美しいトライバルラグを作るトルクメンについて

美しいトライバルラグを作るトルクメンについて

美しいトライバルラグを作るトルクメンについて

[第 話]

トルクメンは、トルクメニスタンを中心にウズベキスタン、カザフスタン、タジキスタン、イラン、イラク、アフガニスタン等の国々に居住する民族です。
トルクメンはテュルク系民族と中央アジアの先住民との混血により形成されたと考えられており、ラシッド・ウッディンが著した『集史』によれば、中央アジア北部にあったオグズの24支族の子孫であるとされます。

オグズは10世紀以降南下してトルクメンと呼ばれるようになりますが、トルクメンの語源については定かではありません。
一説によれば、トルコ人のようなものを表す「トゥルク・マネンド」が語源とも言われます。
のちに西アジアに大帝国を築くセルジュク朝やオスマン朝はトルクメンから興りました。

かつては奴隷貿易でその名を知られ、同じイスラム教徒ではあってもシーア派のイラン人やキリスト教徒のロシア人を拉致してはヒヴァやボハラの奴隷市場で売りさばいていました。
こうした略奪行為はアラマンと呼ばれ、彼らの間では偉業であったとされています。
トルクメンの奴隷貿易はその根絶を大義名分に中央アジアに侵攻したロシアによって終焉させられました。

8世紀にオグズはアルタイ山脈から中央アジアへの移動を開始したとされますが、トルクメンが歴史に登場するのは10世紀になってからのことです。
のちにセルジュク朝を興すことになるオグズの支族、クヌク族の族長であったセルジュクは、一団を率いてアラル海北岸から東岸へと移動しました。
ジャンドを拠点に遊牧生活を営むとともにイスラム教に改宗し、この頃からイスラム教に改宗したオグズはトルクメンと呼ばれるようになります。

11世紀初頭、セルジュクの息子アルスラーン・イスライールに率いられたトルクメンがホラサン北部に侵入したことを脅威と見たガズナ朝のマフムードは、アルスラーンを捕らえて幽閉しました。
これにより統制を失ったトルクメンは、ホラサン北方の諸都市周辺で多数の家畜の放牧を始めたため、牧地が荒廃し、租税収入も減少。
マフムードは彼らの討伐に乗り出しますが、トルクメンはカスピ海の東北に拠点を設け、各地で略奪を行いました。

トルクメンはさらに他の集団も合わせて数人の長(ベグ)の指揮のもと、ホラサンの諸都市の略奪を続けます。
これら無統制となって暴徒化したトゥルクマーンを取り締まるため、ガズナ朝に見切りをつけたニシャープールの支配者アーヤーン家の要請により、セルジュク家のトゥグリル・ベクらは1038年ニーシャープールに入城し、セルジュク朝が成立しました。

14世紀にはイウェ族出身のトルクメンがアナトリア東部からイラク北部にかけての地域に黒羊朝(カラ・コユンル)を興し、1408年にはアゼルバイジャンの中心都市であったタブリーズ、1411年にはイラクのバグダッドを得て勢力を拡大しました。
黒羊朝は1467年にバヤンドル族のトルクメン国家である白羊朝(アク・コユンル)に倒され、以後西イランを中心とする地域は白羊朝のウズン・ハサンにより統治されました。
ウズン・ハサンの死後、白羊朝は急速に衰えサファヴィー神秘教団のイスマイル1世によって滅ばされますが、まさにこの15世紀はトルクメンの最盛期であったと言えるでしょう。

17世紀以降、カスピ海東岸に居住していたトルクメンたちはバルカン山脈やアム川下流のホラズム地方に移動します。
居住地を巡る先住民や部族間の抗争により、部族毎の勢力は衰えてゆきました。

トルクメンは17世紀半ばまでは遊牧生活を送っていましたが、カスピ海東岸からバルカン山脈やアム川下流のホラズム地方に移動した頃より農業を行うようになり、半遊牧化したとされます。
しかし、灌漑設備の不十分な乾燥地帯における農業と畜産業だけでの生活は苦しく、周辺の町や村に侵入しては略奪を繰り返しました。

1924年にトルクメン・ソビエト社会主義共和国が成立し、ソ連の傘下に入ると部族単位で割り当てられたコルホーズで、綿花、葡萄、野菜などの栽培や乳牛の飼育等が行われるようになりました。
同じ血統の一族からなるトルクメンの集落(アウル)では、夏の住居として「ユルタ」と呼ばれる被覆型のテントが使用されます。
ユルタはトルコ・モンゴル系部族に見られるもので、柳の枝でできた骨組みにフェルトを着せてロープで固定したタイプで、寒さを防ぐため開口部を小さくした作りが特徴です。

トルコ語やアゼルバイジャン語と同じオグズ語群に属するトルクメン語を母語とし、トルクメニスタンではロシア語とともに公用語になっています。
しかし、支族ごとに方言を持つため、標準語としてテッケ族の方言が採用されています。
元来トルクメン語に文字はなく、1940年になってからロシア語に倣ったキリル文字が使われるようになりました。
1991年にトルクメニスタンが独立してからはラテン文字が使用されています。

トルクメンには「ティーレフ」あるいは「タイーフェフ」とよばれる、いくつもの支族があります。
トルクメニスタン国旗にはこれらのうち主要五部族のギュル(紋章)が描かれています。
トルクメンの主要五部族は以下のとおりです。

1. テッケ:

トルクメニスタンの南東部を主なテリトリーとする部族で、人口は約160万人。
トルクメニスタンの人口の三分の一以上を占めていますが、一部はイラン、アフガニスタンにもいます。
テッケはアハル・テッケとマリー・テッケとに分かれますが、アハル・テッケは同国の支配的勢力であり、初代大統領サパルムラト・ニヤゾフ(1940年~2006年)と第二代大統領グルバングル・ベルディムハメドフ(1957年~)はいずれもアハル・テッケの出身です。

カラハン朝の学者であったマフムード・カシュガリー(11世紀~12世紀初頭?)が著した『テュルク諸語集成』や、イルハン朝の宰相であったラシッド・ウッディーン(1249~1318年)が編纂した『集史』にはトルクメンの祖とされるオグズの24(22とも)氏族についての記述がありますが、そのいずれにもテッケの名は記されていません。
一説によれば13世紀のモンゴルの征西に参加し、その後サファヴィー朝の成立に貢献したトルクメンの集団キジルバシュから派生した部族であるとされますが、その起源については謎のままです。

テッケの名はヒヴァ・ハン国第15代君主となったアブル・ガージーが著した『トルクメンの系譜』に初めて登場します。
同書には1525年から35年にかけてのソフィアン・ハーンの治世下において、テッケは内サロール(イシュキ・サロール)に属していたことが記されており、当時はサロール、ヨムートとともにマンギシュラク半島に暮らしていたようです。
のちにバルカン山脈一帯へと移動し、1616年にヒヴァ・ハン国第12代君主のアラブ・モハンマドの子ハバシュとイルバルスが父親に対して反乱を起こした際には、サリク、ヨムートとともにこれを鎮圧。
これによりイスファンディアルが即位しますが、イスファンディアルの死後、弟のアブル・ガージーが即位すると彼はトルクメンを中央から排除し、弾圧しました。

18世紀半ばにはヨムートとイランに新たに興ったアフシャル朝による攻撃を受けたテッケは、バルカン山脈東方のアハル地方に逃れるを余儀なくされ、以後はアハル地方を拠点に略奪行為を繰り返しました。
アフシャル朝を倒してイランの覇権を握ったカジャール朝は、トルクメンの征伐を開始。
1845年、カジャール朝との戦いに敗れたテッケはサラフスに移り、暫し服従の姿勢を見せるものの、またもやイラン領内に侵入してイラン軍の攻撃を受けます。
サラフスを逃れたテッケは、サリクの拠点であったマリーに侵攻してこれを奪いました。

2. ヨムート

トルクメニスタン西部のカスピ海東岸を主なテリトリーとする部族です。
一部はイランのゴルガン周辺、ウズベキスタンのヒヴァ周辺にもいます。
とりわけイランのトルクメンの中ではギョクレンとともにその大半を占めています。
テッケ同様、ヨムートの名はオグズ24氏族について記した『テュルク諸語集成』『集史』に登場しません。

17世紀末までには確立されていたと考えらていますが、その成り立ちについては定かでなく、彼らが歴史に登場するのは18世紀になってからのことです。
1740年、アフシャル朝を興したナーディル・シャーはヒヴァに侵攻し、これを占領します。
ヒヴァ・ハン国のイルバルス2世は処刑されますが、この混乱に乗じたヨムートは暫くの間ヒヴァの町を支配しました。

しかし、1747年にナーディル・シャーの甥であるアリー・クリー・ハーンによって追放され、バルカン地方に移動。
バルカン地方ではテッケと争い、争いに敗れたテッケは東のアハル地方に逃れます。
更にヨムートは1767年と1804年にヒヴァに侵攻し、これを占領しました。

かくの如くに強力な部族であったヨムートですが、その後は離散して衰退してゆきます。
イラン国内のヨムートは1924年に独立運動を起こしますが、イラン国軍によって鎮圧されました。

3. サリク

トルクメニスタン南東部のグシュギ、タグタバザル、ヨロテン及びムルガプの中心部に暮らす部族です。
15世紀には他のトルクメン部族に同じくカスピ海東岸のマンギシュラク半島にいましたが、その後バルカン山脈付近に移動しました。

1616年、ヒヴァ・ハン国第12代君主のアラブ・モハンマドの子ハバスチとイルバルスが、サファヴィー朝のシャー・アッバス1世の力を借りて反乱を起こし、アラブ・モハンマドは退位、殺害されました。
このときサリクは、バルカン・トルクメンとともにテッケ、ヨムートと連合して反乱を鎮圧。
イスファンディアル・ハーンを即位させます。
その後、東に移動し始めたサリクはメルヴでサロールを破り、更にパンデとタグタバザルに追撃して19世紀半ばまでにパンデを完全な支配下に置きました。

4. エルサリ

トルクメニスタン東部をおもなテリトリーとする部族で、約100万人がトルクメニスタンに居住しているほか、アフガニスタンに約90万人、パキスタン、トルコ、イランなどの周辺諸国とその他の国々に約20万人がおり、総人口は約210万人と言われています。

エルサリはオグズ直系の子孫で、のちにセルジュク朝を興すこととなるセルジュク家もエルサリであったとする説がありますが、オグズの24氏族について記したマフムード・カシュガリーの『テュルク諸語集成』にも、ラシッド・ウッディンの『集史』にもエルサリの名は登場しません。
伝承によると、13世紀後半から14世紀にエルサリ・ババとよばれる人物が現れてマンギシュラク半島とバルカン地方のすべてのトルクメンを統合したとされ、彼こそがエルサリの始祖であるとも言われます。

由来についてはともかく、サファヴィー朝のアッバス1世のもとを離れたウズベク王子、モハンマド・クリーとアラブ・モハンマドがヒヴァに戻る途上、カラクム砂漠北西のウズボイ川で数百名のエルサリに遭遇していることから、16世紀以前には他のトルクメン部族同様、マンギシュラク半島にいたことは確実でしょう。

17世紀に入るとエルサリは南東に向け移動し、アムダリア川上流域に辿り着きました。

5. チョドル

トルクメニスタン北部のアムダリア川流域をテリトリーとする部族です。
オグズの24部族のうちの一つとされ、アブル・ガージーが著した『トルクメンの系譜』には、チョドルは2世紀頃からカスピ海沿岸に住んでおり、11世紀にはマンギシュラク半島に移住したとあります。
また同書には、1525年から35年にかけてソフィアン・ハーンの支配下で内サロール(イシュキ・サロール)に属していたことが記されています。

17世紀に入るとカザフスタンのトルコ系部族カルマックの侵攻を受けるようになり、1670年頃からチョドルの一部はコーカサス北部へと移動を始めました。
その中からヒヴァの北方に進出する者たちが現れ、彼らの招きによってチョドルは東進したと言います。
18世紀、チョドルはヨムートと同盟しヒヴァに侵入して略奪を繰り返すようになりました。
度重なるトルクメンの侵入に手を焼いたヒヴァ・ハン国のモハンマド・ラヒーム・ハーンが1810年にヒヴァ軍とクングラート軍を統一すると、チョドルはマンギシュラク半島に逃げ帰ります。

1830年と1849年に北部のトルコ系部族アダイ・カザクとの戦いに敗れたチョドルは、マンギシュラク半島から再びヒヴァに向かって東進し、ポルシ(現在のカリニン)とウルゲンチに移住。
1855年から翌年にかけて、ヒヴァ・ハン国のクトルフ・ムハンマド・ムラド・ハーンはテッケとサリクの力を借り、ヨムート、チョドル、イムレリ連合軍を倒しました。

その他の部族としては、ギョクレン、ノクーリ、アラバチ、カラダシュリ、イグディルとアブダルなどがあります。 そのうちイランにはギョクレンとヨムートのほか、少数のノクーリとテッケが居住しています。

トルクメンが製作するトライバルラグは、ギュルと呼ばれる文様を規則正しく並べたデザインと、深く鮮やかな赤色で有名です。
ギュルは一種の紋章で、部族ごとにその形は異なりますが、時の経過とともに多くの派生形を生み、今日では数十種類以上が確認されています。
代表的なギュルとしてはテッケ・ギュル、ケプセ・ギュル、マリー・ギュル、タウクナスカ・ギュルなどがあります。

またトルクメン絨毯の赤色は、部族間抗争や略奪行為に明け暮れたトルクメンの歴史から、人間の血で染めていると噂されたりもしました。
もちろん、ただの噂に過ぎませんが、それを連想させるほどに深い赤色であったということです。
染料には茜や貝殻虫が使用されていましたが、現在は化学染料によって染色されています。

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