ギャッベを製作するカシュガイの起源を探る

ギャッベを製作するカシュガイの起源を探る

ギャッベを製作するカシュガイの起源を探る

ギャッベの流行により、それを製作するカシュガイの名も広く知られるようになりました。
ギャッベにはトルコ結びが多く用いられることからも分かるように、カシュガイはトルコ系の部族で、かつてはイラン高原の北方から南下してきたことが分かっています。
しかし彼らの起源については、いまだ明らかではありません。

カシュガイは一説によると13世紀、チンギス・ハンの征西に参加して中央アジアからコーカサス地方に進出。
やがて白羊朝の成立に加わったのち、白羊朝がサファヴィー朝に倒された後の16世紀初頭、サファヴィー朝初代君主イスマイル1世によりイラン南部のファース地方へ強制移住させられたといいます。
これはポルトガルが海から侵攻してきた際にカシュガイをこれと戦わせるため、そしてザグロス山脈の彼方に追放することによりその脅威をなくすためであったとのことですが、それを裏付ける確たる証拠はありません。

カシュガイが注目を集めはじめるのは1750年に興ったザンド朝の時代からです。
同じオグズ出身のトルクメン同様に、その好戦的かつ反抗的な姿勢に歴代の中央政府は手を焼いてきました。
カシュガイを抑えるため、カジャール朝のナセル・ウッディーン・シャーにより1861・2年にかけてに結成されたのが「ハムセ部族連合」であることはよく知られています。

さて、話を戻しましょう。
カシュガイの起源については諸説ありますが、マフムード・カシュガリ著『ディヴァン・アルガート・トルコ』やオルホン平原の碑文によると、かつて中央アジア北部に存在したトルコ系部族オグズの24支族のうちの1つであるカイ族であるとされます。
カイは、預言者ノアの子孫の一人であるアクグズまたはアグズハンの子孫の一人であり、他の兄弟や親戚よりもはるかに強く、賢く、そして大胆でした。
彼は自らに従う兵士たちを集め、それらを統率する軍事的才能に長けていたのです。
そして昔の軍隊と同じように、部族を右翼の「サクカイ」、左翼の 「スルカイ」、前衛の「カシュカイ」の3つに分けていました。
『ナスフ・アル・タワリク』という書物には、「トルコ人の中で最も高貴な部族はカイ族であり、トルコ人と支配者のほとんどはこの部族の出身である」と述べられています。
『カバスナメ』はまた、チェンガヴァリのトルコ系部族の指導者としてカイ族の名を挙げています。

サクカイはのちにサカイと呼ばれるようになり、イラン東部のセクスタン(セゲスタン)に定住しました。
そこでは彼らはセカジ(セガジ)と呼ばれていました。
そしてアラブ人がイランに侵攻した後、文字のgをcに変えてセイジスタン、後にシスタンと呼ばれるようになったといいます。

またスルカイは、やがてスル・ゴーリ(サルグリ)、スル・ジュキ(セルジュキ)と呼ばれるようになり、ホラズムシャー朝(1077〜1231年)よりも暫く前にイランで政権を樹立。
アナトリアに移住した後、オスマン帝国を建国しました。
しかし、カイ族を統率していたカシュカイはアジアやヨーロッパのさまざまな地域に散らばっており、彼らはカラ・カイ・リ(カラ・コユンル)、アクア・カイ・リ(アク・コユンル)、と呼ばれることもありました。

『マスディのタリフ』を著したザル・アル・スルタンは次のように書いています。
「ファースのアタベク(指導者)、サード・イブン・ザンギは千の騎兵とともにバグダッドのカリフに会いに行った。途中、彼はスルタン・ムハンマドの軍隊と遭遇し、激しい戦いを繰り広げた。スルタンはアタバク・サード・ザンギの勇気を賞賛し、多くのカシュガリ戦士を彼と一緒にファースに送り、彼らは後にカシュガリと呼ばれ、その後カシュカイとして知られるようになった」。

また、ホルモジが著した『アル・アクバルの真実』では次のように述べられています。
「カシュカイはカブチャグ平原のトルクメン人の中にいて、彼らはセルガリのアタブカン人との国境にやって来た…」 。
カンドミルはまた、『ハビブ・アル・サー』というの著書の中で、「トルキスタンにはカシュカと呼ばれる土地がある」と述べています。
その土地はサマルカンドとブハラの近く、今日ドゥシャンベと呼ばれるキタブ市のあたりにあり、そこに住んでいた人々はトルコ人であったとされています。
西トルコ語でカシュカは、馬、羊、牛などの動物の額にある白い斑点を意味し、また勇敢で恐れを知らぬ戦士をも意味します。

ミルザ・ハサン・ファサエイ著『ファルスナメ・ナセリ』には、「トルコ語のカク・カイは逃亡を意味する」と書かれています。
ハリジの人々はマリクの地からイラクのアジャムの領土にやって来たので、彼らの一部は逃げてファルスの地に留まりました。
ワシーリー・ウラジミロヴィチが著した『イスラム百科事典』では、「カシュガイの元の所在地は不明である」としています。

このように諸説入り乱れるカシュガイの起源ですが、それが却って彼らへの興味を深める理由になっているのは確かでしょう。
人は謎や浪漫に弱いのです。
ともあれ、カシュガイの多くが定住民となった今日においても彼らの文化や伝統は残されており、それはカシュガイが製作する一部の絨毯やキリムに見ることができます。

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