ペルシャ絨毯の産地
わが国で知られているペルシャ絨毯の産地といえば、
俗に「五大産地」とよばれるイスファハン、カシャーン、クム、タブリーズ、ナインに
いくつかの町や村を加えた十数ほどがせいぜいでしょう。
しかし、それらのほかにもペルシャ絨毯の産地はイラン全土にたくさんあり、
細かく分ければ数百にも上るとさえ言われているのです。
本ページでは日本で知られている産地はもちろん、
他のサイトではまず紹介されることのないマイナー産地をも含めた
100以上の町や村について解説します。
※部族が製作するペルシャ絨毯については【トライバルラグの産地(部族)】をご覧ください。
イラン北西部のペルシャ絨毯産地
アザルシャハル
アザルシャハルはイラン北西部、東アゼルバイジャン州にあるペルシャ絨毯産地です。
アザルシャハル郡の郡都で人口が約5万人の小さな町。
オルミエ湖とサハンド山の間に位置するこの町は、かつてトゥファルカンと呼ばれていました。
鉱業が盛んで、近郊のダシュカサンデ採掘される大理石は「アザルシャハル・レッド」「アザルシャハル・イエロー」で有名です。
タブリーズへは40キロほどと近く、かつてはタブリーズ産の廉価品ともいうべき絨毯が製作されていました。
タブリーズ産に比べると織りはかなり粗く、16万ノットほど。
しかし丈夫で安価であったため、欧米に向けて大量に輸出されました。
町の工業化に伴い絨毯の生産はほとんど行われなくなりましたが、中古品が市場に多く出回っており、今日でも「タブリーズ産」として格安で販売されているものをよく見ます。
トルコ結び、ダブル・ウェフト。
アハル
アハルはイラン北西部、東アゼルバイジャン州にあるペルシャ絨毯産地です。
アハル郡の郡都で、サバラン山の北麓、タブリーズの北東75キロに位置する町です。
アハルにおける絨毯製作はタブリーズの職人の指導を受けたヘリズ同様、19世紀末に始まったと考えれられます。
アハルで産出される絨毯はヘリズ産と同じ作りでデザインもよく似ているため「ヘリズ産」として取引されることもしばしば。
しかし、ヘリズ産に比べると文様は曲線的で、柔らかな印象です。
八つの花弁を持つ大きなメダリオンを据えたメダリオン・コーナー・デザインが大半。
ヘリズ産同様その堅牢さから欧米の市場で人気があり、大きなサイズ中心です。
トルコ結び、ダブル・ウェフト。
アルデビル
アルデビルはイラン北西部、アルデビル州にあるペルシャ絨毯産地です。
アルデビル州の州都で、サバラン山の麓、標高1500メートルにある高原都市。
夏には避暑地として多くの観光客が訪れ、とりわけアルデビルの西29キロにあるサル・エインはイラン有数の温泉リゾートとして人気。
人口は約65万人で、住民の大半がアゼリーです。
町の歴史はアケメネス朝にまで遡り、アルデビルの名はゾロアスター教の聖地を意味する「アルタヴィル」に由来するとも言われます。
またこの町は、やがてサファヴィー朝を興すこととなるサファヴィー神秘教団発祥の地としても知られ、市内には教団の開祖シェイフ・サフィ・ウッディーンを祀る霊廟があります。
ペルシャ絨毯の最高傑作といわれる「アルデビル絨毯」は、かつてこの廟に納められていたもの。
アルデビル絨毯の名は廟があるこの町に由来しています。
もともとアルデビルで産出される絨毯は織りの粗い典型的なビレッジ・ラグでした。
第二次世界大戦中、コーカサスが油田地帯をめぐる独ソの激戦の舞台となり、そのためシルワン産をはじめとするコーカサス絨毯が市場から姿を消しました。アルデビルでコーカサス風の絨毯が製作されるようになりました。
絹の産地として知られるだけあって、パート・シルクの技法を用いた作品もよく見かけます。
1970年代からはタブリーズに倣ったヘラティ文様の絨毯が製作され始めました。
トルコ結びで、ニム・ルール・バフトとルール・バフトがあります。
カラジャ
カラジャはイラン北西部、東アゼルバイジャン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ヘリズ郡にある人口1000人ほどの小さな村。
州都タブリーズからは45キロほどで、タブリーズからアルデビルへと向かう途上にあります。
カラジャで産出される絨毯は典型的なビレッジ・ラグで、フィールドを大きな二種類のメダリオンと幾何学的な花葉文様で飾ったデザインが有名です。
メダリオンは鉤状の飾りのついた六角形のメダリオンの上下に四角形のメダリオンを連結したデザインがほとんど。
シングル・ウェフトの構造で、横糸には青灰色の木綿が使用されるのが一般的ゆえ、ときにハマダン地方の絨毯と間違われることもありますが、色はヘリズ産とほぼ同じです。
丈夫で耐久性があり安価なため実用に向いています。
ノットはトルコ結び。
コルトク
コルトクはイラン北西部、ザンジャン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ザンジャン郡にある村で人口約1300人。
10の村々が集まるデスターン・コルトク(コルトク農業地帯)にあり、住民の大半がクルドのハリバイ族です。
大きなサルトランジが羽を広げた鳥のように見える、いわゆる「バード・ビジャー」の流れを汲むデザインが特徴。
ノットはトルコ結びで、ダブル・ウェフトの構造です。
ゴガルジン
ゴガルジンはイラン北西部、クルディスタン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ビジャーの東に隣接する村で、この村で産する絨毯は、フィールドにヘラティ文様を配したメダリオン・コーナー・デザインが大半。
ビジャー産によく似ていますが、やや幾何学的で武骨なのが特徴。
トルコ結びで、ダブル・ウェフトの構造です。
サラブ
サラブはイラン北西部、東アゼルバイジャン州にあるペルシャ絨毯産地です。
サラブ郡の郡都で人口約4万5000人。
サバラン山とボズクーシュ山の狭間に位置するこの町は、アゼルバイジャン地方最古の町の一つとされており、近郊には紀元前9世紀頃から前6世紀にかけてアナトリアに存在したウラルトゥの碑文が残っています。
1747年にシャカーキ族のアリー・ハーンが設立したサラブ・ハン国の首都となりますが、アゼルバイジャンとトランス・コーカサスの領有をめぐって帝政ロシアとカジャール朝ペルシャの間で行われた第一次ロシア・ペルシャ戦争の末、カジャール朝の支配下に置かれて1828年にサラブ・ハン国は消滅しました。
19世紀にサラブで製作されたとされる絨毯は「セラピ」の名で呼ばれます(上の画像)。
サラブ絨毯が英国に輸入された頃、1876年にウェールズ公が軍艦セラピス号に乗艦してインドに旅行したことから、サラブの形容詞形であるサラビがセラピと呼ばれるようになりました。
ヘリズ産に比べると明るい色に特徴があり、キャメル・ヘアを使用した作品を多く見かけます。
キャメル・ヘアは「駱駝の毛」と説明されることが多いのですが、正しくは「駱駝色の羊毛」。
最近ではマシャエキ・サルーク(『サルーク』を参照)に似たヘラティ文様の絨毯を製作されるようになりました。
縦横糸には木綿が使用されますが、第二次世界大戦以前に製作されたものにはウールを用いたものが多く見られます。
トルコ結び、ダブル・ウェフトです。
ザンジャン
ザンジャンはイラン北西部、ザンジャン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ザンジャン州の州都で、人口約52万人。
住民のほとんどはアザリー(アゼルバイジャン人)です。
カフラン山脈の南に位置し、種なし葡萄の産地として有名。
またイラン有数の手工芸品の産地としても知られ、絨毯のほかチャルークやマリーレと呼ばれるサンダル、銀細工、飾り皿、刃物などの伝統工芸が盛んです。
現在はタブリーズに次ぐ産業都市として重要な役割を果たしており、テヘランからは高速道路で接続されています。
この町の歴史は古く、プトレマイオスの地理書には「アガンザナ」として登場しています。
ササン朝のアルデシール1世が再建して「シャヒーン」となり、その後「ザンギャン」と呼ばれるようになって、ザンジャンの名はこれをアラビア語の語型に当てはめたものとされます。
またこの町は5つの部族の地を意味する「ハムセ」とも呼ばれていました。
ザンジャンは1850年に起こった「バーブ教徒の乱」の舞台になったことで有名。
政府の弾圧に対してモラー・モハンマド・アリー・ザンジャニ率いる2000人のバーブ教徒が蜂起し、霊廟へ立てこもって政府軍と交戦。
長期にわたる包囲戦の末、鎮圧されました。
ザンジャンで産出される絨毯はクルドの影響を受けたものが多く、とりわけビジャーに近い地域で製作される俗に「ザンジャン・ビジャー」と呼ばれる絨毯は、ビジャー産に似た重くて丈夫な造りで「ビジャー産」として売られているのをよく見ます。
しかしビジャー産ほど固くはなく、色もやや暗め。
デザインもビジャー絨毯に倣ったヘラティや薔薇文様が一般的ながら、ビジャー産ほど複雑ではありません。
ザンジャンでは1980年代末からはクム産シルク絨毯のコピー品が製作され始め、今日ではその多くが「クム・シルク」として販売されています。
ザンジャン絨毯はウール、シルクともにノットはトルコ結びでダブル・ウェフトの構造。
セネ
セネはイラン北西部、クルディスタン州にあるペルシャ絨毯産地です。
クルド人の町、サナンダジの旧称ですが、絨毯産地の呼称としては一般的にセネが使われます。
元来、セネ産絨毯は「タフト・バフト」とよばれる構造による薄くて柔らかな仕上りが特徴でした。
イランイラク戦争時、イラクとの国境付近に位置する同地の住人たちが内陸に近いビジャー周辺に逃れたため、以後製作されたものはビジャー産に似た厚くて硬い作りになっています。
タブリーズ
タブリーズはイラン北西部、東アゼルバイジャン州にあるペルシャ絨毯産地です。
東アゼルバイジャン州の州都で人口は約140万人。
サハンド山の北麓、標高1350mに位置する緑豊かなこの町は、テヘラン、マシャド、イスファハンに次ぐイラン第四の都市で、住民の多くはアゼルバイジャン語を母語とするアゼリー(アゼルバイジャン人)です。
タブリーズ周辺は肥沃な農業地帯であり、農産物加工のほか,絨毯製造、皮革加工、製靴などの産業が盛ん。
町の歴史はササン朝の時代にまで遡り、タブリーズの名は、ササン朝の傘下にあったアルメニアの王ティリダテス3世(パルティア王のティリダテス3世とは別人物)により、297年に「タリウス」と名付けられたことに由来すると言われます。 その後、アラブ人の侵攻により町は荒廃しますが、『千夜一夜物語』で有名なアッバス朝第5代君主(カリフ)のハールーン・アッラシードの妻の一人、ゾバイデが再建。
1256年にモンゴル人のフラグ・ハンがイランを制圧するとイルハン朝の都となりました。
イルハン朝の時代にこの町を訪れたマルコ・ポーロは『東方見聞録』の中で「タブリーズは大都会で金糸、銀糸で織った高価な布を産し、バグダッド、インドから商品が運びこまれる」と記しています。
続く黒羊朝、白羊朝、サファヴィー朝でも都とされますが、シルクロードの要衝でありトルコ国境にも近いタブリーズはオスマン朝の侵攻を受け、1514年のチャルディランの戦い後は、暫く首都であるこの町がオスマン朝に占領されるという事態に至りました。
タハマスプ1世の時代、1548年に行われたカズビンへの遷都の背景にはこうした理由があったのでした。
サファヴィー朝に復してからは交易都市として大いに栄えますが、その後も二度に渡りオスマン朝による占領を経験します。
カジャール朝の時代には第二次ペルシャ・ロシア戦争によるトルコマンチャイ条約の結果、コーカサス地方とともにロシアに割譲され、1828年にイランに復帰するものの、20世紀に入るとイラン立憲革命の震源地となり、また第一次世界大戦時にはオスマン朝やロシアに占領されるなどしました。
第二次世界大戦直後の1945年12月、ソ連の支援を受けたアゼルバイジャン民主党がこの町にアゼルバイジャン国民政府を樹立。
民族自決を唱え独立国家を宣言します。
しかしソ連が石油利権と引き換えに離反し、更にパフラヴィー朝が強硬策に転じ軍を進めたことにより、アゼルバイジャン国民政府は一年後に崩壊しました。
タブリーズではサファヴィー朝期以前に絨毯製作が行われていたと言われ「狩猟文様絨毯」や「チェルシー絨毯」など、現存する16世紀のペルシャ絨毯の中にもこの町で製作されたと推定されるいくつかの作品があります。
しかし、それらはトルコ結びではなくペルシャ結びを用いて製作されており、そのためタブリーズ説に疑問を抱く研究者もいます。
サファヴィー朝の滅亡とともに都市部における絨毯産業は途絶しますが、19世紀半ばにイランで微粒子病が発生してそれまでの主要な輸出品であった生糸の生産が滞り、またヨーロッパで絨毯ブームが起こったことを受け、タブリーズの商人たちの中には絨毯を輸出を始める者が現れます。
イラン国内に残る古い絨毯を買い集めてはトルコ北東部のトラブゾンまで陸路を運び、トラブゾンから船でイスタンブールに送っていました。
当時のイスタンブールは欧米からバイヤーが集まる中東一の国際貿易都市で、まさしく「東西の架け橋」でした。
やがて古い絨毯が品薄になったことにより、イランに進出した英国企業ジーグラー商会がスルタナバードに工房を構えて絨毯製作を開始。
それに触発されたタブリーズ商人は周辺のマランド、ホイやヘリズのみならず、遠く離れたマシャドやケルマンにまで出向いて絨毯工房を開設します。
そうしたタブリーズ商人の中でも「ハジ・ジャリリ」として知られるモハンマド・サデク・ジャリリや「20世紀最高の絨毯工房」と言われるアモグリ工房を開いたアブドル・モハンマドとアリー・ハーン兄弟の父、モハンマド・カフネモイはとりわけ有名。
また、アブドッラー・ガリーチーと息子のミールザ・アリー・アクバル・ガリーチーは1892年に開催された初の見本市に作品を出展し、好評を得たと言われます。
当時の絨毯作家は生糸商から転向した者が多かったため、この時期のタブリーズではシルク絨毯も多く製作されていました。
しかし、イラン経済の中心であったタブリーズも第一次世界大戦中のロシア軍による占領と、中央集権制を敷いたパフラヴィー朝の誕生とにより凋落。
絨毯取引の中心は首都テヘランに移りました。
第二次世界大戦中から終戦直後にかけてはソ連による占領、アゼルバイジャン国民政府を巡る混乱により更に衰退します。 しかし、戦後ヨーロッパが復興するにつれタブリーズ絨毯の需要は高まり、またモハンマド・レザー・シャーによる振興政策もあって生産量は増加してゆきました。
アッバス・アリー・アラバフやジャーファル・タギーザデ、ラッサム・アラブザデ、タバタバイらの絨毯作家が登場し、個性的な作品で知られるようになります。
タブリーズ絨毯はデザインの多彩さで知られていますが、とりわけ「リズ・マヒ」と呼ばれるヘラティ文様は有名。 ヘラティの名はかつてイランのホラサン地方に属する町であったヘラート(現在はアフガニスタン領)に由来したもので、ホラサンの伝統柄であったこの文様がイラン北西部や南西部に伝わったのは、ナーディル ・シャーの東征によるものとするのが定説です。
1990年頃からは「ナグシェ」と呼ばれるヨーロッパ風のゴージャスかつエレガントなデザインの作品や、絵画や写真を忠実に再現した「タブロー」が製作され始めました。
タブリーズ絨毯はすべてトルコ結び、ダブル・ウェフトで製作されています。
バクシェイシュ
バクシェイシュはイラン北西部、東アゼルバイジャン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ヘリズ郡にある村で、アジ・チャイ川流域の山岳地帯に位置するこの村は、ヘリズ地方におけるもっとも古い絨毯産地として知られています。
バクシェイシュにおける絨毯製作は19世紀後半、タブリーズ職人の指導により始まりました。
サファヴィー朝期に製作された絨毯のデザインを大胆かつ幾何学的にアレンジしたデザインが特徴で、コーカサス地方の絨毯に似たメダリオン・コーナーのほか、フィールド全体に動植物を配した遊牧民風のものや、イランでは「カフサデ」とよばれるプレイン・デザインの作品も見かけます。
ヘリズ地方の絨毯の中ではもっとも織りが細かく、艶のあるウールが使用されています。
トルコ結び、シングル・ウェフトの構造。
ビッケネ
ビッケネはイラン北西部、ザンジャン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ザンジャン郡にある村で、隣接するコルトク同様、クルドのハリバイ族が暮らしています。
ザンジャンとビジャーとの間に位置するこの村では、ビジャーに似た丈夫な作りの絨毯が製作されてきました。
大きなサルトランジを持つ六角形のメダリオンが特徴で、デザインはコルトク産によく似ていますが、色はザンジャン産に近く暗めです。
最近では、ビジャー絨毯の最高級品と言われるアフシャル・ビジャーを上回るほど高品質な作品が製作されるようになりました。
トルコ結び、ダブル・ウェフトです。
ビジャー
ビジャーはイラン北西部、クルディスタン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ビジャー郡の郡都で、標高1940メートルに位置するこの町は「イランの屋根」と呼ばれています。
人口は約5万人で、住民の大半がクルド人。
主に町の北側にはハリバイ族が、南側にはギャッルース族が暮らしていますが、町は古来ギャッルース族の勢力下にあり、かつてはビジャー・ギャッルースと呼ばれていました。
ビジャーはクルド語で「町」を意味するバジャールから派生した名です。
メディア王国の時代には既に近郊に城塞が築かれていますが、文献に登場するのはサファヴィー朝のイスマイル1世の時代からで、町となったのは19世紀に入ってからのことでした。
クルディスタンの要衝として、第一次世界大戦中は英露、トルコの争奪戦の舞台になります。
1918年には飢饉に襲われ、町の人口は2万人にまで激減しました。
なお、ビジャー郊外にはサファビー朝による強制移住を免れたアフシャルの子孫たちが暮らしています。
ビジャー絨毯は「ビジャー・クルディ」と「アフシャル・ビジャー」とに分けられます。
ビジャー・クルディはクルドのギャッルース族とハリバイ族が製作するもので、古い作品にはアラベスク文様やハルチャンギ文様、ゴル・ファランギ文様など様々なデザインがありますが、新しいものはヘラティ文様のほか、俗に「ローズ・ビジャー」と呼ばれる赤い薔薇の花をあしらった作品が主流。
縦横糸には木綿が用いられますが、アンティークにはウールを使用したものもあります。
アフシャル・ビジャーは郊外のアフシャルが製作するきわめて緻密な織りの絨毯で、ビジャー絨毯の最高級品。
六角形のメダリオンを配したヘラティ文様が主流ですが、タブリーズ風の曲線的なメダリオン・コーナーやオールオーバーの作品も見かけます。
ビジャー・クルディ、アフシャル・ビジャーともに特筆すべきはその重さと頑強さ。
「鉄の絨毯」とも形容される丈夫さの秘密は、水に浸した横糸を重い緯打具を用いて打ち込んでゆくことにあります。
理由を3本の横糸を縦糸に絡めるトリプル・ウェフトによるものとの説明を目にすることがありますが、アンティークをも含めビジャー絨毯の横糸はダブル・ウェフトが一般的。
染色にしても最近はクローム染料を使用するのが普通です。
ビジャー絨毯はすべてノットはトルコ結び。
ヘリズ
ヘリズはイラン北西部、東アゼルバイジャン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ヘリズ郡の郡都で、サバラン山の麓に位置する農業の町。
住民はトルコ系のアゼリー(アゼルバイジャン人)がほとんどです。
ヘリズにおける絨毯製作は、19世紀後半にタブリーズの絨毯職人の指導のもとで始まりました。
ヘリズ絨毯と言えば、大きな8弁のメダリオンとサルトランジを配したダイナミックな幾何学文様が特徴。
織りは粗いものの、その丈夫さからヨーロッパでとても人気があります。
丈夫さの理由はこの地域で産するウールにあるとされ、サバラン山が銅の鉱脈上にあるため、銅の成分を含んだ水が羊のウールを弾力性の高い高品質のものとしていると言われています。
ただし、初期に製作されたシルク絨毯(上の画像)はウール絨毯とは全く異なる緻密な織りの繊細なもので、当時のタブリーズ・シルク同様、曲線を用いたデザインの作品も見かけます。
ヘリズ・シルクはその希少さから高値で取引されるのが通常。
ウール絨毯、シルク絨毯ともにトルコ結び、ダブル・ウェフトの構造です。
ホイ
ホイはイラン北西部、西アゼルバイジャン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ホイ郡の郡都で、人口約20万人。
住民の多くはアゼルバイジャン人ですが、少数のイラン人とクルド人がいます。
ウルミア湖の北に位置し、果物、穀物、木材の生産が盛ん。
「ひまわりの町」の愛称で呼ばれるこの町は、かつて塩鉱山があったため、シルクロードの拠点となっていました。
町の歴史は3000年前にまで遡ると言われ、アルケサス朝パルティアの時代には帝国への玄関口として栄えたと伝えられます。
その後、多くのアルメニア人が入植しアルメニア教会の拠点の一つになりました。
1210年にジョージアに占領された後、14世紀にはホイと呼ばれるようになったと言われます。
1724年にはコンスタンチノープル条約によりオスマン・トルコに割譲されますが、ダンブリー・アゼリ一族の下で自治を成長させながら、ザンド朝の時代にはイランに帰依しました。
1828年のトルクメニスタン条約(1828年)により、アルメニア人はアラス川の北に移住します。
1910年、オスマン・トルコにより再び占領されるものの、トルコ人は1911年までにロシア軍により追放され、以後ホイはロシア軍の駐屯地が置かれます。
第二次世界大戦中は1946年まで残ったソビエト軍によって再び占領されました。
ホイにおける絨毯製作は19世紀後半に始まります。
かつてはタブリーズ絨毯に似た花文様が主流でしたが、最近では「リズ・マヒ」とよばれる細やかなヘラティ文様の絨毯を製作していて、ホイの絨毯バザールは隅から隅までこの文様の絨毯で占められるようになりました。
現在タブリーズで製作されているのは縦糸に絹を使用した高級品のみで、50ラジ以下のヘラティ文様の絨毯はすべてホイで製作されています。
トルコ結び、ダブル・ウェフト。
マラゲ
マラゲはイラン北西部、東アゼルバイジャン州にあるペルシャ絨毯産地です。
マラゲ郡の郡都で、住民の大半はトルコ系のアゼルバイジャン人。
サハンド山の南に位置するこの町は、近くのウルミエ湖に注ぐ二つの川に挟まれ、葡萄などの果物栽培が盛んです。
また「マラガ・マーブル」として知られる大理石の産地でもあります。
マラゲは古代の城壁都市で、現在も城壁の残骸と4つの門が残っています。
イルハン国の首都となり、町中にはフラグ・ハンが建設した石橋が残っています。
町の西方には、有名なマラゲ天文台の遺跡があります。
この天文台は13世紀半ば、フラグ・ハンの命によりシーア派の神学者であり、天文学者でもあったナセル・ウッディン・トゥーシーが建設したものと言われ、4万冊以上の蔵書を誇る図書館を併設していました。
また、有事の際には城塞として機能できる頑強な造りであったと言います。
近年、天文台跡には新しい天文台が建設されました。
マラゲ絨毯はマラゲ及び隣接するボナブ周辺で製作されています。
この地域では日本でバブル景気が起こった1980年代末からクム産を模したシルク絨毯が製作されるようになり、今日わが国で「クム・シルク」として流通している絨毯の半数以上を占めるまでになりました。
クムから取り寄せた下絵を用いているため外見上はそっくりですが、クム産に比べると品質は劣ります。
クム産よりも織りは粗く、パイルには絹糸(正絹)ではなく「絹紡糸」が使用されているためクム産ほどの光沢はありません。
また染色についても、工程が省略されているため色落ちしやすいという欠点もあります。
銘が入ったものが大半ですが、マラゲやボナムに工房はなく、銘はクムの有名絨毯作家の名をあとから付け加えたものゆえ注意が必要。
クムの有名工房の作品が格安で販売されている場合は、マラゲ産である可能性が高いと言えます。
そうした事実を承知の上であれば、マラゲ絨毯は手軽に高級シルク絨毯の雰囲気を味わえるものとして最適でしょう。
トルコ結び、ダブル・ウェフトです。
マララン
マラランはイラン北西部、東アゼルバイジャン州にあるペルシャ絨毯産地です。
州都であるタブリーズ市内の東にある地区。
タブリーズ大学を擁し、北にはアザード通りを挟んでヒヤーバーン地区、南にはモッファサドラ通りを挟んでサーリ・ザミーン地区があります。
マラランでは、かつてヘラティ(マヒ)文様のタブリーズ絨毯の最高級品が製作されていました。
しかし1960年代に始まる工業化の波に押され、イラン革命後の1980年代には生産を終えています。
トルコ結び、ダブル・ウェフトです。
マランド
マランドはイラン北西部、東アゼルバイジャン州にあるペルシャ絨毯産地です。
州都タブリーズの北西70キロに位置するマランド郡の郡都で人口約13万人。
この町の歴史は古く、イランがイスラム化される前のアルメニア王国の時代にまで遡ります。
当時マランドは「バクラケルト」とよばれていましたが、アルメニア人たちはこの地にノアの妻が埋葬されたと信じており、マランドの名は「母はここにいる」を意味するマランダに由来するものとも言われます。
やがたアラブ人の支配下に入ってイスラム化された後、815年から850年までマランドを統治したのはモハンマド・イブン・バイスという人物でした。
文学的才能に秀でていた彼はペルシャ文学を保護したことがアッバス朝の聖職者で学者でもあったタバリーが述べています。
19世紀末、タブリーズの絨毯商がこの町に進出し絨毯産業が興りますが、中でも「ハジ・ジャリリ」とよばれる絨毯商の活躍は大きかったと言えるでしょう。
ハジ・ジャリリは本名をモハンマド・サデク・ジャリリといい、19世紀末から20世紀初頭におけるタブリーズの絨毯界に多大な影響を与えた人物。
絨毯作家であったとも仲買人であったとも言われますが、カシャーンのハジ・モラーやイスファハンのアフマド・アジャミ同様、詳しいことはわかっていません。
今日マランドで製作されている絨毯はデザインにせよ素材にせよタブリーズ産と何ら変わることのない、きわめて高品質なものです。
50ラジが大半ですが、80ラジ以上の作品も存在しています。
メシキンシャハル
メシキンシャハルはイラン北西部、アルデビル州にあるペルシャ絨毯産地です。
メシキンシャハル郡の郡都で、人口約7万人。
住民のほとんどがアゼリー(アゼルバイジャン人)です。
サバラン山の北麓に位置し、質の良い鉱泉のほか世界最長の吊橋があることで有名。
かつては「ハイアブ」「オラミ」「バラビ」と呼ばれたこの町は、アラブ人による支配後に形成され、サファヴィー朝の時代に発展したと言われます。
この町で産出される絨毯はコーカサス風の幾何学文様を配した典型的なビレッジ・ラグ。
ランナーが多く、実用向きです。
ランベラン
ランベランはイラン北西部、東アゼルバイジャン州にあるペルシャ絨毯産地です。
タブリーズの北、約60キロにある村。
カラジャの北西に位置し、カラジャ産に似たスリー・メダリオンのデザインが大半です。
しかし、構造はカラジャ産とはまったく異なるダブル・ウェフト。
大きなサイズはなく、ドザール以下がほとんどです。
イラン北中部のペルシャ絨毯産地
カズビン
カズビンはイラン北中部、カズビン州にあるペルシャ絨毯産地です。
カズビン州の州都であり、アルボルズ山脈の南裾の標高1800メートルに位置し、古来テヘランとカスピ海沿岸や西部の高原地帯とを結ぶ交通の要衝となってきました。
町の歴史はササン朝期にまで遡り、250年にシャープール2世によって建設された要塞「シャード・シャープール」がその起源と言われます。
町は644年のアラブ軍の侵攻により陥落した後、11世紀末から13世紀までは郊外のアラムート城を拠点にイスラム教シーア派の分派イスマイル派から分かれたニザール派が独立政権を置いていました。
ニザール派はアサシン教団とも呼ばれ、指導者であったハサン・サッバーフはアラムート城からセルジュク朝の要人暗殺を指示したと伝えられます。
英語で暗殺者を意味する「アサシン」はこの教団が信者の洗脳に使用されたとされるハシシ(大麻)が語源。
13世紀、蒙古軍により町は破壊されますが、1548年、サファヴィー朝初代君主イスマイル1世は首都をタブリーズからカズヴィンに移し、第5代君主アッバス1世により1598年にイスファハンに遷都するまで都として栄えました。
両世界大戦期にはロシアの占領下に置かれ、また1921年にはパフラヴィー朝成立のきっかけとなるペルシャ・クーデターの発火点となります。
カズビンでは20世紀初頭に絨毯製作が始まりました。
カシャーン産やサルーク産によく似たデザインですが、第二次世界大戦後は米国に向けたケルマン風のプレイン・デザインの作品が製作されるようになります。
しかし、町が工業化されるにつれ生産量は減少し、1960年代に生産を終えました。
1930年頃までに製作されたものはきわめて高品質ながら、それ以降の作品は品質がやや劣ります。
カズビン絨毯はトルコ結びで製作されているため、ノットを見ればカシャーン産やサルーク産との判別は容易。
ダブル・ウェフトの構造です。
カラーダシュト
はイラン北中部、マザンダラン州にあるペルシャ絨毯産地です。
チャルース郡の郡都で、人口約1万2000人。
カスピ海に近いエルボルズ山脈の谷間に位置し、首都に近い避暑地として人気です。
住民の多くはマザンダラン方言を話すイラン人ですが、北西部から移住したクルド人もいます。
カラルダシュトで産出される絨毯はクルドとシャーサヴァン両方の特徴を持っています。
赤いフィールドには四角形や六角形のメダリオンが並べられ、濃紺のコーナーには鳥や動物を配したデザインが一般的。
ルリ絨毯に似ているものの縦糸には木綿が使用され、パイルはトルコ結びで結ばれています。
小さなものから大きなものまでさまざまなサイズがありますが、最近はほとんど製作されなくなっています。
ゴルガン
ゴルガンはイラン北中部、ゴレスタン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ゴレスタン州の州都で、人口約25万人。
かつてはアスタラバードと呼ばれていましたが、地震による被害を受け1937年にゴルガンに改称されました。
カスピ海沿岸に位置するこの町は、綿花、米、タバコの産地として知られています。
町の歴史は古く、ササン朝の時代にはヒュルカニアと呼ばれ、紀元前1000年頃には人が住んでいたと言われ、ズィヤール朝期には中心となりました。
カジャール朝発祥の地として知られますが、19世紀にはトルクメンの侵入に悩まされました。
ロシア革命以降、イスラム教スンニ派を信仰するトルクメンンの多くがイラン領内に移住し、現在もゴルガンにはトルクメンのヨムート族が多く暮らしています。
ゴルガンで産出される絨毯はヨムート族が製作する典型的なトルクメン絨毯で、カスピ海沿岸で産する絹を縦糸に使用した作品も見かけます。
最近ではカシュガイが製作するギャッベ風の絨毯も製作されるようになりました。
セムナン
セムナンはイラン北中部、セムナン州にあるペルシャ絨毯産地です。
セムナン州の州都で人口は約15万人。
住民は多様な方言を話すことから「方言の島」とも呼ばれます。
アルボルズ山脈とカビール砂漠の狭間に位置するこの町は、シルクロードの要衝として栄えてきました。
セムナンの名の由来についてはいくつもの説がありますが、町の人々は預言者ノアの子のうちのシム・アンナビとラム・アンナビの二人がこの地にやってきて「シムラム」と呼ばれるようになり、やがてセムナンになったと信じているようです。
この町の歴史は古代ゾロアスター教の時代まで遡ります。
ゾロアスター時代には「ヴェーン」「ヴェルネ」と呼ばれ、セレウコス朝期には「コメシュ」「ゴメシュ」と呼ばれていました。
アルケサス朝の時代になるとこの町付近に首都ヘカトンピュロスが置かれ、大いに栄えたと伝えられます。
その後、セルジュク朝の侵攻により破壊されますが、トルコ人たちはこの町を整備し、モスクなどを建設しました。
しかしモンゴルの侵攻によって再度破壊され、町が再建されるのはサファヴィー朝の時代になってからのことです。
カジャール朝の母体となったカジャール部族連合は古来セムナン、マザンダラン、ゴレスタン地方の山間部をテリトリーとしており、そのため一族の暮らすセムナンはカジャール朝の重要拠点となるに至りました。
更に新たに首都となったテヘランからイスラム教シーア派最大の聖地であるマシャドに至る幹線上にあったことから城塞が築かれ、町は発展を遂げます。
かくの如くカジャール朝と結びつきが深かったセムナンの住民がカジャール朝を倒したパフラヴィー朝に好感を抱くはずがなく、その懐柔策としてパフラヴィー朝は町の近代化を優先しました。
セムナンで絨毯製作が始められたのはテヘランと同時期、19世紀末のことです。
コチニール・レッドと濃紺を基調とした垢抜けた都会的なデザインで、テヘラン産とよく似ているため、判別が困難なものも多いのが実際。
セムナン産はテヘラン産に比べると織りが緩く、やや柔らかいのが一般的です。
第二次世界大戦を挟んで品質が低下しますが、町の工業化にともない、絨毯製作はほとんど行われなくなりました。
ペルシャ結び、ダブル・ウェフト。
テヘラン
テヘランはイラン北中部、テヘラン州にあるペルシャ絨毯産地です。
4000メートル級の峰々が連なるアルボルズ山脈の麓に広がるイランの首都で、全人口の10パーセント、680万人を超える人々が暮らす大都会。
また、世界史上に例を見ないイスラム革命の震源地となったことでも知られます。
テヘランは、サファヴィー朝時代に砦が築かれ、交易上の主要な街として栄えて居ました。
首都を宣言したのは1795年、カジャール朝のアーガー・モハンマド・ハーン。
20世紀初頭のパフラヴィー朝になると、現在の街の原形となる道路網の整備と高層ビルの建築が進められました。
砦は壊され、街は近代都市として整備されてゆきます。
しかし、オイルマネーによる繁栄と専制政治は、イスラム革命の引き金になり、王政に終止符を打つことになりました。
テヘランにおける絨毯製作は19世紀末に始まりました。
絨毯産業の復興期、テヘランでは緻密な織りの高級品のみが製作されていたようです。
救貧院で製作されることもあったものの、一般に首都における高い物価と人件費は販売価格に影響し、当時テヘラン絨毯は異常に高価であったといわれます。
それゆえ生産数は少なく、今日見かけることは稀です。
テヘラン絨毯殊に1920年代以降、カシャンやイスファハンの絨毯職人の指導を受け始めてからは、作風が大きく変わりました。
テヘランではイスラム革命の頃まで絨毯製作が続けられましたたが、今日現存するテヘラン絨毯のほとんどは第二次大戦以前に製作されたものです。
20世紀初頭におけるテヘランの絨毯作家にはハジ・マフムード・デジャファール、ファルシュチ、ジャムシードアミーニ。
意匠師にはハサン・ムサヴィ・シラート、ハサン・レザイ、モハンマド・ハサンバリザデ・ジャエイ、マスメ・ホセイニ、アクバル・アンダリブ、マンスール・タムソン、ジャーファル・パグダスト・サルドルーディらがいます。
ペルシャ結びとトルコ結びの両方がありますが、ダブル・ウェフトの構造です。
ベラミン
ベラミンはイラン北中部、セムナン州にあるペルシャ絨毯産地です。
テヘランの南東50kmに位置する大きな村。
カジャール朝のシャーは中央に反抗的な勢力を分散させるためイラン各地に移住させたのですが、その一部はベラミンの村に定着しました。
現在もベラミンの北部にはクルドとルリ、東部にはトルコ系のアゼルバイジャン人、南部にはアラブ人が暮らしています。
かつては各部族の伝統に基づく幾何学文様の作品が製作されていて、もっとも原形のデザインに近いと見られていました。
「ミナ・ハニ」とよばれる、ロゼットを斜めに繋いだ総文様が有名ですが、最近では都会風の洗練された作品が主流になっています。
ペルシャ結び、ダブル・ウェフト。
イラン北東部のペルシャ絨毯産地
カシュマール
カシュマールはイラン北東部、ラザビ・ホラサン州にあるペルシャ絨毯産地です。
カシュマール郡の郡都で、人口は約8万人。
かつては「タルシーズ」とよばれており、神秘教団の導師で作家・詩人でもあったシェイク・アフマド・ジャミ(1048~1141年)の出身地でもあります。
レーズンの産地としても知られています。
カシュマールで産出される絨毯は「ジル・ハキ」として知られる古代の壺や水差しを配したデザインが有名。
濃紺のフィールドにクリーム色もしくはライトブルーの組み合わせが多く見られます。
1970年代にカシャーン絨毯の価格が高騰してからはカシャーン風のメダリオン・コーナーのデザインが製作されるようになりました。
最近はもっぱら「ナグシェ」とよばれる花文様のタブリーズ絨毯や、ナイン絨毯に倣った品を製作しています。
良質なホラサン地方土着のホラサニ種とよばれる羊のウールが使用されており丈夫。
ペルシャ結びで、ダブル・ウェフトの構造です。
グーチャン
グーチャンはイラン北東部、ラザビ・ホラサン州にあるペルシャ絨毯産地です。
グーチャン郡の郡都で、人口約10万人。
住民にはクルド人が多く、その他イラン人、トルクメン人がいます。
この地にクルド人がいるのはウズベク人の侵攻への防波堤とするためサファヴィー朝のアッバス1世によってラシュト、ベラミン周辺から強制移住させられたから。
コペト山脈とシャー・ジャハーン山脈の谷間1200メートルに位置し、トルクメニスタンとの国境に近いグーチャンでは、穀物栽培が盛んで、イラン革命前はワインの産地としても有名でした。
また、1747年にアフシャル朝のナーディル・シャーが警護隊長であったサラ・ベイに暗殺された地としても知られています。
1893年に地震に見舞われ1万人の死者を出して町は壊滅し、現在の町は1895年に約10キロ離れた場所に移されました。
グーチャンで産出される絨毯はタフト・バフトの薄い作りで、クルドならではの大胆な幾何学文様のほか、近くのトルクメンやバルーチの影響を受けた作品も多く見かけます。
パイルや縦糸にカスピ海沿岸産の絹糸を使用した作品も珍しくありません。
また、オール・シルクの絨毯も製作されており、表裏の両面にパイルのある「ダブル・フェイス」も僅かながら見かけます。
ノットはトルコ結びとペルシャ結びの両方があります。
ゴナーバード
ゴナーバードはイラン北東部、ラザビ・ホラサン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ゴナーバード郡の郡都で、人口約4万人。
かつてジュイマンドと呼ばれていたこの町は、ゴナーバード修道僧団の拠点として、またイランにおけるサフランの主要産地の一つとして知られています。
ティール・マヒ(ジバード)山の北麓の砂漠地帯に位置するゴナーバードにはアケメネス朝期に造成された全長33キロに及ぶカナート(地下水路)があり、ユネスコの世界遺産に登録されています。
近くのタバス同様、1978年の大地震により町は大きな被害を受け、復興の一環としてイラン絨毯公社の指導により絨毯製作が始まりました。
イスファハン風のオーソドックスなメダリオン・コーナーやオールオーバーのデザインがほとんどですが、縦糸には木綿が使用されており、織りはイスファハン産ほど細かくありません。
ペルシャ結び、ダブル・ウェフト。
サブゼバー
サブゼバーはイラン北東部、ラザビ・ホラサン州にあるペルシャ絨毯産地です。
サブゼバー郡の郡都で人口約20万人。
かつて「ペイハグ」と呼ばれていたこの町は、マシャドからテヘランへと至る幹線上に位置し、葡萄とレーズンの産地として有名です。
町の歴史は古く、エラム王国の時代にまで遡ると言われます。
14世紀にティムールが侵攻し、町は壊滅。
9万人にも及ぶ住民が虐殺され、すべての男性は斬首の後、切断された頭部で三つの山が築かれたと伝えられます。
1507年にヘラートを占領してティムール朝を滅ぼしたモハンマド・シャイバーニー・ハンのウズベク・ハン国がホラサンに侵攻。
メルヴの戦いでイスマイル1世のサファヴィー朝軍を破り、サブゼバーはウズベク・ハン国の支配下に入ります。
サファヴィー朝第5代君主アッバス1世はイスファハンに遷都した翌1598年、ホラサンに軍を進めてこれを奪還し、サブゼバーは90年ぶりにペルシャに復帰しました。
19世紀末、タブリーズ商人の指導のもとに絨毯製作を始めたマシャドとほぼ同じ時期にサブゼバーにおける絨毯産業は興ったものと考えられます。
サブゼバーで産する絨毯はマシャド産に似たやや暗めの赤が特徴。
フィールドにはゴル・ファランギの花束が配置されたデザインをよく見かけます。
マシャド産に比べると織りは粗いのですが、それだけ安く、丈夫なこともあってヨーロッパで人気です。
ペルシャ結び、ダブル・ウェフト。
ニシャープール
ニシャープールはイラン北東部、ラザビ・ホラサン州にあるペルシャ絨毯産地です。
「ホラサンの屋根」とよばれるビナールード山脈の南麓、標高1200メートルの盆地に位置する、マシャドに次ぐ東イラン第二の都市です。
イランが生んだ偉大な詩人オマル・ハイヤームの故郷であるこの町は、古来、陶磁器やトルコ石の産地として有名。
ニシャープールの名が示す如く、町は3世紀中頃にササン朝第2代君主シャープール1世によって建設されました。
9世紀、ターヘル朝が興るとその都となり、陶磁器の生産が盛んになります。
1037年、トゥグリル・ベグはニシャープールに宮殿を建設し、スルタンを名乗ってセルジュク朝を興しました。
ニザーミーヤ学院がつくられるなど、東イランの学問、政治、文化、宗教の中心地として繁栄。
ところが1208年にこの地を大地震が襲い、また1221年にはチンギス・ハンの娘婿がこの地で殺されたことを理由にモンゴル軍は住民を虐殺し、町を徹底的に破壊します。
以後この町が歴史の表舞台に登場することはありませんでした。
ニシャープールに於ける絨毯製作は20世紀の初頭にマシャドの職人の指導を受けて始まったと言われています。
それゆえマシャドに倣ったデザインが多く、一般的に品質はマシャド産には劣るものの、同じくマシャド風絨毯を製作するサブゼバーには勝ると言われます。
2008年にアブダビのシェイフ・ザイード・グランド・モスクに納められた5627平米の世界最大の絨毯、2000年にマスカットのスルタン・カーブース・グランド・モスクに納められた4263平米の世界で二番目に大きい絨毯、2012年に同じくマスカットのジャミール・モスクに納められた2400平米の世界で三番目に大きい絨毯は、いずれもイラン絨毯公社がニシャープールで製作したもの。
ただし、これらの作品は一般的なニシャープール絨毯とは趣を異にしています。
マシャド
マシャドはイラン北東部、ラザビ・ホラサン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ラザビ・ホラサン州の州都で、人口約250万人。
ヘザール・マスジェド山脈を挟んでトルクメニスタン国境に接するこの町は、テヘランに次ぐイラン第二の都市でありシーア派イスラム教徒にとって最大の聖地でもあります。
イマーム・レザー廟を擁し、毎年2000万近い巡礼者を迎えるほか、宗教教育の中心地として世界中きら多くの留学生を受け入れています。
マシャドの名は「マシュハデ・レザー」(レザーの殉教地)に由来するもの。
かつてはサナーバードと呼ばれていましたが、818年アッバス朝第7代カリフであったマームーンにより、トゥースにおいて毒殺されたアリー・レザーの遺体がこの地に葬られたことから殉教地として霊廟が建設され、以後次第に霊廟の周りに町が形成されたと言われます。
1501年に興ったサファヴィー朝が十二イマーム派を国教に定めるとマシャドはイラン最大の聖地となります。
1587年にはウズベク人のボハラ・ハン国、1722年にはアフガン人のホータキー朝による侵攻を受けますが、ナーディル ・クリー・ベグ(のちのナーディル・シャー)がアフガン人を追放してアフシャル朝を興すとその首都となりました。
ホラサン地方には長い絨毯織りの歴史があるとされ、現存するサファヴィー朝期の絨毯の中にも「帝王の絨毯」ほか、かつてイラン東部最大の町であったヘラートで製作されたと推定される「ヘラート・カーペット」と呼ばれる一連の作品があります。
しかし、マシャドの町で絨毯製作が行われていたかについては闇の中です。
現代のマシャド絨毯については1880年代、この地にやってきたタブリーズ商人たちが工房を開設したのが始まり。
そんなタブリーズ商人のうちの一人がモハンマド・カフネモイで、彼の息子のアブドル・モハンマドとアリー・ハーンの兄弟はやがて「20世紀最高の絨毯工房」と称されるアモグリ工房を開くことになります(『20世紀最高の絨毯作家』を参照)。
20世紀初頭に活躍した絨毯作家にはアモグリ兄弟のほかモハンマド・イブラヒム・マフマルバフやハメネイらがおり、彼らの作品はいずれも緻密な織りとデザインとによって高い評価を得ていました。
ただし、その暗めな色調は米国では不評で、輸出先はもっぱらヨーロッパであったと言います。
それゆえ、第二次世界大戦が始まりヨーロッパが戦場になると需要が激減。
大きなダメージを受けますが、ヨーロッパの復興とモハンマド ・レザー・シャーの振興政策により息を吹き返します。 この時期に活躍したのがアッバス・ゴリー・サーベルです。
彼は第二次世界大戦後に閉鎖されたアモグリ工房の元スタッフで、アモグリの実質的後継者となった人物でした。
絨毯産地としてはイスファハンやタブリーズに大きく水を開けられた感のあるマシャドですが、現在もジァーファル・アハディアンと息子らがアモグリやサーベルに劣らぬ逸品を製作しています。
イラン中西部のペルシャ絨毯産地
アサダバード
アサダバードはイラン中西部、ハマダン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ハマダン州西部、ケルマンシャー州との州境近くにある町で、アサダバード郡の郡都。
人口は5万人ほどで住民の半数以上はイラン人ですが、クルド人、アゼルバイジャン人、ルル人、ラク人も暮らしています。
この小さな町は19世紀後期のイスラム法学者で反体制活動家でもあった、セイエド・ジャマル・ウッディン・アサダバーディ(ジャマル・ウッディン・アフガニとも、1838/39~1897年)の出身地として知られています。
ジャマル・ウッディーンは汎イスラム主義の立場からカジャール朝の専制政治を批判する運動を展開。
1891年にナセル・ウッディン・シャーによりトルコへと追放されました。
クルド人が多く居住するクルディスタン州やケルマンシャー州に近く、そのためこの町で産出される絨毯にはコリアイ族やカカベル族が製作するクルド絨毯の影響が見られます。
メダリオンのない六角形のフィールド上にはヘラティや幾何学的な花文様が配されるのが一般的。
赤を基調としており、サイズはドザールがほとんどです。
パイルは長めで織りは粗く、お世辞にも高品質とはいえませんが、丈夫で安価なため実用に向いています。
シングル・ウェフトの構造で、ノットはトルコ結びです。
アラク
アラクはイラン中西部、マルカジ州にあるペルシャ絨毯産地です。
マルカジ州の州都で人口は約52万人。
アラクの名は、かつてこの地が「イランのイラク」と呼ばれていたことに由来したものです。
住民にはイラン人のほか、ルル人、少数のアルメニア人がおり、アミール・カビールや石油国有化を推進したパフラヴィー朝期の首相モハンマド・モサッデクはこの町の出身。
イランにおける主要な産業都市の一つであり重工業、特に金属および機械工業のプラントが多く所在します。
ここにはかつてダスケラという町がありましたが、13世紀の蒙古軍の侵攻によって破壊され、現在のアラクの町は1808年、カジャール朝のファテフ・アリー・シャーの時代にこの廃墟の上に建設されたものです。
当初はスルタナバードと呼ばれ、イラン南北を結ぶ交通の要衝として発展しました。
1883年、英国マンチェスターに本社を置くドイツ系企業、ジーグラー商会がイランに進出。
この町に支店を開設し、綿製品の販売に乗り出します。
ジーグラー商会はやがて大規模な絨毯工房を開設し、英国に向けた手織絨毯(上の画像)の生産を始めました。
これをきっかけとしてアラク一帯はペルシャ絨毯の主要産地となるに至ります。
アラク及びその一帯で産する絨毯はその品質により上から「サルーク」「マハル」「ムシュカバド」に分けられますが、近年マハルとムシュカバドはほとんど製作されなくなりました。
イラン絨毯公社をはじめとし「アラク産」として取引する絨毯商も増えてきています。
ペルシャ結び、ダブル・ウェフトです。
アラムダー
アラムダーはイラン中西部、ハマダン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ハマダン州南部、マラヤーの南にある小さな村。
濃紺のフィールドにはジオメトリックなヘラティや花文様、赤のボーダーには極端に様式化された三角形のパルメットが配されるのが一般的です。
ドザールとザロニムがほとんどで、シングル・ウェフト、トルコ結び。
イラム
イラムはイラン中西部、イラム州にあるペルシャ絨毯産地です。
イラム州の州都で、イラクとの国境を隔てるカビール山脈とザグロス山脈の間、標高1,300メートルに位置する高原都市。
その山紫水明から「ザグロスの花嫁」と呼ばれています。
人口は約21万人。
住民の大半がイスラム教シーア派を信仰するクルド人で、クルドの町としてはケルマンシャー、サナンダジに次ぐ規模。
この町はかつてホセイナバードと呼ばれていましたが、1923年に現在の名に改められました。
紀元前3200年頃、ザグロス山脈の裾野に興ったエラムの北端に位置していたイラム一帯は、日が昇る山を意味する「アラム」「アラモ」「アラムト」などと呼ばれていたことがシュメール遺跡の碑文から判明しています。
イラクとの国境に近いことから、イラン・イラク戦争では大きな被害を受け、町の産業は壊滅状態に陥りました。
戦後、復興に向けた産業育成の一環として、当時商業省の傘下にあったイラン絨毯公社が支部を開設。
こうしてイラムにおける絨毯製作が始まります。
土着のデザインを持たない新興産地のイラムゆえ、カシャンやイスファハンなど他産地のデザインを流用した作品が一般的。
織子の技術はかなり高く、縦糸に絹を使用した緻密な織りの作品も珍しくありません。
ダブル・ウェフトの構造で、ノットはペルシャ結びです。
ウシュバン
ウシュバンはイラン中西部、ハマダン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ネハーバンドの北西にある村で、トイセルカンにも近いことから、ウシュバンで産出される絨毯はネハーバンド産とトイセルカン産両者の性質を持っています。
ネハーバンド産とは色や品質、サイズが同じながら、デザインはトセルカン産に似ていて、菱形のメダリオンと大きなクリーム色のコーナーが配されているのが特徴。
ただしトイセルカン産に比べると素朴で砕けた印象を受けます。
シングル・ウェフトの構造で、ノットはトルコ結びです。
エベル
エベルはイラン中西部、ハマダン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ハマダンの南東10キロにある村で、隣のエンジャラスで産するものによく似た絨毯を産出しています。
エンジャラス産として取引されることも多いのですが、織りはエンジャラス産よりも荒く、パイルも長いのが一般的。
エンジャラス同様ヘラティ文様とボテ・ミール文様のランナーや小さなマットが大半です。
シングル・ウェフト、トルコ結び。
エンジャラス
エンジャラスはイラン中西部、ハマダン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ハマダンから20キロ南東にある村で、この村で産出される絨毯はヘラティ文様がもっとも多く、ホセイナバード産によく似ています。
ヘラティ文様のほかにはボテ・ミールやサルーク風の花文様が有名。
シングル・ウェフトの構造で、ノットはトルコ結びです。
カブタラハン
カプタラハンはイラン中西部、ハマダン州にあるペルシャ絨毯産地です。
カブタラハン郡の郡都で、人口約2万人。
この町で産出される絨毯はサルーク風の花文様が特徴です。
ゴル・ファランギをあしらった垢抜けたメダリオン・コーナー・デザインで、大きなサイズが大半。
ハマダン産(シャハル・バフト)あるいはサルーク産として売られていることがありますが、ハマダン産やサルーク産に比べると品質は劣ります。
シングル・ウェフトの構造で、ノットはトルコ結びです。
カラガン
カラガンはイラン中西部、ハマダン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ハマダン州の北東部にある地域で、その一角にはシャーサヴァン族が暮らしています。
そのため、シャーサヴァン産として取り扱われることがありますが、シャーサヴァン産に比べると織りは粗く、デザインも単調です。
カラガンで産出される絨毯はシャーサヴァン風のメダリオン・コーナーのデザインのほか、コリアイなどのクルドの作品に見られる大きなペンダントを連ねたメダリオンを持つものが代表的。
鳥や龍、ジグザグの縁どりをあしらった個性的な作品も見られます。
ザロニムが多く、かなり分厚くて実用向き。
シングル・ウェフトの構造で、横糸には茶色の木綿がよく使用されます。
ノットはトルコ結びです。
ギアサバド
ギアサバドはイラン中西部、マルカジ州にあるペルシャ絨毯産地です。
アラクから北北西に35kmほど離れた村で、マハラトと並びアラク地方の最高級品である「サルーク」を製作しています。
サルークの中でもギアサバドで製作されたものは、とりわけ高品質で有名。
ギアサバド絨毯は赤や紺、あるいは生成りををベースとしたシャー・アッバス文様やゴル・ファランギ文様、ヘラティ文様が大半です。
ゴル・ファランギ文様の作品はハマダン地方の最高級品であるボルチャル産によく似た外見ですが、ボルチャル産とはノットや構造が明らかに異なっているため判別は容易。
ちなみにアラク地方の絨毯は品質が高い順にサルーク、マハル、ムシュカバドとなります。
ペルシャ結び、ダブル・ウェフト。
ケメレ
ケメレはイラン中西部、ハマダン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ハマダン地方の南の外れにある地域の名称で、住民の一部は17世紀初頭、サファヴィー朝のシャー・アッバス1世によりアルメニアとペルシャ、トルコの間から強制移住させられてこの地に住み着いたアルメニア人の末裔であると言われています。
この地域で製作される絨毯は独自のデザインで知られるリリアンとレイハンの二つの村のものを除くと、ハマダン地方で製作されるヘラティやアメリカン・サルーク風の花葉文様が一般的。
柔らかな茜色や朱色が特徴です。
シングル・ウェフトの構造でノットはトルコ結び。
ケルマンシャー
ケルマンシャーはイラン中西部、ケルマンシャー州にあるペルシャ絨毯産地です。
ケルマンシャー州の州都で、人口約80万人。
標高1630メートルに位置するイラン西部有数の都市で、住民の大半がクルド人。
ケルマンシャーの名は「ケルマンの王」の意味で、この町を建設したケルマンの王に由来します。
ところが革命後「シャー」がパフラヴィー朝に通じるとのことからバフタラーンと改名されました。
それでも人々は旧名をこのんで使ったことから、現在はケルマンシャーに戻っています。
この地には旧石器時代から人が暮らしていたと言われ、ネアンデルタール人の存在を示すいくつかの痕跡が町の周辺で発見されています。
町は4世紀末にササン朝第13代君主であったバハラム4世によって建設されたとされ、その名は彼がかつてケルマンの王であったことをしてケルマンシャーと呼ばれていたことに由来するものと言われます。
以後ササン朝の夏の都として、またバグダッドへと至る「王の道」の要衝として栄えました。
640年、侵攻してきたアラブ人の支配下に入り、11世紀のセルジュク朝期にはクルド人の居住地域全体の主要な文化商業センターになります。
サファヴィー朝はこの町をオスマン・トルコへの防波堤として強化しますが、アフガン人の侵攻によりサファヴィー朝が事実上滅亡すると、オスマン朝による侵攻を受け、二度にわたり占領されました。
カジャール朝期にはイラン立憲革命の拠点の一つとなります。
1914年にロシア軍、第一次世界大戦中にはトルコ軍に占領され、1917年に英軍により解放されました。
イスラム革命でも大きな役割を果たしますが、イラクとの国境まで120キロと近いことからイラン・イラク戦争ではイラク軍の攻撃に晒され、大きな被害を受けました。
ケルマンシャーで産出される絨毯は主にクルド人によって製作されるものの、一般的なクルドの作品とは異なり、都市の絨毯を模した洗練されたデザインが多く見られました。
ビジャー産に似た丈夫な作りが特徴ですが生産量は決して多くはなく、古いものを今日見かけることは稀です。
イラン・イラク戦争で大きな被害を受けたイラム同様、戦後の復興に向けイラン絨毯公社主導による絨毯製作が始まり今日に至っています。
以前とは異なり、都会風の垢抜けたデザインが主流になっています。
トルコ結び、ダブル・ウェフト。
ザゲ
ザゲはイラン中西部、ハマダン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ハマダンの西方20キロに位置する村で、この村で産出される絨毯は赤いヘラティ文様の地に、「ティース・パターン」と俗称される歯のような飾りが付いたメダリオン・デザインで知られています。
大きなボテを連続させたオールオーヴァー・デザインも有名。
シングル・ウェフトウェフト、トルコ結びです。
サーベ
サーベはイラン中西部、マルカジ州にあるペルシャ絨毯産地です。
サーベ郡の郡都で、人口は約26万人。
夏冬の気温差が大きく、それゆえ良質なザクロやメロンの産地となっています。
この町の歴史は古く、紀元前7世紀にはメディア王国の拠点となり、アルケサス朝の時代には「サーバキネ」と呼ばれました。
中世に入ってからもブワイ朝、セルジュク朝の拠点として栄えますが、蒙古軍の襲来によって町は壊滅。
サーベにあった中東最大級の図書館がこのとき失われたと伝えられます。
イルハン朝の時代になり復興したも束の間、今度はティムールに破壊され、再度の復興の後、町が発展を遂げるのはサファヴィー朝期のこと。
やがて100キロほど離れたテヘランがカジャール朝の首都になると、多くの住民がテヘランに移住し、サーベの人口は激減しました。
サーベの周辺にはトルコ系のシャーサバンが暮らしており、通常「サーベ産」として流通している絨毯はこの部族が製作したいわゆる部族の絨毯です(シャーサバンを参照)。
しかし、クムに近いサーべでは1990年頃からクム・ウールの高級品とも言える絨毯が製作され始め、更に2000年頃からは同じくクム産に似たシルク絨毯が製作されるようになりました。
わが国では人気のあるクムの絨毯作家セイエド・アリー・マスミが、かつてサーベに工房を構えていたいたことは有名。
これらは一般的なクム産と同等あるいはそれ以上の品質を有しており、ザンジャンやマラゲで製作される質の劣るコピー品とは一線を画しています。
銘に「サーベ○○」とあるからか、サーベ産のシルク絨毯をクムのサーベ工房で製作されたものと紹介する記述を見かけることがありますが、サーベは地名で人名ではありません。
ウール絨毯、シルク絨毯ともにペルシャ結び、ダブル・ウェフトです。
サルーク
サルークはイラン中西部、マルカジ州にあるペルシャ絨毯産地です。
アラク北方にある村で、アラク地方における最高級絨毯を最初に織り始めたことで知られています。
現在の「サルーク」はアラク地方で産出される絨毯の最高級品に付される名称となっており、サルークのほか隣接するギアサバドやアラクの東に位置するマハラトなどでも製作されるようになっています。
ケルマン絨毯における「ラバー」と同じと言えばわかりやすいでしょう。
アラク周辺では19世紀後半から英国のズィーグラー社をはじめとする外国企業、あるいはタブリーズ商人のプロデュースにより絨毯製作が開始されます。
フェラハン・サルークやマージュラン・サルーク、アメリカン・サルークとよばれる絨毯が製作され、イランにおける絨毯産業の復興に大きく貢献しました。
アメリカン・サルークはニューヨークに本社を置くK・S・タウシャンジャン社のS・ティリアキアンがデザインし、スルタナバード(現在のアラク)で製作したものが原形になっています。
ローズ・レッドのフィールドにシダ状の植物文様を上下左右対称に配したデザインはペルシャ絨毯の伝統から逸脱したものですが、1920年代から30年代にかけて米国に大量に輸出され、一大ブームを巻き起こしました。
その背景には、第一次大戦によって疲弊したドイツに代わる新たな輸出先を米国に見出したスルタナバードの絨毯商たちの積極的な生産活動があったようです。
イランにおける絨毯産業の復興を牽引したタブリーズの絨毯商たちは革命的ともいえるアメリカン・サルークを嫌ったといわれますが、そのデザインは近くのカシャンやハマダンのみならず、遠く離れたマシャドやケルマンにまで伝播してゆきました。
パイルには色褪せを防ぐために天然染料で染めた糸が使用され、ペルシャ結びで結ばれています。
その鮮やかな配色から「ペインティング・サルーク」とよばれることもあります。
マージュラン・サルークはアメリカン・サルークと同じ時期、すなわち1920年代から30年代にかけて製作された絨毯で、アメリカン・サルーク同様、シダ状の植物文様を上下左右対称に配したデザイン。
アメリカン・サルークに比べるとデザインはシンプルで、フィールドの地色にはローズ・レッドだけでなく濃紺を使用したものも多く見られます。
マージュラン・サルークについては、アラク近郊にあったマージュラン村で製作されたとする説がありますが、真相は定かではありません。
また、アメリカン・サルークの高級品だともいわれますが、ノットの数は変わりません。
記録によると、当時はアメリカン・サルークと区別されていなかったようですから、その派生形とみるのが妥当かもしれません。
古いサルーク絨毯に見られる「ドゥーキ・レッド」と呼ばれる淡い赤は、茜で染色した糸を水で薄めたヨーグルトに浸して染色したもの。
ドゥ―クはペルシャ語でヨーグルトのことです。
第二次世界大戦後に製作されたサルーク絨毯には実に様々なデザインがありますが、ヘラティ文様を配したメダリオン・コーナー・デザインの作品は「マシャエキ・サルーク」と呼ばれています。
ジョーカー
ジョーカーはイラン中西部、ハマダン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ハマダンからマラヤーへの途上にある町で、隣のホセイナバード同様、ヘラティ文様の絨毯が有名です。
ホセイナバード産に比べるとやや品質が落ちますが、実際にはホセイナバード産として取引されるのが通常です。
シングル・ウェフト、トルコ結び。
ジョーザン
ジョーザンはイラン中西部、ハマダン州にあるペルシャ絨毯産地です。
マラヤー郡で、もっとも優れた品質の絨毯を産出するとして知られる村。
「ジョーザン・サルーク」あるいは「マラヤー・サルーク」とよばれることがあるように、サルーク産と同じダブル・ウェフトの構造です。
ただし、ノットはハマダン地方に多いトルコ結び。
デザインはサルークに倣っており、最近ではケルマン・ラヴァー同様、この地域で製作されるダブル・ウェフトの高級品を指す呼称となっているようです。
セラバンド
セラバンドはイラン中西部、マルカジ州にあるペルシャ絨毯産地です。
セラバンドは町や村の名ではなく、アラクの南西、ボルジェルドとの間にある山間の地域を指す名称。
セラバンドで産出される絨毯は、フィールド一面に配したボテ(ペイズリー)のデザインで有名です。
19世紀から20世紀初頭にかけては「ミール・セラバンド」あるいは「サルーク・ミール」と俗称される高品質な絨毯が製作されていました。
小さなボテや複雑な葉文様を並べたフィールドに「シェカーリ」と呼ばれる文様の細いボーダーをあしらったデザインで、幾重にも連なるガードが巡らされています。
落ち着きのある色調と相まって、上品な雰囲気を醸し出していました。
現在のセラバンド絨毯は西洋梨に似たズングリとした形のボテのオール・オーバー、あるいはは菱形のメダリオンや三角形のコーナーを配したデザインで、地色は鮮やかな赤が大半ですが、濃紺や生成色も見かけます。
結びは緩めで、古い作品同様にペルシャ結びが用いられているものもありますが、大半はトルコ結び。
小さなものから大きなものまで様々なサイズがあり、値段も手頃で実用向きです。
タイメ
タイメはイラン中西部、ハマダン州にあるペルシャ絨毯産地です。
マラヤーの南東20キロに位置する村で、この村で産出される絨毯は隣接するジョーザン産と同じダブル・ウェフトの構造。
ヘラティ文様のフィールドに菱形のメダリオンを配したものが大半ですが、ハマダン地方で産出される他のヘラティ文様の絨毯よりも織りは細かく構造も異なるため判別は容易です。
メダリオンとコーナーの中には枝に連なるボテ文様が入れられるのが一般的。
地色は生成りもしくは濃紺がほとんどです。
タフリシュ
はイラン中西部、ハマダン州にあるペルシャ絨毯産地です。
「クロック・フェイス」(時計の文字盤)とよばれる独特のメダリオン・コーナーを持つ絨毯で知られる産地。
このデザインはゾロアスター教の唯一絶対神である太陽神を意匠化したものともいわれますが、近くに住むシャーヴァン族の影響を受けたものとの説もあります。
ハマダン地方の町や村で産出される絨毯の中では垢抜けた印象で、織りは細かくパイルも短く刈られています。
ダルジェジン
はイラン中西部、ハマダン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ハマダンの北東70キロに位置する村で、ダルジェジンで産出される絨毯はヘラティやボテ・ミールのほか、サルーク風の花文様が一般的。
サルーク風のデザインはゴル・ファランギを廃したメダリオン・コーナーのほか、アメリカン・サルークに倣ったものもあります。
織りは粗く実用向き。
トルコ結び、シングル・ウェフトです。
トイセルカン
トイセルカンはイラン中西部、ハマダン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ハマダンの南30キロに位置する町で、胡桃の名産地として有名。
かつてはルードバーとよばれていましたが、モンゴル軍に町を破壊された住民はトイに避難しました。
その後、トイとこの町の北西にある町の名であるセルカンとを合わせてトイセルカンと呼ばれるようになったと言います。
マラヤー産に似た幾何学文様が特徴で、濃紺もしくは生成りのベースに六角形のメダリオンを配したデザインが大半。
コーナーは階段状に仕切られているものをよく見かけます。
トルコ結び、シングル・ウェフト。
ナナジ
ナナジはイラン中西部、ハマダン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ハマダン州の南、マラヤー県にある村で、県庁所在地のマラヤーからは北に10キロ。
俗に「ハルチャンギ」(蟹の意)とよばれる、ややジオメトリカルなパルメットを配したアフシャン文様が特徴で、濃紺のフィールドに赤のボーダーの組み合わせが大半です。
シングル・ウェフト、トルコ結び。
ネハーバンド
ネハーバンドはイラン中西部、ハマダン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ハマダンの南60キロに位置する町で、サフランの集積地として知られています。
イラク北部へと至る幹線上にあることから、この地においては戦いが繰り返されましたが、とりわけササン朝最後の君主となったヤズドガルド3世(在位632~651)がアラブ軍に敗れた「ネハーバンドの戦い」は有名。
ネハーバンドで産出される絨毯は、幾何学的な花文様をあしらったメダリオン・コーナーのデザイン、あるいは遊牧民風の動物や鳥を配したデザインが一般的です。
織りは決して細かいとは言えないものの、パイルには光沢のある良質なウールが使用されています。
赤もしくは濃紺ベースのものが大半。
トルコ結び、シングル・ウェフト。
ハマダン
ハマダンはイラン中西部、ハマダン州にあるペルシャ絨毯産地です。
アルヴァンド山麓、標高1800メートルに位置する高原都市で、ハマダン州の州都。
イラン最古の町の一つであり、その起源は2000年前にまで遡ると言われます。
紀元前715年に興ったメディア王国の都エクパダナとして、続くアケメネス朝の時代には夏の都として栄えました。
町の周辺には多くの遺跡が残っており、避暑地でもあることからイラン人には人気の観光地。
陶器の産地としても有名です。
一般に「ハマダン産」として流通している絨毯はハマダン周辺の町や村で製作されたものが大半で、実際にハマダンで製作されたものはそれほど多くありません。
ハマダンの町で産出される絨毯は「シャハル・バフト」とよばれ、織りは細かくデザインも洗練されています。
赤と濃紺をベースとしたメダリオン・コーナー・デザインを多く見ますが、ミフラブやオール・オーバー等のデザインもあります。
トルコ結び、シングル・ウェフト。
ビビカバド
ビビカバドはイラン中西部、ハマダン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ハマダンの北東45キロに位置する村で、その名は「祖母の村」を意味します。
この村で産する絨毯は、赤のフィールドにヘラティ文様を配したメダリオン・コーナーのデザインが大半で、菱形のメダリオンに連なる枝状のペンダントが特徴。
大きなサイズが多く、ハマダン地方の絨毯の中では上クラスに位置します。
シングル・ウェフト、トルコ結び。
フェラハン
フェラハンはイラン中西部、マルカジ州にあるペルシャ絨毯産地です。
アラクの北、サルークの東にある地域の名で、フェラハンでは1880年代に絨毯製作が始められたと言われています。
大きなメダリオンを持つ、ややジオメトリックな花葉文様が特徴で、パイルはペルシャ結びで結ばれており、太い横糸を1本だけ掛けるシングル・ウェフトの構造が特徴。
フェラハン周辺では1890年頃からタブリーズの職人の指導を受けてトルコ結び、ダブル・ウェフトの絨毯が製作されはじめます。
このタイプの作品もフェラハンと呼ばれることがあるのですが、当時は「サルーク」と呼称されて区別されていました。
今日、ダブル・ウェフトの作品は「フェラハン・サルーク」と呼ばれることが多くなっています。
また、マラヤー絨毯に似ていることから「フェラハン・マラヤー」と呼ばれることもありますが、マラヤーではトルコ結びを用いているのでマラヤー産と別物であることは明らかです。
ホセイナバード
ホセイナバードはイラン中西部、ハマダン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ハマダンの南40キロにある村で、この村で産出される絨毯は、赤もしくは濃紺、生成りのフィールドに配されたヘラティ文様が代表的。
ハマダン地方の絨毯の中では中グレードで、シングル・ウェフト、トルコ結びです。
ボルチャル
ボルチャルはイラン中西部、マルカジ州にあるペルシャ絨毯産地です。
ハマダンの東からフェラハンの西にある地域をボルチャルと呼びますが、13世紀、フラグ・ハンに従いイラン高原に進出した蒙古人のボルチャル族の末裔が暮らすクマジンやクンバザンの一帯が、やがてそう呼ばれるようになったと言います。
ボルチャルで産出される絨毯は19世紀の「フェラハン」に由来し、花葉文様とヘラティ文様の二つがあります。
花葉文様はアメリカン・サルークの影響を強く受けたデザインで、ハマダン地方のビレッジ・ラグとしては上位に位置すると言えるでしょう。
パルデまでのすべてのサイズが製作されていますが、とりわけドザールとザロニムを多く見ます。
同じタイプのヘラティ文様の絨毯はクマジンの西、ホセイナバード方面にあるムーサ・ハーン・ボラギの村で製作されています。
ボルドンベ
ボルドンベはイラン中西部、ハマダン州にあるペルシャ絨毯産地です。
トイセルカンの北西に位置する村で、織りと構造はトゥセルカン産とほぼ同じですが、クルドが暮らす地域に隣接しているため、トイセルカン産にはない駱駝色のウールをフィールドの地に使用した作品も見られます。
シングル・ウェフトの構造で、ノットはトルコ結び。
マズラガン
マズラガンはイラン中西部、ハマダン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ハマダンからテヘランへと至る幹線上にある村で、この村で産出される絨毯は俗に「ライトニング・パターン」と呼ばれる、雷状のメダリオン・コーナー・デザインで知られます。
赤いフィールドに濃紺のメダリオンとコーナーとを配し、メダリオンとコーナーの内側にはロゼットやボテ等を並べたものが大半。
縦糸には木綿が使用されるのが一般的ですが、まれにウールもしくはウールとゴート・ヘア(ヤギの毛)の混紡を使ったものもあります。
同じタイプの絨毯は隣接するノベランやケルダルの村でも製作されており、それらを含めて「マザルガン産」とするのが通常。
トルコ結び、シングル・ウェフトです。
マハラト
マハラトはイラン中西部、マルカジ州にあるペルシャ絨毯産地です。
マハラト郡の郡都で、胸の病に効くと言われるマハラト温泉があることで有名です。
ザグロス山脈から注ぐアナルバール川沿いに位置し、ビニールハウスによる花卉栽培が盛ん。
毎年8月の終わりには花祭りが大々的に開催されます。
1875年にイラン人として最初に米国の市民権を獲得した、旅行家にして政治運動家であったハジ・サヤーフ(ミールザ・モハンマド・アリー)はマハラトの出身。
町の周辺には古くから人が住んでおり、ヘレニズムやゾロアスター時代の遺跡があります。
かつては北部のマハラテ・バーラー(上マハラト)、中部のマハラテ・ガーレ(中マハラト)、南部のマハラテ・パイン(下マハラト)の三つの地域に分かれていました。
アラク地方で産出される絨毯はそのグレードにより「サルーク」「マハル」「ムシュカバド」の三つに分類されますが、そのうちのマハルはマハラトに由来する名です。
しかし、実際にマハラトで生産されているのは最高級品であるサルークが主流。
なお、イラン絨毯公社(ICC)においてはサルークの呼称を用いず、「マハラト産」として出荷しています。
マラヤー
マラヤーはイラン中西部、ハマダン州にあるペルシャ絨毯産地です。
マラヤー郡の郡都で、人口16万人。
ハマダン州ではハマダンに次ぐ第二の町であり、レーズンの産地として有名です。
ザグロス山脈の北麓に位置する緑豊かなこの町にはマラヤー公園をはじめとするいくつもの公園があり、避暑地としても人気。
1722年、サファヴィー朝崩壊の混乱に乗じてイラン高原に侵攻したオスマン・トルコとの間で繰り広げられたオスマン・ペルシャ戦争では、ナーディル・クリー・ベグ(のちのナーディル・シャー)がトルコ軍を撃退した「マラヤーの戦い」がこの地で起こりました。
マラヤーで産出される絨毯はトルコ結びでシングル・ウェフトの構造が特徴。
西のウシュバンやネハーバンド、東のジョーザンやタイメ、南のボルジェルドなどで製作された絨毯を含めて「マラヤー産」と呼ぶことがありますが、それらの村々で製作される絨毯はこもごも性質が異なっており、一括りにするには無理があるでしょう。
タイメに近い地域で製作される絨毯は「ミッシャン・マラヤー」と呼ばれ、タイメ産に似たデザインでメダリオンの外周には「コック・コンブ」(雄鶏のトサカ)と俗称される鋸状の飾りが付いています。
ミッシャンはタイメに近い村の名。
大きなサイズはあまりなく、ドザール以下がほとんどです。
ムシュカバド
ムシュカバドはイラン中西部、マルカジ州にあるペルシャ絨毯産地です。
アラク郡にある村で、産業は穀物や果物の栽培と絨毯製作が中心。
かつてはアラク地方における主要な町の一つでしたが19世紀初めに町は破壊され、その後再建されました。
通常「ムシュカバド」と言えば、アラク地方で産する絨毯のうちもっとも低品質なものを指し、ムシュカバドを含めたいくつもの村々で製作されています。
パイルは短く傷みやすいため、テヘランのバザールでは何か失敗をやらかすと「ムシュカバドみたいなことをするな」と怒られるそう。
最近ではサル・チャシュメで製作されたハマダン地方のビレッジラグに似る絨毯を呼ぶことが多いようです。
メヘラバン
メヘラバンはイラン中西部、ハマダン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ハマダンの北の山間、ダマクの西にある地域の名称。
東アゼルバイジャン州のヘリズの南にも同名の村があり絨毯が製作されていますが、ここで紹介するのはハマダン州のメヘラバンです。
メヘラバンでは主に細長い形状のランナー・タイプの絨毯が製作されており、中には10メートルを超えるものまであります。
アメリカン・サルークのデザインが大半で、フィールドの地色は柔らかな赤、ボーダーは濃紺か生成色が一般的。
トルコ結び、シングル・ウェフトです。
リリアン
リリアンはイラン中西部、マルカジ州にあるペルシャ絨毯産地です。
アラク南東のケメレと呼ばれる地域にある町。
住民はサファヴィー朝のアッバス1世により強制移住させられたアルメニア人の子孫で、彼らは現在もキリスト教を信仰しています。
リリアンで産出される絨毯はイランでは「アルメニバフ」すなわちアルメニア織りと呼ばれています。
シングル・ウェフトの構造で、ペルシャ結びだけでなくトルコ結びを用いて製作されたものもあるため、ハマダン地方の絨毯とよく間違われますが、ピンク色の横糸を使用したものが多いので判別は容易。
ヘラティとアメリカン・サルークのデザインのほか、中央に十字架を隠したスパイラル状のメダリオンと花束とをピンクに近い淡い赤のフィールドに配した独自のデザインがあります。
パイルには艶のある柔らかいケメレ産のウールが使用されています。
ルードバー
ルードバーはイラン中西部、マルカジ州にあるペルシャ絨毯産地です。
フェラハンの北にある村で、この村で産出される絨毯は織りと配色が隣接するタフリシュとほぼ同じであるものの、デザインはフェラハンによく似ています。
生成りのフィールドに描かれる赤を主体としたヘラティ文様は、フェラハン産よりも花の部分がより強調されていて、色は明るめ。
パイルはスポンジのように柔らかく弾力性に富むのが特徴で、横糸にはピンクの木綿糸が使われることが多いようです。
シングル・ウェフト、トルコ結び。
レイハン
レイハンはイラン中西部、マルカジ州にあるペルシャ絨毯産地です。
マルカジ州の州都アラクの南東にあるケメレ地区にある村。
住民の多くがアルメニア人ですが、隣接するリリアンとは異なり、レイハンの人たちはイスラム教シーア派を信仰しています。
レイハンで産出される絨毯はリリアン産と同じシングル・ウェフトの構造。
赤いフィールド一面に幾何学的なヘラティ文様を配し、花を連続させた白いボーダーで囲ったデザイン代表的です。
ドザール以下のサイズがほとんどで、大きなものは見かけることがありません。
リリアン産同様、パイルにはケメレ産の滑らかで艶のあるウールが使用されています。
トルコ結びとペルシャ結びの両方があります。
イラン中央部のペルシャ絨毯産地
アルデカン
アルデカンはイラン中央部、ヤズド州にあるペルシャ絨毯産地です。
アルダカン郡の郡都で人口約7万5000人。
砂漠と岩山に囲まれたこの町は、改革派として知られたセイエド・モハンマド・ハタミ元大統領の出身地でもあります。
アルダカンは「聖地」「清い場所」の意味で、名が示すとおり古来この地域はゾロアスター教の拠点の一つ。
近郊のシャリファバドにはイラン国内だけでなく、パキスタンやインドからも多くの巡礼者が訪れます。
アルダカンにおける絨毯製作はイランの国内市場においてカシャーン絨毯が品薄となった1970年代に始まり、以来カシャーン絨毯のコピー品を製作しています。
カシャーン産として売られることが多いのですが、カシャーン産に比べると織りが粗く、品質は落ちるので注意が必要。
ペルシャ結び、ダブル・ウェフトです。
アルン
アルンはイラン中央部、イスファハン州にあるペルシャ絨毯産地です。
イスファハン州の北にある小さな町で、現在は隣接するビッゴルと合併し、アルノ・ビッゴル郡(人口5万5000人)を形成しています。
町の歴史は古く、シルクロードに近かったことから、かつては多くの隊商が行き来したと言われます。
カビール砂漠の西端に位置するこの町は、年間を通じてほとんど雨が降らず、農業に適していません。
それゆえ産業は手工業中心で、とりわけ絨毯製作はこの町の大きな収入源になっています。
アルンにおける絨毯製作は19世紀末に始まったと考えられますが、カシャーンに近いことから、カシャーン絨毯に倣った作品がほとんど。
カシャーン産に比べると品質はやや劣るのが一般的です。
ペルシャ結び、ダブル・ウェフト。
イスファハン
イスファハンはイラン中央部、イスファハン州にあるペルシャ絨毯産地です。
イスファハン州の州都で人口約160万人。
イラン第二の人口を有し「イランの真珠」とも讃えられるこの町は、イラン有数の工業都市として、また中東随一の観光都市として有名です。
ザグロス山脈東麓、標高 1590mの高原地帯に位置し、南北、東西を結ぶ幹線が交わる要衝として、古くから栄えてきました。
イスファハンの歴史はアケメネス朝の時代、ユダヤ人がこの地に町を築いたのが始まり。
ササン朝期には町の周辺に軍の駐屯地や捕虜の収容所が置かれました。
イスファハンの名は軍隊を意味する「セパーハン」「アスパハン」に由来し、7世紀に町を征服したアラブ人によって定着したと言われます。
1072年にセルジュク朝の第3代スルタンとなったマリク・シャー1世が、宰相ニザーム・アルムルクの進言に基づきニシャープールからイスファハンに遷都。
これによりイスファハンは最初の繁栄期を迎えます。
町は整備され、モスクやマドラサ(神学校)、キャラバン・サライ(隊商宿)が建設されました。
いまも残るイスファハンで最も高い建造物であるミナーレ・マスジェデ・アリーは、マリク・シャーが狩りの最中に誤って殺してしまった子供の慰霊のために建立したものと伝えられます。
セルジュク朝の滅亡後は停滞期に陥りますが、1597年にサファヴィー朝第5代皇帝アッバス1世がカズビンからこの町に遷都を実施。
イスファハンは第二の繁栄を迎えます。
町は大規模な都市計画に基づいて整備され、壮麗なモスクや宮殿、バザールや新市街が建設されました。
人口は50万人に達し、その繁栄ぶりは「イスファハンは世界の半分」と讃えられるほどであったと言います。
しかし、1722年にミール・マフムード率いるアフガン軍がこの町に侵攻。
イスファハンは陥落し、サファヴィー朝は事実上滅亡しました。
サファヴィー朝の滅亡後、住民はイラクやインドに移住し、人口は5万人にまで減少。
カジャール朝の時代になるとバクチアリ部族連合のもとで復興が始まり、続くパフラヴィー朝の時代には工業と観光産業が集中的に振興され、見事復興を遂げました。
サファヴィー朝の時代には宮廷直営あるいは宮廷御用達の絨毯工房が多数存在していたとされ、17世紀後半にイスファハンを訪れたフランスの商人ジャン・シャルダンの旅行記にもこの町で絨毯製作が行われていたことが記されています(上画像)。
しかしサファヴィー朝の滅亡とともにそれらの工房は廃業に追い込まれ、イスファハンにおける絨毯産業は途絶。 それが再開されるのは20世紀初頭になってからのことです。
復興期にはアフマド・アジャミ(作品は上画像)ら、カシャーンからやってきた絨毯作家や職人の指導を受けたものと考えられますが、やがてこの町出身の絨毯作家アブドラヒム・シュレシやデザイナーのミールザ・アガー・イマーミといった名匠が登場し、イスファハンにおける絨毯産業を牽引しました。
縦糸に絹を用いた緻密な織りの作品が製作されるようになり、20世紀半ばにはケルマンやカシャーンに変わるペルシャ絨毯の最高級品を産出する町として有名になります。
モハンマド ・レザー・シャーの時代にはレザー・セーラフィアン、ムスタファー・サッラフ・マムリ(作品は上画像)、ハサン・ヘクマトネジャードらの絨毯作家やイーサー・バハードリー、アフマド・アルチャング、ジャヴァッド・ロスタム・シラーズィーらの下絵師が現れ、復興後の最盛期を迎えました。
しかし、需要の高まりが品質の低下を招くのは世の常で、イスファハンにおいても「ジュフティ」と呼ばれる誤魔化しのテクニックが蔓延するようになります。
また無銘の作品に有名工房の偽サインを付け加えることも頻繁に行われるようになりました。
現代においてもイスファハンはペルシャ絨毯の最高級品を産する町としての地位は保っているものの、品質にはバラつきがあることを知っておく必要があるでしょう。
カシャーン
カシャーンはイラン中央部、イスファハン州にあるペルシャ絨毯産地です。
人口は約40万人のカビール砂漠の西端に位置するオアシス都市で、町の周辺には「カナート」と呼ばれる灌漑用の地下水路を見ることができます。
古来、織物や陶器、タイルなどの手工芸が盛んで、ローズ・ウォーターの産地としても有名。
この地域には先史時代から人が住んでいたと言われ、西4キロにあるシアルクにはその痕跡が残されています。
セルジュク朝の時代には城塞が築かれ、テヘランの南に位置するレイとともに陶器や彩釉タイルの産地として名を知られるようになりました。
サファヴィー朝の時代になると宮廷の保養地となり、とりわけ第5代君主であったアッバス1世は、近郊のフィンに庭園を造営し、この町に埋蔵されることを望んだと言われます。
遺言どおりアッバス1世の遺体は、町中に建てられたハビーブ・エブネ・ムーサー廟に安置されました。
ちなみにフィーン庭園はイラン近代化の祖、アミール・カビール(ミールザ・タギー・ハーン)が暗殺された場所であることから「アミール・カビール庭園」とも呼ばれています。
アミール・カビールはカジャール朝第4代君主であったナセル・ウッディン・シャーの下で「上からの改革」を進めますが、シャーは彼を更迭。
カシャーンに隔離された後、シャーの使いによりフィン庭園の浴室で殺害されました。
カシャーンはサファヴィー朝の時代に織物業が盛んになったと言われます。
ロンドンのビクトリア・アンド・アルバート博物館に収蔵されているサファビー朝時代の大作「アルデビル絨毯」(上画像)も、作者であるマクスド・カシャーニが同地の出身であることや当時の時代背景から、カシャーンで製作されたとする説があります。
カシャーンにおける絨毯産業は1722年のサファヴィー朝の滅亡以来、途絶したものの19世紀末に復興し、カシャーン産絨毯は20世紀初頭には、それまでのケルマン産絨毯にとってかわり高級絨毯の代名詞といわれるまでになりました。
復興期にはパイルに輸入品のメリノ・ウールを使用した、いわゆる「マンチェスター・カシャーン」や、サファヴィー朝期のポロネーズ絨毯を再現したシルクと金銀糸による「スフ」(レイズド・シルク)の作品(上画像)など、多彩な作品が登場しています。
しかし第二次世界大戦で欧州が戦場になり輸出が低迷したことをきっかけに徐々に品質が低下し、トップの座を近くに位置するイスファハンに奪われてしまいました。
1970年代に入ると原油価格の高騰に伴う富裕層の増加により国内需要が急増。
以後カシャーンでは実用品に近い作品が大半となります。
今日カシャーンにはイスファハンニアンをはじめとするいくつかの工房が存続しており、シルク絨毯も製作されています。
クム
クムはイラン中央部、クム州にあるペルシャ絨毯産地です。
クム州の州都で、人口は約120万人。
かつてはマルカジ州に属していましたが、1995年にクム州が新設されたことにより、その州都となりました。
カビール砂漠の西端、テヘランからイスファハンへと至る幹線上に位置し、町の東には塩漠が広がります。
そのため水質が農耕・飲料に適さず「クムの水を飲むと病気になる」と言われるほど。
ハズラテ・マスメを擁し国内外から多くの巡礼者が訪れるこの町は、マシャドに次ぐイスラム教シーア派の聖地として知られてきました。
アッバス2世をはじめとするサファヴィー朝の君主たちや聖職者たちの霊廟が立ち並ぶクムはまた、神学教育の拠点ともなっており、イラン革命を指導したルーホッラー・ホメイニもこの地に学んだ一人でした。
イマーム・ホメイニ国際神学校は3000人にのぼる留学生を無償で受け入れています。
クムの歴史はササン朝の時代に遡り、8世紀初頭、メルヴに滞在中の兄イマーム・レザーを訪ねてイランを旅していたファーティマがこの町で客死し、彼女の墓を中心とした巡礼地が誕生して宗教都市になったと言われます。
ファーティマはイスラム教の開祖であるモハンマドの娘と同名ゆえ混同されることがよくありますが、別人物。
1501年に興ったサファヴィー朝が十二イマーム派を国教に定めてからは、宮廷の保護を受けて繁栄しました。
1978年にパリに亡命していたホメイニーを中傷する記事が新聞に載ります。
これを受けクムで学生を中心としたデモが発生。
この動きはたちまち全国的な反政府暴動に広がり、翌1979年にはホメイニーが帰国して革命政府が樹立され、パフラヴィー朝が倒れされるイラン革命に発展します。
革命後、イスラム共和国の最高指導者となったホメイニはテヘランに移るまでの数年間、クムから国政を司りました。
クムにおける絨毯製作は1930年代半ばに始まったとされています。
初期の時代にはアリー・タージル・ラシュディザデ、メヒディー・アルサラニらカシャーン出身の絨毯作家が活躍し、この町における絨毯産業の基盤を創りました。
この頃製作された作品には他産地のデザインを真似たものが多く、それは町の絨毯のみならず部族民の絨毯にまで及んでいます。
1960年代に入るとシルク絨毯が製作され始め、以後ウール絨毯とシルク絨毯の割合は逆転。
1980年代にはシルク絨毯が主流になり、ウール絨毯はほとんど製作されなくなりました。
その後、日本でバブル景気が起こるとクム絨毯の需要は一気に増し、クムから遠く離れたイラン北西部のザンジャンやマラゲでそのコピー品が製作されるようになります。
また製作にかかる時間を短縮するため、クムにおいてもペルシャ結びからトルコ結びに切り替える工房が増え始めました。
タブリーズと並び、イランの絨毯の産地の中ではもっとも流行に敏感なのも特徴の一つと言えるでしょう。
ゴルパイガン
ゴルパイガンはイラン中央部、イスファハン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ゴルパイガン郡の郡都で、人口約5万人。
標高1830メートルに位置します。
ゴルパイガンは「花の砦」「チューリップの土地」を意味し、一説によるとササン朝の武将であったバフマンの娘、サミラによって建設されたとされます。
サファヴィー朝のイスファハン総督であったパルサダン・ゴルジージャニージーは罷免された後、アッバス2世からイスハク・アガー(祭祀長)に任命されこの地の5つの村を与えられました。
ゴルパイガンで産出される絨毯は、メダリオンやコーナーにハジ・ハヌミのロゼットを配したデザインが大半。
赤いフィールドには複数の花瓶文様が置かれることが多く、エレガントな雰囲気を漂わせています。
ペルシャ結び、ダブル・ウェフト。
サマン
サマンはイラン中央部、チャハルマハル・バクチアリ州にあるペルシャ絨毯産地です。
シャハレコレド郡にある町で、州都シャハレコレドの北に位置するこの町は、バクチアリ絨毯の高級品を産する町の一つです。
ダブル・ウェフトの丈夫な構造で、ヘシュティ文様のほかメダリオン・コーナー・デザインも多く見ます。
今日サマンの名は、ダブル・ウェフトのバクチアリ絨毯の総称としてもちられることもあるようです。
トルコ結び。
シャハレコレド
シャハレコレドはイラン中央部、チャハルマハル・バクチアリ州にあるペルシャ絨毯産地です。
チャハルマハル・バクチアリ州の州都で、人口約15万人。
住民はバクチアリ、カシュガイ、イラン人からなり、農業のほか帽子やフェルトの産地としても知られています。
ザグロス山脈の海抜2,070メートルに位置し、最も高所に位置する州都であることから「イランの屋根」とも呼ばれます。
この町の歴史はアルケサス朝の時代にまで遡ると言われますが、詳しくはわかっていません。
ゾロアスター時代には英雄の砦を意味する「デズ・ゴルド」と呼ばれていたのが、アラブ人の侵攻後「デ・クルド」(クルドの村)と呼ばれるようになったと伝えられます。
その名が町を意味するシャハルに置き換えられてシャハレコレドに改名されるのは1935年のことでした。
シャハレコレドではダブル・ウェフトのバクチアリ絨毯の高級品が製作されています。
19世紀末から、この町の周辺にはバクチアリ部族連合のイルハン所有の工房が次々と開設されました。
20世紀前半にはテリトリー内で石油が発見されて部族連合内の富裕層が拡大。
それに伴い絨毯の需要も増加し、高品質の絨毯が生産されるようになったと言います。
ヘシュティと呼ばれるパネル文様が代表的ですが、ガービと呼ばれる枠組み文様、イスファハン絨毯に倣ったメダリオン・コーナーなど様々なデザインがあります。
今日に至っても天然染料が使用されており、その丈夫さと相まってヨーロッパで人気。
ノットはトルコ結びです。
シャラムザー
シャラムザーはイラン中央部、チャハルマハル・バクチアリ州にあるペルシャ絨毯産地です。
シャハレコレドの南に位置する村で、ダブル・ウェフトのバクチアリ絨毯の中ではもっとも質の劣る絨毯を産出しています。
それゆえ値段は安く、実用的。
ヘシュティとガービと呼ばれる枠組み文様が大半ですが、シャハレコレド産、サマン産よりもデザインは幾何学的で単調なのが特徴。
シャーレザ
シャーレザはイラン中央部、イスファハン州にあるペルシャ絨毯産地です。
シャーレザ郡の郡都で、人口約11万人。
かつてはゴムシェと呼ばれていましたが、シャーレザの霊廟があることから現在の名に改められました。
イスファハンとシラーズとを繋ぐ幹線上に位置するこの町は、古来北部ペルシャの要衝としてキャラバンサライが置かれ栄え、サファヴィー朝末期には首都イスファハン防衛の砦が建設されました。
かつてはイスファハン風の絨毯を製作していましたが、クムでウール絨毯がほとんど製作されなくなってからは、クム産に倣ったウール絨毯を製作しており、近くのイスファハン同様にパート・シルクの技法を用いた作品も見られます。
ペルシャ結び、ダブル・ウェフト。
ジョーシャガン
ジョーシャガンはイラン中央部、イスファハン州にあるペルシャ絨毯産地です。
メイメ郡にある村で、イスファハン北のカルカス山中、カシャーンからイスファハンに至るかつての交易路の途上に位置し、イランでは「ジョーシャガネ・ガリ」(絨毯のジョーシャガン)の愛称でよばれています。
かつてはカシャーンからイスファハンへと至る交易路の経由地として市場が開設されていましたが、1788年にテヘランがカジャール朝の首都になると、市場はテヘランとイスファハンとを繋ぐルート上にあるメイメに移りました。
ジョーシャガンは古くからの絨毯産地として知られ、サファヴィー朝下で製作された一連の「花瓶文様絨毯」はケルマンでなくジョーシャガンで製作されたとする説があります。
しかし、ジョーシャガンのような小さな村に宮廷御用達の工房があったとは考えにくいとして異議を唱える研究者も多いのが実際。
ジョーシャガンで産出される絨毯は、雪の結晶に似た幾何学的な花葉文様をフィールド全体に配した「ジョーシャガン文様」で有名。
ジョーシャガン文様はカシャーンやイスファハンの絨毯にも採り入れられていますが、同じデザインの絨毯を産するメイメに比べるとジョーシャガンのものは織りは粗く、実用品としての印象を拭えません。
「ビッド・マジュヌーン」(マジュヌーンの柳)と呼ばれる幾何学的な柳文様と組み合わされることも多く、フィールドの地色は赤、濃紺、青、生成りのいずれかですが、古いジョーシャガン絨毯には錆色を用いたものもあります。
ペルシャ結び、ダブル・ウェフトの構造で、サイズはキャレギがもっとも多く見られます。
チャーデガン
チャーデガンはイラン中央部、イスファハン州にあるペルシャ絨毯産地です。
チャーデガン郡の郡都で、人口7000人。
ザグロス山脈の東麓に、ザーヤンデ川上流に位置するこの町はイスファハン州最大の貯水湖であるチャーデガン湖で有名。
この湖の周りには多くの宿泊施設があり、週末をこの地で過ごすイスファハンからのリゾート客を迎えています。
チャーデガンにおける絨毯製作は町興しの一環として、イラン絨毯公社の指導により始まりました。
イスファハンやカシャーン風の絨毯を製作しています。
ペルシャ結び、ダブル・ウェフト。
チャハルショトゥール
チャハルショトゥールはイラン中央部、チャハルマハル・バクチアリ州にあるペルシャ絨毯産地です。
シャハレコレド郡にある村で、州都シャハレコレドに近いこの村では、ビビバフを除くバクチアリ絨毯の最高級品が製作されていました。
チャハルショトゥールで産する絨毯はイランで「ヘシュティ」とよばれるパネル文様で、格子内のボテ(ペイズリー)文様や花葉文様がやや曲線的なのが特徴。
もともと生産量が少なく、ケルマン地方における「ラバー」やアラク地方における「サルーク」同様、現在は品質を示すなとして使われる場合が多いようです。
トルコ結び、ダブル・ウェフト。
ツデシケ
ツデシケはイラン中央部、イスファハン州にあるペルシャ絨毯産地です。
イスファハン郡のクーパイエ地区にある町で、人口は約4000人。
イスファハンとナインの中間に位置するこの町では、かつてきわめて高品質な絨毯が製作されていました。
ツデシケにおける絨毯製作はイスファハンとほぼ同時期、20世紀初頭に始まったと言われます。
「コチニール・レッド」と呼ばれる青みかかった赤と濃紺とを基調とし、複雑無比なそのデザインは当時のイスファハン絨毯を凌駕するほどでした。
アミン・サデキらの絨毯作家が登場し数々の名品を残しますが、第二次世界大戦の頃に生産を終えたようです。
現存するものが少なく、ツデシケ産として流通している絨毯の中には第二次世界大戦後に製作されたナイン産が多く混じっています。
ペルシャ結び、ダブル・ウェフト。
ナイン
ナインはイラン中央部、イスファハン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ナイン郡の郡都で、人口は約7万5000人。
カビール砂漠の西端、イスファハンからケルマンへと至る幹線上に位置する砂漠の町で、周辺にはカナート(地下水路)が発達しています。
穀物、堅果、羊毛などの農産物の集積地となっており、絨毯、陶器の産地としても有名。
ナインの名はノアの子孫、ナエンに由来すると言われるが如く、古い歴史を有しています。
ゾロアスター時代に城塞や礼拝堂が築かれており、近郊のモハンマディーエには「サルダブ」あるいは「アバー・バーフィー」と呼ばれる地下住居があります。
アラブ人の侵略後、ゾロアスター寺院の上にイランでもっとも古いモスクの一つであるマスジェデ・ジャメが建造され、イル・ハン朝の時代にはミナレットや説教壇が追加されました。
この頃には既にこの町において機織りが盛んであったと言います。
ナインの人たちはかつてゾロアスター教徒が掘った洞窟の中に機を設置し、ウール製の生地を製作していました。
のちにナインではアバーと呼ばれるアラブ伝来のコートが製作されるようになり、地下住居に付されたアバー・バーフィーの名には「アバー織り」の意味があります。
産業革命以降、安価なヨーロッパ産の機械織生地が出回るようになり、更に20世紀に入るととイランにおいても洋装が普及しはじめ、ナインの繊維産業は衰退してゆきます。
そうした状況を受け、この町においても絨毯製作が始まったのでした。
ナインにおける絨毯製作はイスファハンの職人の指導により1920年代に始まったとされます。
機織りに慣れていたナインの職人たちはたちまちにして腕を上げ、緻密な織りの作品を織りあげるようになりました。
ナインが絨毯産地として注目を浴び始めるのは第二次世界大戦の頃からで、当時ナイン産絨毯を競って買い求めたのはテヘランの成金たちであったと言います。
そうした中、のちに「ナイン絨毯の父」と称されるようになる絨毯作家が登場しました。
ファットラー・ハビビアン・ナイニーです。
彼の作品がロンドンにおいて好評を博してから、ナイン絨毯の作風は大きく変わりました。
それまでの暗めの色調はアイボリーを基調とした明るいものとなり、以後ナイン絨毯の代名詞として定着します。
ハビビアンがナイン絨毯の父と呼ばれるのはそのため。
ナイン絨毯は品質を表す三つのランクに分けられます。
上から順に「チャハールラー」「シシラー」「ノーラー」で、チャハール(4)、シシ(6)、ノー(9)の数字は縦糸の撚りの数。
数字が小さくなればなるほど糸は細くなり、織りは細かくなります。
縦糸には木綿が使用されるのが一般的ですが、近くのイスファハン同様パート・シルクの技法が用いられています。
ナインでは1990年代にノーラーの生産はほとんど終了しており、今日出回っているものはイラン中東部のタバスやカシュマールで製作されたコピー品が大半。
これらのコピー品にはナインで使用される天然染料ではなく合成染料が用いられ、またパイルの一部に使われる絹糸の代わりに木綿が使用されるなど、本物のナイン産に比べると品質は大きく劣るので注意が必要です。
ペルシャ結び、ダブル・ウェフト。
ナジャファバド
ナジャファバドはイラン中央部、イスファハン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ナジャファバド郡の郡都で、人口約20万人。
イラン有数の大都市であるイスファハンに隣接し、柘榴やアーモンドの産地として、また周辺地域における農産物の集積地として知られています。
サファヴィー朝のアッバス1世がイスファハンに遷都した後、首都防衛の城塞が築かれたのが町の起こり。
ナジャファバドにおける絨毯製作はナイン同様、イスファハンの絨毯職人の指導により1920年代に始まりました。
イスファハンで調達した素材と下絵とを用いて製作されるため外見上はイスファハン産と変わりないものの、縦糸には絹ではなく木綿が使用されており、織りもイスファハン産ほど細かくありません。
とはいえ染料の質は高く、手軽にイスファハン産の高級絨毯の雰囲気を味わえるとして魅力でした。
パルメットやイスリムで飾ったフィールドに八芒星型のメダリオンを配したデザインが圧倒的に多く、他にアフシャン文様、ジョーシャガン文様などがあります。
ナジャファバド絨毯は、かつて欧米に大量に輸出されており、絨毯業者の中にはこれらナジャファバド産を「イスファハン産」として販売しているところがあるので注意が必要。
大都市イスファハンの商業圏に組み込まれたナジャファバドにおける絨毯製作は、いまではほとんど行われなくなっています。
ペルシャ結び、ダブル・ウェフト。
ナスラバード
ナスラバードはイラン中央部、イスファハン州にあるペルシャ絨毯産地です。
イスファハン郡にある人口6000人ほどの村。
住民の多くはルリの定住民で、アバデ産に似た「イリヤティ」のデザインの絨毯を製作しています。
イリヤティはイリヤト(部族)の文様の意。
この村で産出される絨毯は上下に矢印に似た羊の角文様を持つメダリオンを配したデザインが特徴的です。
縦糸は木綿で、ダブル・ウェフトの丈夫な構造。
ビス
ビスはイラン中央部、イスファハン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ゴルパイガン郡にある村で、郡都ゴルパイガンの南に位置するこの村で産出される絨毯はアラク地方の絨毯との共通点が多く見られます。
しかし、そのデザインは大きく異なっており、鉤状の飾りを持つ六角形のメダリオンと菱形の大きなサルトランジが特徴。
織りは粗いものの、丈夫ゆえ実用に向いています。
ペルシャ結び、ダブル・ウェフト。
ファラドンベ
ファラドンベはイラン中央部、チャハルマハル・バクチアリ州にあるペルシャ絨毯産地です。
ボルジェン郡にあるバクチアリの村で、州都シャハレコレドとシャーレザのほぼ中間に位置し、隣接するボルダジ同様シングル・ウェフトの絨毯が製作されています。
ボルダジ産に比べると織りは緻密で、他のバクチアリ絨毯とは異なり、とても柔らかなウールが使用されています。
ヨーロッパ風の花文様を配した作品が多く、色調はかなり派手め。
シングル・ウェフトのバクチアリ絨毯の中では上ランクに位置しますが、色が滲みやすいのが欠点です。
パイルはトルコ結びで結ばれています。
フェリダン
フェリダンはイラン中央部、チャハルマハル・バクチアリ州にあるペルシャ絨毯産地です。
ザグロス山脈の東麓、チャーデガンの北にある地域の名。
アルメニア人の居住する地域に接し、イスファハンからイラン北西部の山岳地帯に至る幹線上に位置するこの地域では、バクチアリ絨毯の低級品が製作されています。
フェリダンで産出される絨毯は、シングル・ウェフトの構造ながら分厚く丈夫で、実用に向いています。
デザインはヘシュティとガービが大半ですが、他のバクチアリ絨毯のような繊細さはなく、きわめて武骨。
トルコ結びです。
ボルダジ
ボルダジはイラン中央部、チャハルマハル・バクチアリ州にあるペルシャ絨毯産地です。
ボルジェン郡にある村で、シングル・ウェフトのバクチアリ絨毯の中では中間ランクのものを産出しています。
同じシングル・ウェフトの構造を持つフェリダンよりも織りは細かくデザインは複雑。
ただし、摩耗しやすいので激しく使う場所には向きません。
ノットはトルコ結びです。
メイメ
メイメはイラン中央部、イスファハン州にあるペルシャ絨毯産地です。
シャヒンシャール・メイメ郡の郡都で、人口約6000人。
テヘランとイスファハンとを結ぶ幹線上に位置し、カジャール朝の時代にはジョーシャガン州(現在はイスファハン州の一部)の州知事の邸宅がありました。
メイメで製作される絨毯は隣接するジョーシャガンのそれ似た、いわゆる「ジョーシャガン文様」のものがほとんど。
ジョーシャガン産に比べると織りはやや緻密で、はっと目を引く美しい赤に特徴があります。
モバラケ
モバラケはイラン中央部、イスファハン州にあるペルシャ絨毯産地です。
モバラケ郡の郡都で、人口6万5000人。
イスファハンの南50キロに位置するこの町は、中東・北アフリカ最大の鉄鋼会社であるイラン・スチール・カンパニーを擁し、大規模な工業団地を形成しています。
モバラケにおける絨毯製作はイスファハンと同時期、20世紀初頭に始まったと言われています。
イスファハン絨毯に倣った流麗な花葉文様の作品を製作していましたが、町の工業化に伴い生産量は減少。
1980年代には生産を終えました。
コチニールで染色された青みがかった赤と濃紺とをベースにした作品が多く、織りは緻密で柔らかな作りが特徴。
ペルシャ結び、ダブル・ウェフトです。
ヤズド
ヤズドはイラン中央部、ヤズド州にあるペルシャ絨毯産地です。
ヤズド州の州都で人口約50万人。
カビール砂漠とルート砂漠が交わる荒れた高地に位置し「カビールの橋」と呼ばれるこの町は、古来ゾロアスター教の中心地として、また絹織物や陶器などの手工芸品の産地として知られてきました。
乾燥した砂漠地帯にあるこの町の周辺には世界最大のカナート(地下水路)が巡らされており、また歴史地区に残る建物にはバード・ギールと呼ばれる換気用の大きな塔が設けられています。
これらは2016年から2017年にかけて、ユネスコの世界遺産に登録されました。
ヤズドの歴史は3000年前にまで遡り、メディア王国の時代には「ヤスティス」「イッサティス」と呼ばれていました。
ササン朝の時代、第14代君主であったヤズデギルド1世(在位:399〜420年)がネハーバンドの戦いの後この町に立寄ったことからヤズドと呼ばれるようになったと言います。
その後、アラブ人の侵攻によりイランはイスラム化しますが、それを嫌うゾロアスター教徒は辺境の砂漠の町であるヤズドに逃がれて来て、以降この地に定住しました。
第3代正統カリフであったウスマーンの時代、バヌー・タミーム族がこの地を統治し、11世紀に入るとセルジュク朝の地方政権であったカークイエ朝が支配。
町は最初の繁栄期を迎えました。
カークイエ朝のガルシャースプ・イブン・アリー・イブン・ファラームルズがカトワーンの戦いで戦死すると、ルクン・アッディーン・サーム・イブン・ランガルがアタベく(摂政)となって、ヤズド・アタベク朝が成立。 しかし13世紀に興ったイルハン朝に滅ぼされます。
イルハン朝のアルグンは13世紀のモンゴルの侵攻後ホラサンから逃がれてきたアラブ人、シャラーフ・ウッディーン・ムザッファルをヤズドに近いメイボドの代官に任命し、その子ムバーリズ・ウッディーン・モハンマドは1318年、イルハン朝の第9代君主アブー・サイードに任じられてヤズドの総督に就任。
ムバーリズはアブー・サイードの死後1336年にムザッファル朝を興し、1353年にシラーズに移るまでヤズドを首都としました。
1392年ティムール朝の時代に入るとヤズドは最盛期を迎え、新しい城壁やターキーエと呼ばれる複合施設が建造され、町は整備されました。
サファヴィー朝、カジャール朝期には宮廷の直轄地となりますが、バーブ教徒の反乱、立憲革命など混乱の渦に巻き込まれました。
古来、ヤズドではテルメと呼ばれる絹織物が製作されてきました。
テルメはかつて上流階級の衣服に用いられたと言われ、1272年にこの地を訪れたマルコ・ポーロの『東方見聞録』にも記されています。
しかし、この地においていつの頃から絨毯が製作されていたのかは明らかでありません。
サファヴィー朝の時代、宮廷の直轄地であったヤズドには織物工房とともに絨毯工房が置かれていたことは十分にあり得ますが、ヤズドで製作されたと推定される作品は一枚も残っていないのが現実です。
信頼できる説としては18世紀のナディール・シャーの遠征後、戦利品となったホラサン地方の絨毯がこの地に運ばれ、それを模した絨毯が製作されるようになったとするものがあります。
古いヤズド絨毯には落ち着いた色調のヘラティ文様を配した作品(上の画像)が存在することが信憑性を与えており、18世紀以来この町においてそうした絨毯が製作されてきたことはおそらく間違いないでしょう。
しかし、それらの生産量は限られており、ヤズドにおける絨毯産業が本格化するのは19世紀末、ケルマンの職人の指導を受け始めてからのことです。
産業革命以降、安価な機械織製品に市場を奪われたのはケルマンやナインに同じ。
その打開策としてヤズド商人たちは近くのケルマンから職人を招聘し、絨毯製作を始めたのでした。
以来ヤズドではケルマン風の絨毯(上の画像)が製作されていましたが、イラン革命後ケルマン絨毯の輸出が激減したことを受け、国内需要を狙ったカシャーン風絨毯の製作に方向転換し今日に至っています。
カシャーン風のヤズド絨毯については「カシャーン産」として販売されているのをよく見かけますが、カシャーン産に比べるとデザインが単調で織りは粗く、品質は大きく劣るので注意が必要。
ペルシャ結び、ダブル・ウェフトです。
イラン中東部のペルシャ絨毯産地
タバス
タバスはイラン中東部、南ホラサン州にあるペルシャ絨毯産地です。
タバス郡の郡都で、人口は約3万5000人。
ルート砂漠とショリー山脈の狭間にある標高700メートルの町で、ナツメヤシや柑橘類をはじめとする様々な樹木が茂る緑豊かな町として知られています。
また近くには石炭鉱山があり、この町の経済を豊かなものにしています。
タバスの歴史は古く、ササン朝時代からホラサンへと通じる要衝として栄えました。
13世紀の蒙古軍の侵攻を逃れたのち、フェルドースとゴナーバードとを含めた共同体となります。
ザンド朝時代に建設されたゴルシャン庭園はペルシャ式庭園の傑作の一つとして有名です。
1978年この町をマグニチュード7.7の地震が襲い、ゴルシャン庭園を含む町の大半が壊滅。
死者は1万5000人にも上りました。
震災後の復興に向けた産業育成の一環として絨毯製作が始まり、以来ナイン産に倣ったアイボリーを基調とする明るい色合いの絨毯を製作するようになります。
1990年代にナインにおいてノーラーとよばれる9本撚りの木綿糸を縦糸に使用した絨毯の生産が終了してからは、その代用品を供給する産地として知られるようになりました。
最近では6本撚りの細い縦糸を持つ「シシラー」の代用品も製作されるようになっています。
ナインでは柄糸の一部に絹を用いたパート・シルクの技法が採用されていますが、タバスで製作された絨毯には木綿を使用したものも多くあります。
ペルシャ結び、ダブル・ウェフトです。
ドロクシ
ドロクシはイラン中東部、南ホラサン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ビルジャンド郡にある町で、ビルジャンド、ガエンなどとともに、かつて「クヘスタン」と呼ばれたアフガニスタン国境に近い山岳地帯にあります。
ホラサンはティムール朝期以来の絨毯製作の歴史を持つと言われる地方。
この地方はヘラティ文様の発祥の地と言われ、ホラサンの中心であったヘラートに由来したものであるこっはよく知られています。
また18世紀のナーディル ・シャーによるインド遠征により戦利品となったムガール絨毯がこの地に伝わり、そのデザインが真似られるようになったとも言われます。
19世紀後半に始まるイランにおける絨毯産業の復興期、ドロクシにおいても生産が本格化しました。
ヘラティのほかムガール絨毯の影響を受けたボテ(ペイズリー)など繊細で複雑なデザインに加え、フランスのオービュッソンやサボネリエで製作された敷物(上画像)の影響を受けたと思われる抑制された色調が特徴。
主にフランスに向けて輸出されていましたが、第二次世界大戦後に生産を終えました。
古い作品には縦横糸にウールが使用されていますが、20世紀に入ってからのものは木綿が一般的です。
ペルシャ結び、ダブル・ウェフト。
ビルジャンド
ビルジャンドはイラン中東部、南ホラサン州にあるペルシャ絨毯産地です。
南ホラサン州の州都で、人口は約22万人。
アフガニスタン、パキスタンとの国境に近く、マシャドからペルシャ湾岸のチャーバハールに至る幹線上に位置するイラン東部の主要都市の一つで、イラン料理には欠かせないサフラン、メギの産地でもあります。
古来この地方はクヘスタン(山国)と呼ばれ、サファヴィー朝期にはそれまでクヘスタンの中心であったガエンに代わって栄えました。
カジャール朝期まではアラム一族による自治が敷かれていましたが、中央集権を目指したパフラヴィー朝期に入るとその重要性を失い、マシャドを州都とするホラサン州に組み込まれます。
クヘスタン地方が南ホラサン州として独立するのは2004年になってからのことでした。
クヘスタン地方は一説によると、ティムール朝期以来の長い絨毯織りの歴史を持つとされていますが、生産が本格化するのは19世紀後半のことです。
ビルジャンドにおいても絨毯産業を主導したのはミールザ・アブドルアリー・タブリーズィーらのタブリーズ商人たちでした。
第二次世界大戦の頃まではマシャド産に倣った暗い色調の絨毯が製作されていましたが、今日ではタブリーズ産に似たヘラティ文様と、バクチアリ風のヘシュティ文様の作品が大半。
ホラサン土着のホラサニ種の羊の良質なウールがパイルに使用されており肌触りは滑らかですが、イスファハンやケルマン同様、ジュフティで結んだものも多いので品質を見きわめる必要があります。
小さなマットからランナーまで、あらゆるサイズがあり、パイルの一部に絹糸を用いたパート・シルクの作品もよく見かけます。
ペルシャ結び、ダブル・ウェフト。
フェルドース
フェルドースはイラン中東部、南ホラサン州にあるペルシャ絨毯産地です。
フェルドース郡の郡都で、人口は約3万人。
砂漠地帯(主に南と西)と山岳地帯(特に北と東)の間のイランの高原に位置しており、柘榴とサフランの産地として有名です。
メディア人によって建設されたこの町は、かつて「タバン」と呼ばれていたと言います。
イスラム化以降はトゥーンと呼ばれガエンとともにホラサン南部の主要都市して知られるようになりますが、1239年、蒙古軍の侵攻を受けて壊滅しました。
その後、町は復興して往年の繁栄を取り戻します。
1929年にフェルドースに改名されますが、1968年の地震により大きな被害を受け、町の規模は縮小されました。
フェルドースで産出される絨毯は、主に町の周辺に暮らすバルーチ族が製作したもの。
1970年代には俗に「バーバー・タイプ」と呼ばれる黒や茶、灰色の羊のウールを使用したモノトーン調の作品が登場しました。
ペルシャ結び、ダブル・ウェフトです。
ムード
ムードはイラン中東部、南ホラサン州にあるペルシャ絨毯産地です。
州都ビルジャンドの一帯はマシャドやサブゼヴァー、カシュマールなどと並びイラン東部における主要な絨毯産地として知られるが、そのうち最も品質の高い絨毯を産出しているのがムードです。
ムードにおける絨毯製作は、19世紀末にマシャドの絨毯職人の指導を受けて始まったと考えられます。
それゆえ、かつてはシャー・アッバスのパルメットをあしらった暗い色調のものが大半でした。マシャド絨毯は主にヨーロッパで人気があったため、第二次大戦を契機としてマシャドにおける絨毯産業が低迷期を迎えると、ムードでは明るい色調のヘラティ文様を一面に配した絨毯が製作されるようになります。
ヘラティの名はかつてホラサン地方の一部であったアフガニスタン西部の町ヘラートに由来するといわれ、もともとこの地方土着のデザインですが、新たに製作されるようになったのは細やかな都会風の垢抜けたものです。
それは瞬く間にビルジャンド一帯へと伝搬し、やがてこの地域における主流として定着することになりました。
今日、ムード産として流通している絨毯の中には品質の劣るビルジャンド産が多く混ざっているのが実際で、実際にムードで製作されたものは少数です。
パイルはペルシャ結びを用いて極めて緻密に結ばれますが、これにはホラサニ種というホラサン地方の羊のウールが用いられます。
ホラサニ種のウールは柔らかくてコシがあり、良質なことで有名。
パイルの一部に絹を用いたパート・シルクの作品も今日では一般的となりました。
縦糸と横糸は木綿で、ルール・バフト、ダブル・ウェフトの構造です。
イラン南西部のペルシャ絨毯産地
アバデ
アバデはイラン南西部、ファース州にあるペルシャ絨毯産地です。
アバデ郡の郡都であり、北ファースでは最大の町。
人口は約6万人で、住民にはカシュガイやルリ、アフシャルの定住民も多くいます。
ササン朝の時代からアバデ周辺には城塞が築かれていましたが、本格的な町として発展したのはシラーズが首都となったザンド朝の時代から。
標高2000メートルの肥沃な高原地帯に位置するアバデは、北ファースの主要な農作物の集積地として、また胡麻油、蓖麻子油のほか、絨毯、木彫、ギーベと呼ばれる布靴などの手工芸品の産地として有名です。
かつてこの町で製作される絨毯は「ジリ・スルタニ」に代表されるユニークなデザインで知られていましたが、最近では「ヘバトゥルー」とよばれる、カシュガイ風の幾何学的なメダリオン・コーナー・デザインがほとんど。
縦横糸には木綿が使われるので、一般にウールを使用しているカシュガイ産やシラーズ産との識別は容易です。
青い横糸が用いられることもしばしば。
ランナーを含むすべてのサイズを製作していますが、もっとも多いのはドザールです。
ペルシャ結び、ダブル・ウェフト。
シラーズ
シラーズはイラン南西部、ファース州にあるペルシャ絨毯産地です。
ファース州の州都で人口は約120万人。
ザクロス山脈の海抜1486mに位置し、温和な気候を利用して穀物や柑橘類、棉花、花卉などが栽培されています。
イラン革命以前はワインの産地としても有名で、フランスのローヌ地方のシラー種はイランからフランスに持ち込まれたとする説があるほど。
石油化学コンビナートや精製所、セメント,砂糖,肥料,織物などの工場を有する工業都市でもあり、また世界に知られる名門シラーズ大学を有する教育都市、更にイスファハンに並んでイランを代表する観光都市でもあります。
この町を創建したのは『シャー・ナーメ』(王書)に登場する古代ペルシャ第3代の王、タフムーラス(ジャムシードの父)であると伝説されるほどに古い歴史を有しており、シラーズの名は、古くはエラム語のティラチスあるいはチラチスに由来したものとされています。
セレウコス朝からササン朝に至るまでの重要都市の一つであり、932年にイマード・ウッダウラ、ルクン・ウッダウラ、ムイッズ・ウッダウラのブワイフ三兄弟が興したブワイフ朝ではその首都となりました。
モンゴル人の支配下においてシラーズは、モスクや霊廟、大図書館を擁してバグダードに匹敵する宗教・教育の中心地となり、イランが生んだ二大詩人サアディーとハーフィズを輩出。
また、シラーズ派と呼ばれた細密画家たちの本拠地となり、ペルシャ文化が開花します。
サファヴィー朝の時代には第5代君主であったアッバス1世が首都イスファハンとともにこの町を整備。
シラーズは20万人の人口を擁する都市に成長し、最盛期を迎えました。
サファヴィー朝の滅亡後、1750年にザンド族のカリム・ハーンが興したザンド朝の首都になり、新たにモスクや城塞が建造されますが、イランの覇権を狙うカジャール部族連合のモハンマド・ハサンがシラーズに侵攻。
これを撃退しモハンマド・ハサンを討ち取ったカリム・ハーンは、モハンマドの息子アガー・モハンマドを人質としてシラーズに軟禁しました。
1779年にカリム・ハーンが没すると、アガー・モハンマドはシラーズを脱出。
カジャール朝を興してザンド朝を滅ぼします。
パフラヴィー朝第2代君主であったモハンマド・レザー・シャーはシーラーズをイスファハンとともに「イランのパリ」にすべく大金を投じ、町は数あるイランの都市のなかでもとくに近代的な大きな都市となりました。
シラーズ産として流通している絨毯は、実はシラーズの町で製作されたものではありません。
シラーズの周辺にはカシュガイやハムセ、ルリらの部族、あるいはその亜族らが暮らしており、彼らが製作する絨毯はシラーズのバザールに集積されます。
製作した部族を特定できるものには部族名が付されますが、そうでないものも多く、そのため便宜上「シラーズ産」の名称を用いている訳です。
「カシュガイ産の別名がシラーズ産である」とか「カシュガイ絨毯の低級品がシラーズ産として取引される」とか説明されることがありますが、完全な誤りとは言えないものの正解ではありません。
ちなみに最近人気のギャッベについて「カシュガイの遊牧民が移動しながらテントの中で製作している」とする説明をする絨毯業者が大半ですが、ギャッベは定住したカシュガイが製作したものがほとんど。
シラーズの絨毯商の中にはいくつもの「ギャッベ御殿」を持つ者さえいることは知っておいてよいでしょう。
ニリーズ(ファース州)
ニリーズはイラン南西部、ファース州にあるペルシャ絨毯産地です。
シラーズとシルジャンの中間にある村で、バーブ教徒1850年のバーブ教徒の乱の中心地の一つとなりました。
この町では支配者と市民の一部が対立関係にあり、ヤズドから来たアガー・セイエド・ヤフヤ・ダラービが布教を始めると、すぐに1000人ほどがバーブ教に改宗。
これにより対立が激化し、蜂起に至りました。
ダラービ率いるバーブ教徒は郊外の城塞を占拠しますが、ファース総督軍により2ヶ月で鎮圧。
1853年には都市支配者がバーブ教徒に暗殺され、小規模な蜂起が再発しました。
カシュガイ風のヘバトゥルー文様の絨毯などはシラーズ産として取り扱われるのが一般的ですが、縦横糸には木綿を使用されており、構造的にはアフシャル絨毯との共通点が見られます。
デザインや色調にシルジャンなどアフシャルの影響を強く受けたものもあり、樹木文様はよい例です。
特徴的な赤はシラーズの赤より明るいのが特徴。
ペルシャ結びで、ニム・ルール・バフトの構造です。
フィルザバド(ファース州)
フィルザバドはイラン南西部、ファース州にあるペルシャ絨毯産地です。
イラン南部最大の都市であり、ザンド朝の首都ともなったシラーズの南方に位置する村。
この一帯はイランに住むトルコ系最大の部族であり、現在も頑なに遊牧生活を営むカシュガイ族の冬の宿営地となっており、フィルザバドの住民には遊牧生活を捨てて定住した元カシュガイ族もいます。
フィルザバドで産出される絨毯は、カシュガイ族の中でも最も品質の高い絨毯を製作しているカシュクリ族出身者によるもので、ビレッジ・ラグとしては最高の品質を有しています。
なかには同じくトルコ結びによって製作されるタブリーズの最高級品に引けを取らぬ驚異的なノット数を持つものさえあり、徹底した品質管理がなされていることがわかります。
パイルには少し硬さのあるファース地方の羊のウールが使用されますが、染料の質は極めて高いです。
カシュクリ族に限らずカシュガイの諸部族は縦糸と横糸にもウールを用います。
しかし、元カシュガイ族が製作するアバデのものと同様に、フィルザバド産には綿が使われるのが一般的。
また、カシュガイ産に多いニム・ルール・バフトではなくルール・バフトの構造です。
ドザール以下のサイズがほとんどで、大きなものはあまり見かけません。
一般にカシュガイ族伝統のデザインが用いられますが、仕上りは都市部で製作される絨毯に近いです。
フィルザバド産絨毯の産出量は限られており、入手が難しいものの一つと言えるでしょう。
イラン南中部のペルシャ絨毯産地
ケルマン(ケルマン州)
ケルマンはイラン南中部、ケルマン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ケルマン州の州都でルート砂漠の西端、標高1755メートルの高地に位置し、人口は約60万人。
ケルマンには僅かにゾロアスター教徒が存在しています。
7世紀にイランがイスラム化されると大半のゾロアスター教徒がインドに逃れますが、彼らはイランに留まった教徒たちの子孫。
今日、イラン国内のゾロアスター教徒は2万5000人ほどと言われます。
この町の歴史はササン朝の時代にまで遡り、アルデシール1世により創建されたとするのが定説。
ケルマンの名はギリシャ人がこの町を呼んだ「カルマ二」に由来するとされます。
1048年、セルジューク朝を興したトゥグリル・ベグの甥カーブルト・ベグの一軍がホラサンから侵攻し、セルジュク朝の地方政権であるケルマン・セルジュク朝を建国しました。
第4第君主トゥラーン・シャー1世はファース地方を勢力下に置き、更に第7代君主アルスラーン・シャー1世の時代にはオマーンを支配し、最盛期を迎えます。
ケルマンは交易都市として大いに栄えますが、内紛により徐々に衰退し、やがてトクメンの侵攻を招いてケルマン・セルジュク朝は1187年に滅亡しました。
その後はモンゴル人のフラグ・ハンが興したイルハン朝に支配されます。
1271年にこの町を訪れたマルコ・ポーロは『東方見聞録』に「王国は滅ぼされタルタル人の統治者がいる」と記していますが、タルタル人というのはタタール人のことでモンゴル系の人たちのこと。
更にマルコはケルマンについて「トルコ玉を産し馬具やカーテンを生産する」と紹介しています。
サファヴィー朝の時代になると、更なる発展を見たと言われますが、サファヴィー朝の滅亡後は不幸な時代を迎えることになりました。
1794年、カジャール部族連合のアガー・モハンマド・ハーン(のちにカジャール朝初代君主アガー・モハンマド・シャー)がケルマンを攻撃。
町は破壊され、住民の多くは虐殺されました。
その後もとの町の北西に新たに町が建設されます。
サファヴィー朝の時代、この町には宮廷直営の絨毯工房が開設され、数々の名品が製作されたと伝えられます。
「花瓶文様絨毯」や「サングスコ絨毯」がその代表格ですが、都から遠く離れたケルマンに宮廷工房が存在したとは考えにくいとして異議を唱える研究者がいるのが実際。
とりわけサングスコ絨毯については「ケルマンに動物文様の伝統はなく、イスファハンもしくはカシャーンで製作されたとするのが自然」と米国ペルシャ美術考古学研究所長であったアーサー・ウブハム・ポープは見解しており、イラン国立絨毯博物館はその産地をタブリーズないしはカシャーンとしています。
ケルマンでは古来「パテ」と呼ばれる刺繍が盛んで、かつてはインドのカシミール地方と並ぶ手織ショール(上画像)の名産地でした。
しかし産業革命以降、ヨーロッパで安価な機械織ショールが流通するようになると需要が激減。
ショール産業は衰退します。
19世紀末、スルタナバード(現在のアラク)におけるジーグラー商会の成功に触発された米国のイースタン・ラグ社がこの町に絨毯工房を開設。
イスタンブールで活動していたイタリアのネンルコ・カステリー商会、英国のオリエンタル・カーペット・マニュファクチャーズ社(OCM)も進出し、ケルマンにおける絨毯製作は短期間のうちに軌道に乗りました。
その背景には、ショール産業で培った技術があったことは紛れもない事実でしょう。
復興期においてはモフセン・ハーン・シャーロキとアフマド・ハーン・シャーロキという巨匠が現れました。
のちのケルマン絨毯のデザインは、この二人の下絵師の影響が大であったと言えます。
1920年代から30年代にかけてはアリー・ケルマニや「ケルマンの絨毯王」とよばれたモハンマド・イブン・ジャーファル(モハンマド・アルジュマンド)らの絨毯作家、アフマド・ハーン・シャーロキの息子であるホセイン・ハーンとハサン・ハーン兄弟らの下絵師が活躍し、数々の名作を生み出しました。
ケルマンはペルシャ絨毯の最高級品を産する町として世界的に有名になり、1937年に日本建築学会が発行した『窓掛と敷物』と題する小冊子にも「一番この『ペルシャ』のもので有名な(Kirman)ものは、其の性質が最もよろしい」と記述されています。
しかし第二次世界大戦後の米国市場においてプレイン・タイプの俗に言われる「ケルマン・コーラニ」(上画像)や「アメリカン・ケルマン」(下画像)が人気になると、ジュフティを用いた質の劣るものも製作されるようになりました。
ケルマン・コーラニはコーランの表紙を模したデザインで、赤や濃紺、濃緑を基調とした厳格なデザインであるのにのに対し、アメリカン・ケルマンはパステル・カラーを基調とした柔らかで自由な作風が特徴。
1979年にイラン革命が起こり、米国大使館占拠事件をきっかけに米国との国交が断絶。
ケルマンの絨毯産業は大きなダメージを受けます。
以後生産量は減少し、今日に至っています。
ケルマンでは紡績前に染色する先染めを用いており、色の深さはイラン随一ですが、1930年代からは合成染料が使用されはじめました。
ノットはペルシャ結び、構造はダブル・ウェフトです。
シャハレババク(ケルマン州)
シャハレババクはイラン南中部、ケルマン州にあるペルシャ絨毯産地です。
シャハレババク郡の郡都で、人口は約4万人。
住民の多くはサファヴィー朝のイスマイル1世により強制移住させられたアフシャル族です。
近郊にはイラン最大の銅山があり、鉱業が盛ん。
この地域には1万2000年前から人が住んでいたと言われ、シャハレ・ババクから36km離れたメイマンド村にはイラン高原で最初に人類が住んでいた痕跡が残っています。
シャハレババクは「ババクの町」の意で、その名は町を創設したと伝えられるペルシス王国の君主、ババクの名に由来するもの。
ババクはアルサケス朝末期の混乱の中で次第に勢力を拡大しました。
ファース地方の領主の娘を娶った後、義父の一族を廃してペルシス王国を建国したと言われます。
ペルシス王国はアルケサス朝に敗れてその傘下に入りますが、ファース地方からケルマン地方に至るまでの地域を支配し、アルケサス朝下では最大の勢力を有していました。
ババクの子アルデシール1世は224年、アルケサス朝に反旗を翻し、ホルミズド平原の戦いにおいてアルタバノス4世に勝利。
これによりササン朝が誕生します。
シャハレババクで産する絨毯はアフシャル族が製作する、いわゆる「ケルマン・アフシャル」ですが、ジルジャン産と並びそれらの中でももっとも質の高いものとして知られています。
デザインはアフシャルの伝統的文様である様々な幾何学文様のほか、ケルマン絨毯に倣った千花文様もあり多彩。
縦糸には木綿が使用されますが、ルール・バフトとニム・ルール・バフトの二つがあります。
ペルシャ結び、ダブル・ウェフトです。
シルジャン
シルジャンはイラン南中部、ケルマン州にあるペルシャ絨毯産地です。
シルジャン郡の郡都で、人口は約35万人。
州内ではケルマンに次ぐ人口を有しています。
ザグロス山脈とビッドハン山脈との狭間に位置し、ピスタチオのほか、アーモンド、胡桃、薬草の産地として有名です。
かつては流刑の地でしたが、石炭、鉄、銅、金などの鉱物資源に恵まれ、またケルマン、シラーズ、そしてペルシャ湾岸の港町バンダル・アッバスとを繋ぐ中継地として栄えました。
町はアケメネス朝からアルケサス朝にかけての時代、もしくはササン朝の時代に創設され「シルガン」と呼ばれていましたが、アラブ人の侵入後、アラビア語の発音に合わせてシルジャンと呼ばれるようになったと言います。
シルジャンの周辺にはアフシャルが暮らしており、シルジャン産とされる絨毯はアフシャルの女性たちが製作したもの。
いわゆる「ケルマン・アフシャル」(アフシャルを参照)としてはシャハレババク産とともに最高級品とされます。
縦糸には木綿が使用されるのが一般的で、ペルシャ結び、ダブル・ウェフト。
ダハジ
ダハジはイラン南中部、ケルマン州にあるペルシャ絨毯産地です。
シャーババク郡にある町で、人口は約8000人。
マサーフン山脈の麓に位置し、住民の多くが定住したアフシャル族です。
ラバー
ラバーはイラン南中部、ケルマン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ラバー郡の郡都で人口は約2万5000人。
ルート砂漠の端に位置するこの町は、かつてケルマン地方で産出される絨毯の最高級品を製作することで有名でした。
この町において最高級のケルマン絨毯が製作されるようになった経緯について、1794年のアガー・モハンマド・ハーンによる虐殺を逃れたケルマンの絨毯職人たちがラバーに住み着いたからだと説く者がありますが、当時のケルマンでは絨毯製作は行われておらず、単なるお伽話に過ぎません。
ラバーにおける絨毯製作はケルマン同様19世紀末に始まりました。
当時ラバーにおける絨毯製作を取り仕切っていたのは、この町を治めるアッバス・ハーン・ナヒー(ヤーバル)という人物でした。
20世紀初頭にはケルマンの絨毯作家アリー・ケルマニやモハンマド・イブン・ジャーファル(のちにモハンマド・アルジュマンドと改名)らの注文を受け、ラバーはケルマン絨毯の最高級品を産出する町として知られるようになります。
しかし、第二次世界大戦の頃から徐々に品質が低下。
とりわけイラン革命以降は主要な輸出先であった米国との取引がなくなったこともあり、かつてのような逸品はほとんど製作されなくなりました。
今日ラバーの名はアラク地方の「サルーク」同様、品質を表す名称として使われており、その生産は、むしろラフサンジャンやマハンが主流になっています。
ラフサンジャン
ラフサンジャンはイラン南中部、ケルマン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ラフサンジャン郡の郡都で、人口は約13万5000人。
乾燥した砂漠地帯に位置するこの町はピスタチオの産地として有名です。
アリー・アクバル・ハシェミ・ラフサンジャニ元大統領はラフサンジャン郊外のナフ出身。
ラフサンジャンで産出される絨毯はケルマン産に倣った千花文様の作品がほとんど。
織りは緻密で、最近ではケルマン絨毯の最高級品として知られる「ケルマン・ラバー」の多くがこの町で製作されており、ラフサンジャン産として出回ることは通常ありませんが、イラン絨毯公社(ICC)では産地名にラフサンジャンを用いています。
ダブル・ウェフトの構造で、ノットはペルシャ結び。
イラン南東部のペルシャ絨毯産地
ザボール
ザボールはイラン南東部、シスターン・バルーチスタン州にあるペルシャ絨毯産地です。
ザボール郡の郡都で、人口13万人。
シスターン・バルーチスタン州では三番目に大きな町です。
かつてはシスターンと呼ばれていましたが、パフラヴィー朝のレザー・シャーにより現在の名に改められました。
アフガニスタンとの国境に近く、周辺にはバルーチ族が暮らすこの町の住民はダリー語やバルーチ語に近いペルシャ語の方言を話します。
ザボールはイランとアフガニスタンを繋ぐだけでなく、アフガニスタンからペルシャ湾岸のチャバハル港へと至る経由地となっており、デララム・ザランジ高速道路が走っています。
古来、北から南に吹く夏に非常に持続的な塵の嵐である 「バーデ・サドー・ビースト・ルーズ」(120日間の風)は有名でしたが、それは数時間で人間の肺に損傷を与える可能性があるとして、世界保健機関(WHO)は2016年、ザボールを大気が汚染された町の世界ワースト・ワンに認定しました。
ハムン湖に近く、古来ヘルマンド川の灌漑施設に頼ってきましたが、近年来の温暖化によりハムンの湿地帯は徐々に狭まり、2000年には消滅が確認され、農業は大きな打撃を受けています。
もともとザボールは周辺のバルーチ族が製作した絨毯の集積地として知られていましたが、危機に瀕した農業に代わる産業育成にイラン絨毯公社(ICC)や農村復興聖戦隊(ジハード)が乗り出し、最近ではイスファハンやカシャーンに倣った都市風の絨毯が製作されるようになりました。
赤や濃紺を基調としたドザールとキャレギがほとんどです。
ペルシャ結び、ダブル・ウェフト。