中世におけるペルシャ絨毯の製法
ペルシャ絨毯を長い月日をかけて中断することなく織り続け織り出してゆく作業が、「繰り出す」ことや物の形容詞として使われることがあります。
例えばササン朝期に製作されたといわれる「ホスローの春」のように、出来上がりの大きさが1000平米を超えるものもあったといわれるほどに、その大きさこそが欲望の広がりと対比されるのは当然のことでしょう。
ホスローの春が絨毯であったかキリムのようなものであったかは別にして、その作業はきわめて根気のいる、そして想像もつかないほど気の遠くなるようなものだったに違いありません。
かつてペルシャといわれた現在のイランでは、手織の絨毯は機械織に押されつつありますが、それでもなお、街々の隅では、依然として地味で丹念な手織作業が続けられているのは実に喜ばしいことです。
では、紀元10世紀前後のペルシャでは、一体どのようにしてこの豪華巨大な絨毯が製作されていたのでしょうか?
絨毯織りの技術に関しては、中世までの記録はほとんどありません。
ましてや、秘伝であり東方異教徒の作るものとなると、西欧社会でその調査記録や資料を探すことは絶望的というに近い状態です。
ところが東京音楽大学教授であった山根章弘著『羊毛物語』によれば、1980年代前半に絨毯の技法に関する学術調査の成果が報告されたといいます。
ここで報告された技法の内容は、中世期のほとんど全期間にわたって正確に当てはまるものといわれています。
引用してみましょう……
中世期の「ペルシャじゅうたん」の製作方法は次の通りである。
「じゅうたん」の織機はほとんどが垂直織機であり、上から下げるタテ糸は染色していない羊毛の糸である。
両側に垂直に立てた梯子と梯子の横木の上に分厚い板を通して、その上に少女たちがしゃがむように坐る。
機織りの進行につれてこの横板を順ぐりに下におろしてゆくために、両端に一つずつ梯子を置いたのである。
羊毛の横糸は、結び目(knot「ノット」)の各列の間に通されてゆく。
この結び目は、すべてのタテ糸の長い「じゅうたん」の場合と同じように、必ずしも右側につくられる。
パイpije(環)を作るために、羊毛の糸をそれぞれ右の手タテ糸のまわりをくるりと二度回して通す。
それが織地の上や下にとび出したパイルという環になるのである。
そのフサを前のタテ糸の隣のタテ糸のところで結ぶ。
それを右手の掌の中に握っている鋭利なナイフでサッと切る。
その手際はおどろくほど機敏で、この作業を行う少女たちの手際のよさもまた、目を見張る見事さである。
このような快適な段取りだから、少女たちは下絵を見る時間的心理的な余裕も持てる。
サリムと呼ばれる親方は歌を歌うような声の調子でステッチ stitch(ひと縫い、ひと針)の入るところにくると、「ハイ、ステッチ!」と号令する。
少女たちは一斉に、「ハイ、ステッチ!」とこの命令を復唱する。
こうして、1時間に約900の目が念入りに作り上げられてゆく。
しかもそれは、平均すれば1平方センチ当たり320の目という密度である。
しかし、この作業は何日間も何週間もつづいてゆく根気のいる作業であった。
こうして、この「じゅうたん」は、やがて目を見張る美しい天国の楽園の図に仕上げられるのであった。
…… この書籍で紹介されている中世の絨毯織り技法は現代のものとほとんど変わるものではありません。
異なるのは町の作業場で作る絨毯にも関わらず、縦横糸にも羊毛を使っている点と、いまは男性も織りの作業に加わることがある点ぐらいでしょうか。
ただし、この時代、ペルシャ絨毯は王侯貴族のみが使用できる贅沢品中の贅沢品でした。