朝を倒しました。
モンケ・ハンが急死しフビライとアルクブケが後継者となったことを知ったフラグ・ハン(在位:1260~1265年)はイランにとどまりイルハン朝を樹立。
息子のアバカはイランを中心にイラク、シリアに進出し、エジプトのマムルーク朝と対峙しました。
1278年にはセルジュク朝から分かれた小アジアのルーム・セルジュク朝を支配しますが、北方のキプチャク・ハン国とコーカサスの領有をめぐって対立。
第7代君主ガザン・ハン(在位:1295~1304年)はイスラム教に改宗し、イラン人のラシッド・ウッディンを宰相に登用してイラン化を進めます。
第9代アブー・サイードの死後に後継者争いによる分裂によって弱体化。ティムール朝に吸収され消滅しました。
アルゲ・タブリーズ(タブリーズ)
ムザッファル朝(1357~1393年)
イルハン朝下でメイボドの代官を務めていたアラブ人、シャーラーフ・ウッディン・ムザッファルの息子ムバーリズ・ウッディン・ムハンマドがヤズドに興した王朝。
イルハン朝が衰退するとムバーリズ・ウッディンはケルマンに進出。
1353年にはシラズ、イスファハンを占領し、イラン南部を支配しました。
ムバーリズ・ウッディンを退位させて王位に就いた息子のシャー・シュジャーの時代にはイラン北西部に侵攻し、ムザッファル朝は最盛期を迎えます。
しかしシャー・シュジャーが没してからは分裂状態に陥り、1387年にはティムール朝の支配下に入りました。
その後、キプチャク・ハン国との争いによってティムール軍が撤退。
第4代君主のシャー・マンスールはシラズ、イスファハンを奪還しますが、再びティムール軍の侵攻にさらされ滅亡しました。
ティムール朝(1369~1500年)
モンゴル帝国を構成するチャガタイ・ハン国から分かれた西チャガタイ・ハン国の部将、ティムール(在位:1370~1405年)により建国された王朝。
ティムールはホラズムを征服して中央アジア一帯を支配し、その後ムザッファル朝倒してイラン全土を制圧します。
続いてインドへ侵攻しデリーを占領。更にマムルーク朝からイラク、シリアを奪った後、1402年のアンカラの戦いでオスマン帝国を破り、オリエント一帯を支配する大帝国を築きました。
明への遠征中にティムールが病死すると、後継をめぐる内紛が発生。
1409年にサマルカンドを征服したシャー・ルフはホラサン地方のヘラートを拠点にティムール朝の再統一に乗り出します。
シャー・ルフの時代、明との通商が開かれイスラム文化が発展しました。
しかしシャー・ルフの死後、再び内紛が起こってサマルカンド政権とヘラート政権が分立する状態になり、やがてトルコ系遊牧国家のシャイバニ朝によって滅ぼされました。
サマルカンド(ウズベキスタン)
黒羊朝(1378~1469年)
イルハン国の流れを汲むジャイラル朝の配下にあったトルクメンのバイラム・ホジャが、イラク北部のモスールを中心とするディヤルバクル地方に樹立した王朝。
第3代君主カラ・ユースフの時代、ティムール朝の侵攻により領土を失いましたが、ティムールの死を好機としてアゼルバイジャンを奪い、更にイラクに進んでバグダッドを占領。
ジャイラル朝を滅亡させました。
1420年、ティムール朝のシャー・ルフはアゼルバイジャンまでの東方の地域を黒羊朝から奪還。
第4代君主ジャハーン・シャーにアゼルバイジャンを統治させる代わりにティムール朝の総主権を認めさせました。
シャー・ルフの没後、ティムール朝は混乱し、その機に乗じたジャハーン・シャーはイラン高原中部からホラサン地方に侵攻して勢力を拡大します。
1467年、白羊朝を討つべく進撃中にジャハーン・シャーが戦死。黒羊朝は分裂し、白羊朝に吸収されました。
マスジェデ・キャブード(タブリーズ)
白羊朝(1378~1480年)
トルクメンのバヤンドル族でティムール朝の下でディヤルバクル(アナトリア東部)を支配していたカラ・ユルク・オスマンが開いた王朝。
ティムールの死後、ティムール朝に敗れて弱体化していた同じトルクメンの黒羊朝が再び勢力を拡大させます。
第5代君主ウズン・ハサン(在位:1453~1478年)は黒羊朝とティムール朝との争いに乗じて勢力を拡大し、1467年にはモガン平原で黒羊朝のジャハーン・シャーを殺害。
黒羊朝の領土を次々と併合します。
更にティムール朝のアブー・サイードを破ってイラン西部の支配権を確立。
アナトリア東部からイラク、アゼルバイジャン、イラン西部を支配下におさめ、最盛期を迎えました。
しかし、ウズン・ハサンの死後、王位をめぐって内紛が起こり弱体化。
アルデビルに興ったサファヴィー朝に首都タブリーズを奪われ滅亡しました。
近世以降
サファヴィー朝(1502~1736年)
イラン北西部のアルデビルにあったサファヴィー神秘教団の指導者イスマイル1世が樹立した王朝。
イスマイル1世(在位:1501~1524年)はトルクメンの騎馬集団キジルバシュを率いて白羊朝を倒し、次いでシャイバニ朝をホラサンで破ってイラン全土を制圧しました。
タブリーズを首都にイスラム教シーア派の一派である十二イマーム派を国教としますが、スンナ派を信奉するオスマン帝国の侵攻を受け、チャルディランの戦いに敗れてタブリーズを奪われます。
イスマイル1世の息子、タハマスプ1世は首都をカズヴィンに移し、コーカサス南部に侵攻。
第5代君主アッバス1世(在位:1588~1629年)の時代にはオスマン帝国からアゼルバイジャンとイラクを奪還して最盛期を迎えました。
アッバス1世は軍事を整えて中央集権を確立。
1597年にはイスファハンに遷都するとともに貿易を振興し、「イスファハンは世界の半分」といわれるほどの繁栄を築きました。
しかしアッバス1世の死後、王朝は衰退。
1722年、ミール・マフムード率いるアフガン人にイスファハンを占領され、その支配下に入りました。
その後、宮廷を動かしていた部将のナーディル・クリーがアフシャル朝を建国。サファヴィー朝は消滅しました。
イマームの広場(イスファハン)
※カジャール朝期とパフラヴィー朝期に製作された絨毯には、ペルシャ帝国の最盛期を築いたアッバス1世の肖像を織り出したペルシャ絨毯が多く見られます。
しかし、1979年のイラン革命後は皇帝を讃えることは反革命的であるとされて姿を消してしまいました。
ラバー産(20世紀初頭)
アフシャル朝(1736~1796年)
サファヴィー朝第11代君主、アッバス3世の摂政であったナーディル・クリー(在位:1736~1747年)が興した王朝。
トルコ系アフシャル族出身のナーディルは、オスマン帝国やアフガン人のホータキー朝に奪われた領土の大半を奪還し、宮廷内における実権を掌握します。
彼はアッバス3世を退位させ、ナーディル・シャーを名乗って即位。
マシャドを都としてアフシャル朝を開くと、バルーチスタンからインドに侵攻。
ムガール帝国の首都デリーを占領し、「孔雀の玉座」など多くの戦利品を持ち帰りました。
暴君として知られるナーディルが1747年に暗殺されると、イラン西部にザンド朝が勃興。
アフシャル朝は衰退し、やがてアガー・ムハンマドのカジャール朝によって滅ぼされました。
孔雀の玉座(イラン宝石博物館蔵)
ザンド朝(1750~1795年)
ザンド族の族長、カリーム・ハーン(在位:1750~1779年)がイラン南部のシラーズを都として起こした王朝。
カリーム・ハーンはアフシャル朝のナーディル・シャー暗殺後の混乱に乗じ、最後のサファヴィー朝君主アッバス3世の孫、イスマイル3世をシャーに擁立し、自らは摂政となって傀儡支配を行いました。
アフシャル朝が支配するホラサン地方を除いたイランを領有し、更にアゼルバイジャン、イラク南部に進出します。
シラズ、イスファハンの復興を進めるとともに農業や英国との貿易を振興して繁栄を見せたものの、カリーム・ハーンが没すると後継者争いが起こり弱体化。
幽閉されていたシラズを脱したアガー・ムハンマド・ハーンが興したカジャール朝によって滅ぼされました。
キャリム・ハーン城塞(シラーズ)
カジャール朝(1779~1925年)
トルクメンのカジャール部族連合の指導者であったアガー・ムハンマド・ハーン(在位:1779~1797年)が興した王朝。
ザンド朝に囚われていたアガー・ムハンマドはキャリーム・ハーンの死後、シラズを脱するとカジャール部族連合を率いてイラン北部に進出。
ザンド朝を倒し、テヘランで即位しました。
彼はホラサンのアフシャル朝を滅ぼしサファヴィー朝の失地回復を成し遂げます。
1797年にアガー・ムハンマド・シャーが暗殺されると、グルジアの領有をめぐってロシアと対立。
二度の戦争に敗れてコーカサス地方の大半を失いました。
更にバクー油田の利権獲得をもくろむ英国がイランに進出。
イランは英露の反植民地と化します。
民衆の不満はバーブ教徒の乱(1848年)、タバコ・ボイコット運動(1892年)、立憲革命(1905年)となって現れ、国内は混乱。
地方政権が乱立する状態となり、無政府状態に陥りました。
1921年、ペルシャ・コサック旅団長のレザー・ハーンがクーデターにより実権を掌握。
アフマド・シャーを退位させパフラヴィー朝を興しました。
ゴレスタン宮殿(テヘラン)
パフレヴィー朝(1925~1979年)
クーデターにより実権を得たペルシャ・コサック旅団長、レザー・ハーン(在位:1925~1941年)大佐がカジャール朝を廃して樹立した王朝。
アフマド・シャーを退位させたレザー・ハーンは、「シャーハンシャー」(諸王の王)を名乗って即位。軍と議会を掌握して法制などの近代化を進めるとともに、女性の社会進出を奨励するなど世俗化を図りました。
レザー・シャー
1935年には国名をイランに改めてササン朝の復活を目指しますが、第二次世界大戦が勃発すると親ナチスであったレザー・シャーはイランに侵攻してきた英ソによって退位させられ、息子のモハンマド・レザーが帝位につきます。
彼はオイルマネーの独占と秘密警察を用いた独裁を背景に「白色革命」を断行。
急速な西欧化を目指しました。しかし、これは貧富の差を拡大させる結果を招き、国民の不満が鬱積。
ルーホッラー・ホメイニ師を頂くイラン革命が起こるとエジプトに亡命し、王朝は消滅しました。
モハンマド・レザー・シャー
イスラム共和国(1979年~)
イラン革命により屋折れたパフレヴィー朝に代わって誕生した共和制国家。
パフレヴィー朝のモハンマド・レザー・シャーによる白色革命が招いた経済格差の拡大は、多くの国民に帝政に対する不満を鬱積させました。
それはイスラムへの回帰を求める運動へと繋がり、帝政を批判してイランを追われた反体制派の指導者、ルーホッラー・ホメイニ(在任:1979~1989年)師は亡命先のパリからそれを扇動します。
ルーホッラー・ホメイニ
1978年1月、ホメイニ師に対する中傷記事が新聞に載ったことをきっかけにクムで暴動が発生。
暴動は各地に拡がり、軍や警察の発砲により多くの死傷者が出る事態に発展しました。
もはや収拾は困難と悟ったシャーは家族とともにエジプトに亡命。
ホメイニ師が帰国して政権の座に就き、国民投票の結果イスラム共和国が成立しました。
1979年11月、米国がモハンマド・レザーの入国を受け入れたことからテヘランでは米国大使館占拠事件が発生し、それを契機にイランと米国は国交を断絶し今日に至っています。
イラン革命
※革命後のイランではパフレヴィー朝のシャーの肖像はもちろん、帝室の紋章である太陽を背負い剣を手にしたライオン像(通称サン・ライオン)を絨毯のデザインに用いることは禁じられていました。
それが解禁されるのは1997年に、穏健派として知られたモハンマド・ハタミ大統領が就任してからのことです。
サン・ライオン