マルカジ州のペルシャ絨毯は、いまどうなっているのか?
[要3分]
マルカジ州はイランの絨毯産業における4つの中心地の一つで、アラクはマルカジ州の州都です。
アラクは、ファトフ・アリー・シャーの時代の 1861年にファラハン平原の南西端に建設されました。
当時の名はスルタナバードでしたが、1962年に議会の承認を得てアラクに変更されました。
アラクにおける絨毯産業は、イランからの輸出用に絨毯を供給するタブリーズ商人の尽力と、アラクとその周辺地域に大規模な絨毯工房が設立されたことにより、19世紀半ばに本格化します。
1883年、タブリーズに支店を構えていた英国企業のジーグラー商会は、イランで綿製品を販売し、それで得た利益で絨毯を購入。
ロンドンで販売することを決めます。
絨毯の注文は、アラクや周辺地域の工房に与えられました。
ジーグラー商会は、アラクに事務所、原材料の倉庫、デザイナーの仕事場、染色工場を開設しました。
織工は同社が希望するデザインと色に基づいて絨毯を製作するために、染色やデザイン制作を行う必要があったからです。
その後、他のヨーロッパやアメリカの企業もアラクに支店を開設し、ジーグラー商会と同じやり方で絨毯の調達を始めました。
アラクにおける外国企業の仕事は増加し、第一次世界大戦前には莫大な資金が投入されます。
アラクだけで3000台近くの織機が稼働し、2500台の作業の監督はジーグラー商会により行われました。
もちろん、タブリーズ商人はこの町での絨毯貿易の大部分に関わっていました。
こうしてアラクはイランにおける絨毯産業の一大拠点となったのです。
とりわけ1920年頃にアメリカの企業により注文された斬新なデザインの「アメリカン・サルーク」は、アメリカにおいて一大ブームを巻き起こし、アラクをはじめとするマルカジ州の絨毯産地はアメリカン・サルークの生産に追われるようになりました。
しかし、第一次世界大戦の勃発とヨーロッパとアメリカの市場不況の始まりにより、アラク絨毯はまずヨーロッパで、次にアメリカで市場を失います。
外国企業がアラクの支店を閉鎖し、イランの実業家が残された絨毯工場を引き継ぎました。
アラクは、過去50年間でデザイン基準が低下した絨毯産地の一つです。
外国企業がアラクの織り業者に与えた注文がこの町の伝統的な基準に反していたため、大きな影響を与えました。
いわばアラクは外国企業に翻弄された町といえるでしょう。
アメリカン・サルークのブームが去ったあとのアラクがイランの絨毯産業の頂点に立つことはありませんでした。
アラクの絨毯は品質的には平均的で、安価であるため、デザイン的にはあまり目立っていません。
かつてマルカジ州の絨毯は、その品質と特別なデザインと模様で知られており、この地域の人々の誇りの源となっていました。
その実例が大きな博物館に展示されていますが、この州の絨毯は世界にほとんど存在しません。
マルカジ州とアラク市の絨毯生産の歴史は国内の絨毯生産で有名な都市ほど古くはないものの、この州の製品の品質の高さにより、絨毯の人気が高まっているといいます。
アラクは国の中心部にある絨毯産地としては新しい町であり、この町の絨毯織り活動のほとんどはカジャール朝末期に行われ、その主な理由は外国人の努力によるものと考えられます。
この産業を促進するタブリーズ商人は先に述べました。
イラン芸術の象徴として、このカーペットは長年にわたって世界市場に進出し、多くの顧客を魅了してきました。
イランのセンスと芸術を融合したこの製品は、世界およびイランの多くの美術館の誇りの源となっています。
適切な政策を実施すれば、再びイランにおける絨毯産業の頂点の一つとなり、サルーク絨毯が世界市場を席巻した全盛期に戻る可能性があります。
マルカジ州にはアラクの他、マハラト、ギアサバド、サルーク、ムシュカバド、リリアン、レイハン、タフリシュなど、いくつもの絨毯産地があります。
残念なことに、その高い品質と魅力あるデザインにもかかわらず、マルカジ州の絨毯はかつての地位を失ったままです。
絨毯産業は州にとっての強みの一つでありながら、この州の経済の中で影を潜めているのです。
ペルシャ絨毯はかつてのようにマルカジ州の象徴、そしてこの州に暮らす人々の誇りになるべきでしょう。