森谷延雄の「絨毯の話」ペルシャ絨毯他

森谷延雄の「絨毯の話」ペルシャ絨毯他

森谷延雄の「絨毯の話」ペルシャ絨毯他

[第 話]

専門学校ICSカレッジオブアーツ(旧インテリアセンタースクール)の講師を勤められた秋山修治氏から大変貴重な資料をいただきました。
1920(大正9)年に『木工と装飾』第12号 2月号に掲載された「絨毯の話」と題した小論文です。
著者の森谷延雄(1893〜1927年)は大正期に活躍した家具デザイナー兼インテリアデザイナーで、東京高等工芸学校(現千葉大学工学部)の教授も勤めていました。
東京工業高等学校(現東京工業大学)工業図案科を卒業後、清水組(現清水建設株式会社)に入社。
この小論文は1920年から22年までの間、イギリスに派遣された森谷が、ロンドン王立美術学校と中央美術工芸学校で家具デザインを学んでいたときに書いたものです。
ペルシャ絨毯についての記述は少しばかりですが、戦前にペルシャ絨毯について記した資料をはほとんど見つからないので、この場で共有することにしました。

「絨毯の話」
森谷延雄

東洋風の絨毯は主として手元で原始的な道具で造られる物ですから之れが製作に永い時 間が費やされる理である。
その代わりその織り方も大変丈夫であるが、同時に価格も高い 割に一般に歓迎されている。
その内で一番良く知られているの物は十九世紀の末葉におけるトルコ絨毯(Turky Carpets)で独特の幾何学的模様でその厚味も厚くその使用する色彩も面白い取り合せである。
一般に紅赤の黒味ある者が二色、青味系統の者が二色それに青みがかった緑の者で調 子を取ったのが多い。
然しこれ以外にこの色を補佐する為に、黒、浅黄色、黄色、クリーム、オレンジレッド 等を用いている。
次の世紀の中ごろに至って非常に活気を添えて、これに使用する赤も、マヅダーの根か ら取ったり、ある昆虫から取っていた古い染料をコチニールクリムソンの眼の醒める様な者を使用してその変った特徴を造った。
この結果は実にカーデイナル、ハーホード諸氏の尽力によって出来た物であるがその後 この新しい方法によって種々回数を重ねて種々なる手法を巡らせてきたがついに西暦千八百八十年頃再び過去の色彩を改良してそれと同様の調子のものが製作されるようになった、そしてその販売も好結果となり模様も一段と善良なる者に導かれてペルシャの敷物に近づいてくるようになった。
このトルコ絨毯の模様は東洋趣味またはペルシャの趣味手法から 輸入せられたことは事実であった。
トルコと言う国は複雑した理由と個人性を帯びた文明 を有していたので単独では進歩することは困難であったが近接して欧州の様な知識的な 国々が在ったのでこれに負う処が在ってこのおもしろい敷物は発達したと極言することが 出来るのである。
現今も猶其の色彩と言い、その模様と言い全く優秀なもので英国の市場に置いても装飾 の目的に使用する物としては第一位の地歩を占めていると言われている。
価格は一尺平方、平均六円位、階段敷き(ステアーカーペット)は一碼(ヤール)六円から二十円位の処で最も安価に 手に入れる事の出来る物は二十七吋巾の剥絨毯である。
このトルコ絨毯(ターキーラグ)の価格は一番その材料と製作に依るもので、普通コーラ、ラッグ (Kola rug)と呼ばれている物は全部羊毛でできている物を言うのであってやはり三尺四 方(ワンスクエアーヤード)七円五拾銭から拾円位1番上等の古代トルコ模様の色彩の者は1平方尺弐円位である。
トルコ絨毯の個人製作としての美しさはペルシャに輸出せられて良い手本となっておる様に考える処がある、そしてその製作の独立と個性の発表のみならず敷物を製作しているときにもし自分の思わしからぬ色彩、調和せぬ模様などを見出す場合にはこれを遠慮なく取 り捨てると言う、麗しい努力をみい出し得るのである。
欧州の商品としてはトルコ製の絨毯のみでは少しくその大きさに不十分の点があるが特別の注文を待つ以外には大形の物を製作することを喜ばぬ傾向があるように考えられる。
ペルシャ絨毯の大半はこれに反して特殊の大形のものが主に成っているので、欧州の室内にはその国で製作せられた敷物のごとく適合せられる理に行かぬ場合がある。
しかし、このペルシャの絨毯はまた別種の面白みを存し単に言い得ぬ微細の点や模様のみならずその者が天才的に装飾の美しさを考慮しているところに特徴を見出す事が出来る。
フェラガン(Feraghan)の敷物は縦糸や横糸は木綿の撚糸を使用してその毛足は短い方であるが一番美しい物と認められている。
一番上等の組織は1吋角に百八十節から六十節位 が普通である。
コラスサン(Khorassan)とカーマン(Kerman)は比較的模様硬化程度が少なく ワナ(ループ)織の物が多い、後者の如きは間々その模様に人物とか動物とかのものが見出されることがある。
このカーマンの絨毯は一平方尺五円から六円位、ギュラバン(Gheuravan)の物は一平方尺二円位、タブリッツ(Tabriz)の物は、一平方尺七十八円位の価格である。

インド絨毯は比較的多量にしかも種々の模様と品質を産出し直接英国の支配に依って販 売せられるのでその産出額も多く製作方法として牢獄の囚人を使役して之れを製することも聞いたことがある。
ですからその価格も比較的安い割には中々優柔な品物を手に入れ ることが出来る。
トウレロー、アンド、ソンス(Treloar & sons)の人々は12フィートの 大きさの絨毯を十円から7百円迄の間種々取りそろえて常に幾ダースでも注文に応ずると主張していた。
その模様も美しく或るものは刺繍とその優劣を競い得るといわれている。
最も多量に製作する主要なところはアムリッサー(Amritsar)マザーホール(Mirzapore)又 はベナレス(Benares)とマドラス省のマスリバタン(Masulipatam)等である。
絹絨毯はアムリッサー、マザーホール及びラホール(Lahore)で出来るが、最も上等の品物はあとの二者に依って造られている。
アムリッサーの物は一碼平方十二円五十銭から十五 円ですが中々上等の物と見られる。
マザーホールは五円位、デッカン(Deccan)マスリバタン又はマルザポールの敷物は五円から十円位と言われている。
日本の絨毯は緞通と呼ばれ英国では(Jute Carpet)ジュートカーペットと呼ばれているが その色彩の調子、模様等も東洋模様(オリエンタルパターン)と呼ぶ名目が良くても悪くても面白い者とせられているこ事事実の様に考えられるがその色の褪せる程度に至っては甚だ恐れ入ると我々ばかりではなく外国人でさえ言っており又書籍にも批評されている。
十二尺の十三 尺で二十五円位で英国の市場にでた者である。
この緞通に於いては諸氏の熟知する処であるから次に、仏蘭西の絨毯は、手織の方法でアウブソン(Aubuson)とかサボネリー (Sabonerie)等で造られている方法である。
この仏国の絨毯の色調は非常に微細を極めたも のでこれに使用する色彩はクリーム色かピンク色の地にローズピンクか軟らかい緑の葉模 様等がその代表的色調といわれている。
上等のアウブソンの絨毯が最も逸品でワーリングス(Warings)の連中はアキスミンスター(Axminster)の絨毯に特別の模様と色彩とを興へて之をサボネリーと呼ぶようになっている十二フィートの九フィートの物で四十五円位であった。
アウブソンの原の物やドネガル(Donegal)アキスミンスターは一平方碼十円から五円で欧州に於いて製作された手織絨毯の唯一の物である。
近来殆どこの絨毯の製造はジャード工場又は之れの尚一層改良せられた工場と方法とに 依って多数製作されている。

英国の絨毯
最も主要な英国の絨毯はウイルトン(Wilton)アキスミンスター(Axminstar)ブラッセル (Brussels)とキッダーミンスター(Kidderminstar)である。
前述の如く種々の名称の下に、 各々特別の場所で製作されているように言われているが事実は必ずしも英国絨毯の大部分 はイングランドやスコットランドの北部に於いて製作せられる物である。
ドネガル(Donegal)の全部羊毛製の絨毯は 東洋向けに製作しているものの最も著名なものである。
この物は、アイルランド人の手に成れるものであって非常に厚く粗い処があるが 甚だ丈夫である色彩は、概して黒味を少し帯びた物である。そしてその価格の程度はほぼ トルコ絨毯と同一とせられる程度である。
ウイルトンの物は、このドネガルの製品に次ぐ物であると定評がある。
これに使用する 色はトルコの調子から学ぶ所があるので之の物を尚一層新しい手法にした物と認められる。
そしてその形状は碼に依って販売せられ廊下敷きの如き又は剥絨毯の如き物と一枚敷の如く完成した者との二者ある、前者の者は一碼二円五十銭から五円位、十二呎の九呎の物 が五十二円五十銭以上である。
これらの製品はワナ織の物の他はブラッセルの製品と殆ど同じである。(このワナ織-ル ープス-を切って毛切り絨毯とする事の出来る物である)
アキスミンスターの物は全く之のウイルトンの物と等しくその色彩模様に於いて、又その製作に於いて、毛足の長さに於いて特に差異を見出す事の出来ぬくらいである。
これはスコットランド人の発明に依る物であって、その量のごときもスコットランドに おいて最も多いと言う事である。
アキスミンスターの敷物は十三呎の九呎で四十五円以上でワーリング(Waring)の連中の製作しているポートランド、アキスミンスター(Portland Axminstar)はその大きさで三十 七円五十銭位であった。
廊下敷は一碼に付二円くらいであった。

ブラッセルの如き敷物に用いる材料は毛糸や亜麻糸を用いてベルギーのトゥアナイ (Tournai)からくる物が主であってウイルトンも同様であると考えられる。
これ等は最近に於いて最も欧州に於いて趣好に合った物であってその編み方も足ざわり も上等である。
図案は花模様の物が最も多く色彩も普通五色くらいに定められてあって、 価格も前述のアキスミンスターよりも安く販売せられている。
キッダミンスターの絨毯の方は毛の縦糸に羊毛の緯糸で織られてスコットランドやイン グランドの北部にて主として製作せられているようである。
一組み物又は三枚一組みの物はこの種類の物に多いように考えられる。
またこの外、英国の敷物でローマン(Roman)ダクネル(Daknel)ウインザー(Windsor)ケン ジントン(Kensington)シャビオッツ(Cheviots)シェトランド(Shetland)等と種々の名称をもって販売せられているのを聞くがこれは皆同じ方法で作られその製品も大同小異である からいちいち述べる必要が無いと考えるがシャビオッツの如きは三枚一組の物を製作する ように聞いたことがある。
安物の中にはルドコード(Ludcord)と言う物がある、色彩も良いので中々歓迎せられる十三 呎に九呎で十円位であった。
前述の内価格は今から約十年以前の物と成って入るから現今はこれの約三倍半から四倍位 のものと考えてもらいたい。
最後に室内装飾設計上配置図を定める時にその大きさを良く知っておかねば成らぬから、 日本によく来る敷物から参考に資する為次にこれを表示しておく。(大正9、1、20)

弊社では研究資料として、戦前期に出版されたペルシャ絨毯関連の書籍、パンフレット、カタログ等を収集しています。
心当たりがおありの方は、ぜひお知らせください。

【森谷延雄】(もりやのぶお)
森谷延雄は、大正期に活躍した家具デザイナー、インテリアデザイナーです。
1893(明治26)年10月、千葉県佐倉市に生まれ、1912(明治45)年に東京高等工業学校工業図案科に入学。
1913(大正2)年、第1農展に出品し褒状を受け、以後、農展ほか各種展覧会で在学中から受賞を重ねました。
1915(大正4)年、東京高等工業学校を卒業し、清水組設計部に入社。
誠之堂(16年)、晩香廬(17年)等のインテリアを設計します。
1920(大正9)から22(同11)年にかけて文部省在外研究生(木材工芸)として欧米(主に英国)に留学して家具、室内装飾の研究を行ないました。
1922(大正11)年、東京高等工芸学校創設に伴い講師となり、翌年には教授に就任。
第3回発明品博覧会で正門と音楽堂を設計し、「新しい家具の展覧会 附標準家具装飾メッセ(見本取引市場)」を提唱、実施(木材工芸学会主催)した後、1926(大正15)年には「皇孫御生誕記念こども博覧会」の正門・沿道装飾を行ないます。
1927(昭和2)年、デザイナーと工人の共同作業による低廉で美しい家具の製作を目指して「木のめ舎」を主宰しますが、同年4月、木のめ舎家具作品展開催を前に33歳の若さで没しました。

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