ペルシャ絨毯になぜお釈迦様が?

ペルシャ絨毯になぜお釈迦様が?

ペルシャ絨毯になぜお釈迦様が?

[要2分]

2001年に起きたタリバンによるバーミヤン大仏の破壊に世界中が悲しみに暮れました。
イスラム教では偶像崇拝を禁じています。
バーミヤン大仏の破壊はアフガニスタンでの出来事ですが、イスラム教徒が権力を握っている現在のイランでも、かつてイランに仏教徒が存在したことを認めていません。
これはナショナリズムの思想に基づくものであり、学術性が伴うものではないのです。
実際には仏教徒が権力を握っていたイルハン国がかつて存在しており、その頃に建造された仏教遺跡も現存しています。
実は現在のイランにおいては、イスラム教と啓典の民(キリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒)以外の宗教の存在を認めていません。

ササン朝期(226〜 651年)に成立したマニ教は、仏教を含む諸宗教を混交しており、仏陀を預言者の一人としていました。
また、マニ教の教会組織は仏教の僧院制度から影響を受けたのではないかとする説もありました。
しかし、その後の資料の発見などにより、この説は否定されています。
ゾロアスター教神官団の指導者であったカルティールは、ササン朝君主であるバハラム1世(在位 273〜276年)からバハラム2世(在位276〜293年)の時代に絶大な権力を振るい、キリスト教、マニ教などと並んで仏教を迫害。
それを記した碑を国内の各地に建てました。
7世紀半ばになるとイスラム教徒であるアラブ人がイラン高原に侵攻し、ゾロアスター教徒からイスラム教徒に権力が移ります。

仏教徒であるモンゴル帝国のフラグ・ハン(在位1260〜1265年)は、バグダッドの戦いによってイスラム王朝のアッバス朝を滅ぼし、イランの地にイル・ハン朝を建国しました。
イル・ハン朝はイスラム化した王朝であることが知られていますが、それが仏教からの改宗であったことはあまり語られません。
イルハン朝最初の都であったマラゲには仏教遺跡が残されています。
イルハン朝にはインドやトルキスタン、中国から医者、学者、官僚、技術者など優秀な人材が集まっており、その中に仏教徒も含まれていたと考えられます。
国内には多くの仏教施設が建設され、中国風の建造物も建てられました。
とりわけ第4代君主のアルグン(在位1284〜1291年)は仏教に心酔しており、多数の寺院を建設しました。
しかし、アイグンの息子で仏教徒として育てられた7代目ガザン・ハン(在位1295〜1304年)は、権力基盤を強化するためにイスラム教に改宗し、仏教を徹底的に弾圧します。
彼は仏教寺院とゾロアスター教寺院の破壊を命じ、僧侶たちにはイスラム教に改宗するか国外に退去するかを迫りました。
このことはカザン・ハンの宰相であったラシッド・ウッディンが編纂した『集史』に記録されています。
なお、『集史』の作成にはイスラム教徒・キリスト教徒・ユダヤ教徒に並んで仏教徒も協力していました。
カザン・ハンの統治下でイル・ハン朝は大いに発展し、カザン・ハンの弟で第8代君主となったオルジェイトゥ時代(1304〜1316年)には、イル・ハン朝は最も平和で繁栄した時代を迎えました。

カザン・ハンのイスラム教への改宗と、徹底した異教徒への弾圧によってイランにおける仏教はほぼ消滅したとみられています。
現在、仏教遺跡の可能性が指摘されているものには、マラゲ近郊のラサットハネ石窟とヴァルジュヴィ石窟、ブシェール近郊のチェヘルハーネー石窟とハイダリ石窟があります。
2002年には日本人考古学者の樋口隆康によって在テヘランのイラン国立博物館でファース州から出土したガンダーラ仏19体が確認されたと報道されましたが、同博物館はアフガニスタンからの盗品であると主張しています。
これはイランに仏教が伝わったことがないとする現体制の見解に従ったもので、学術性はないとされます。

仏教は紀元前5世紀にインドで生まれました。
仏教の始祖である釈迦は、シャカ族の王子で、ゴーダマ・シッダルタといいました。
宮殿のなかでなに不自由なく成長したゴータマは、あるとき外出して生、老、病、死の苦しみを知り、この逃れがたい苦しみからの解脱を求めて29歳のときに出家しました。
以後ウッダーラカ・アールーニやアッラーラ・カーラーマ仙人のもとで修行したのち、さらなる境地をもとめて6年間の苦行を行います。
しかし悟りを得ず、苦行を棄てた彼はネーランジャラー河のほとりにある菩提樹の下で瞑想し、やがて悟りを開きました。
その後、サールナートの鹿野苑において初めての説法を行い、およそ40年間にわたる布教の末、クシナガラで入滅しました。

ガンダーラは今のパキスタンとアフガニスタンにまたがる地域に当たります。
イランにも近く、西方や東方の国々との行き来が古くからありました。
紀元前6世紀にはアケメネス朝ペルシャの属州となり、前4世紀にはアレクサンダー大王に征服されています。
前3世紀にはインドのマウルヤ王朝とギリシャ系の大守率いるバクトリア王国に分割され、前2世紀には遊牧系のサカ族とイラン系のパルティア族出身の王によって分割支配されました。
そして紀元1世紀にインドにクシャーナ朝が興り、ガンダーラは最盛期を迎えたのです。

この仏像の姿は直立して右手に施無畏印を現し左手は衣の端をつかむ姿であったと思われ、これは仏陀の姿を表現した紀元二世紀頃のクシャーナ朝のカニシュカ・コインに見られるものに相当する姿であると言うことができます。
つまり、これは仏像出現以来の伝統的な姿であり、爾来数百年にわたり他の地域にも伝わり様々な形に変容して表現されました。
因みに、このカニシュカ・コインには多くの神々の姿が描かれています。
当時のイラン系クシャーナ朝は、南北に広がった領土を持ち、シルクロードの交易を支配しました。
そこで使用されたコインにこの交易を通過する多くの民族が崇める神の姿が刻まれたのです。
一説によると、この多くの神々の中にある仏陀の姿が釈迦如来像の最初の例であるという意見もあります。

このイスファハン産のペルシャ絨毯に織り出された釈迦如来は、おそらく現代の海外の仏教徒を意識したもので、イル・ハン朝期の仏教をテーマにしたものではないでしょう。
それでも、このお釈迦様がイランの複雑な歴史への興味の一端となるのであれば、まさしく「瓢箪から駒」ではないでしょうか。

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