旧渋沢邸(有形文化財・旧渋沢家住宅)
2024年7月14日に新札が発行されました。
新1万円札に描かれているのが「日本近代経済の父」として知られる渋沢栄一です。
旧渋沢邸(有形文化財・旧渋沢家住宅)は栄一と篤二(長男)、啓三(孫)、雅英(曽孫)の各氏が四代にわたり暮らした邸宅。
木造2階建、延べ床面積は約1200平方メートルで、栄一が暮らした邸宅の中では唯一現存するものです。
栄一が擬洋風建築の最高峰ともいえる第一国立銀行を手がけた清水組(現在の清水建設株式会社様)第2代当主の清水喜助に設計・施工を依頼し、1878年(明治11年)、深川区福住町(現在の江東区永代)に竣工しました。
1908(明治41)年に渋沢家が三田綱町(現在の港区三田)に転居した際、清水喜助の手による表座敷はそのまま移築され、新たに和館が増築されました。
1929(昭和4)年には応接室などを備えた洋館が更に増築され、和洋折衷のスタイルになりましたが、この洋館は清水組の技師であった西村好時が設計を担当しました。
西村はのちに独立して銀行建築の大家となります。
戦後は国有化されて大蔵大臣公邸や三田共用会議所として中央省庁の会議場に使われていましたが、老朽化による解体の危機を迎えたため、渋沢家の秘書兼執事であった杉本行雄が購入し、1991(平成3)年に青森県六戸町の小牧温泉敷地内に移設しました。
2018年に清水建設様がこれを買い取り、江東区にある同社のイノベーション・人材育成施設NOVARE内に移築。
2023年11月には、日本の近代住宅史上における貴重な建造物として、江東区指定有形文化財に指定されています。
弊社は2022年8月、旧渋沢邸の応接室を再現するにあたり、清水建設様よりペルシャ絨毯の考証と調達を依頼されました。
1929年(昭和4年)に撮影された旧渋沢邸の第二応接室。
当時としては随分とハイカラなものだったでしょう。
第二応接室
の写真は1枚しかなく、調度品もテーブルだけが現存しているだけでした。
渋沢栄一(1840~1931年)
渋沢栄一は武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市)の豪農の家に生まれました。
尊王攘夷論に傾倒し倒幕運動に参加しますが、のちに京都の一橋徳川家に仕え、慶喜が将軍になるに伴い幕臣となります。
1967年(慶応3)、幕府の遣欧使節団に加わり、ヨーロッパ各地を訪問して近代的産業設備や経済制度を見聞しました。
維新後に帰国して大蔵省に出仕。
井上馨のもとで貨幣、金融、財政制度の制定と改革に参与するとともに、株式会社制度に関する知識の普及に尽力しました。
1873年に大蔵省を退職すると同時に第一国立銀行(現みずほコーポレート銀行)を創立して頭取に就任します。
王子製紙,大阪紡績、東京海上、日本鉄道など500余の会社設立に関わり、日本資本主義の発展に大きく貢献しました。
また東京商法会議所(現東京商工会議所)、東京銀行集会所、東京手形交換所などを設立するなど財界の組織化にも尽力しました。
1915年(大正4)、渋沢同族株式会社を設立して第一銀行を中核とする渋沢財閥を形成し、翌年には実業界の第一線から引退。
以後は東京商科大学など実業教育機関の創設や各種の社会事業に注力しました。
渋沢敬三(1896〜1963年)
渋沢敬三は渋沢栄一の孫として東京市深川(現東京都江東区)に生まれます。
1921(大正10)年に東京帝大経済部を卒業し、横浜正金銀行に入行。
東京支店、ロンドン支店勤務を経て、1925年栄一が設立した第一銀行の取締役となります。
1941(昭和16)年に同行の頭取に就任し、翌年には日銀副総裁、その翌年には総裁を勤めた後、1945年に幣原喜重郎内閣の大蔵大臣となり、戦後のインフレ対策と国家債務の整理に取り組みました。
その後、GHQによる財閥解体、公職追放により三田の自邸を物納。
1951年の解除後は国際電信電話会社「のちのKDDI)初代社長、IOC国内委員会議長、文化放送会長、日本国際商業会議所会頭、日本航空相談役、金融制度調査会会長などを歴任し、財界の世話役として活躍しました。
民俗学への造詣も深く、自宅にアチック・ミューゼアム・ソサエティ(のちの日本常民文化研究所)を開設したほか、多くの民俗学者を支援するとともに、自らも日本民族学協会会長、日本人類学会会長を勤めています。
敬三氏の膨大なコレクションは国立民族学博物館の収蔵品の母体となりました。
著書に『豆州内浦漁民史料』『日本魚名集覧』『明治文化史』などがあります。
渋沢家とペルシャ絨毯
旧渋沢邸の洋館が建築されたのは1929年(昭和4年)のことです。
当時、栄一翁は飛鳥山に本拠を移していたので、洋館を増築したこの屋敷のオーナーであったのは、孫の敬三氏に違いありません。
ペルシャ絨毯についての記録がほとんど残っていないことから、昭和の中頃まではペルシャ絨毯をインテリアに取り入れる家庭は、きわめて稀であったと考えられます。
ならば、これらのペルシャ絨毯が如何なる経緯を辿って敬三氏の元にもたらされたのでしょうか?
洋館の完成に伴い調度品を揃えたのは間違いないでしょうが、1930年(昭和5年)に建築学会(現・日本建築学会)が発行した『窓掛と敷物』と題するパンフレットには、こうあります。
「『ペルシャ』の『カーペット』は、手織『カーペット』の中、特に優秀なる製品にして、美術的價値も充分に具備して居る(中略)從つて價格も高貴なる爲め實用に供するより、 室内裝飾用として壁掛に用ひられ、貴重なる絨氈として取扱つて居る」。
筆者の宮内順治氏は高島屋呉服店(現・高島屋)の家具装飾部主任
した。
また、1935年(昭和10年)に三越が開催した「波斯段通陳列會」のカタログには、大きなサイズの絨毯は掲載されていなかったと記憶します。
これらから推察するに、当時、わが国には大きなサイズのペルシャ絨毯が輸入されていなかったのではないでしょうかか。
もし、そうであるなら入手先はどこであったのでしょうか。
敬三氏は1921年(大正10年)に東京帝国大学経済学部を卒業し、横浜正金銀行に入行。
翌年には岩崎弥太郎の孫である木内登喜子と結婚したのち、ロンドン支店勤務を命じられ、英国に渡っています。
ロンドンは20世紀中頃までにおける、ペルシャ絨毯取引のヨーロッパ最大の拠点でした。
当然、町でペルシャ絨毯を目にする機会は少なくなかったでしょう。
同じ頃、ロンドンに留学していた清水組(現・清水建設)の森谷延雄氏が『木工と裝飾』に寄せた「絨毯の話」と題する記事には「ペルシャ絨毯の大半はこれ(注:トルコ絨毯)に反して特殊の大形のものが主に成っているので、歐洲の室内にはその國で製作せられた敷物のごとく適合せられる理に行かぬ場合がある」とあります。
敬三氏は廃嫡となった父親の篤二氏に代わり、すでに渋沢家の後継者となっていました。
入行2年目の銀行員とはいえ渋沢同族株式会社の社長でもあったのですから、ロンドンでそれらを購入した可能性は十分にあります。
敬三氏は栄一翁の体調が芳しくないため、1926年(昭和元年)に帰国し、横浜正金銀行を退職。第一銀行の取締役ならびに澁澤倉庫の取締役に就任しています。
敬三氏がペルシャ絨毯を求めた頃は経済人として盛んに活動し、自邸の応接室にも政界・財界の歴々が訪れていたことは想像に難くありません。
一方で、敬三氏は仕事の傍ら民俗学に傾倒し、市井の民俗学研究者を多数、経済的に援助していたとも伝えられます。
豪華な調度品を買い揃えることは経済的に難しかったかもしれません。
2022年8月に旧渋沢邸第二応接室のペルシャ絨毯の考証・調達の依頼を受けてから2ヶ月余にわたり、資料を漁る日々が続きました。
産地については、いくつかの候補が見つかったものの、いずれも決定打を欠いており、確信を持てずにいたのでした。
そこで、インターネット上の2つのアンティーク絨毯愛好家のグループ内にて問うてみましたが、納得のゆく回答を得ることはできませんでした。
そんな折、とある海外のサイトで見つけた1枚の絨毯が突破口となり、状況が急展開します。
以後は糸で引かれるが如く順調に進みました。敬三氏は
あたかも、それが必然であるかのように……。
大阪にある国立民族学博物館の収蔵品は、敬三氏のコレクションが母体になっています。
同博物館は、わが国でアンティークのペルシャ絨毯を所蔵する数少ない博物館の1つです。
また、栄一翁は国際交流にも心血を注がれたときます。
このたびの考察と調達では満足できる成果を得られましたが、これは欧米の絨毯研究家や絨毯商の協力によるところが大きいのが事実です。
彼らと海を越えて親交を結ぶことができたのもまた、大きな成果でした。
身は滅んでも魂は残るといいます。
こうした成果のすべては、もしかしたら敬三氏や栄一翁の導きによって得られたものなのかもしれません。
このたび再現された第二応接室。
弊社が納入した2枚のアンティークのペルシャ絨毯が敷かれています。
大きな方は1920年代のドロクシ産で、小さな方はジョーシャガン産です。
第二応接室の再現に当たっては、壁紙とカーテンは(株)川島織物セルコン様、家具は「椅子の神様」とよばれる宮本茂紀氏率いる(株)MINERVA様など、当該分野におけるわが国一流のプロたちが結集しました。
店舗案内
名称 | Fleurir – フルーリア – |
---|---|
会社名 | フルーリア株式会社 |
代表者 | 佐藤 直行 |
所在地 | ■ペルシャ絨毯ショールーム【予約制】 ■サロン・ド・フルーリア(フルーリア東京事務所) ■イラン事務所 ■警備事業部(準備中) |