最高のトライバルラグを製作するカシュクリ族とは?
[第 話]
カシュガイは単一部族ではなく、複数の部族の連合体です。
自らが主張するところによると部族連合全体の人口は100万人から150万人ですが、実際は40万人から25万人ほどといわれます。
部族連合の総長は傘下にあるすべての部族を統括します。
各部族(タヴァッエフ)の族長がその傘下にある各支族=氏族(ティーレフ)を統括し、支族長は一族の各世帯を統括するという厳格な階層制度が機能しています。
数千人以上の人口を擁する大部族ではおよそ100世帯毎にグループ化されており、宿営地間の移動はグループ単位で波状的に実施。
その統率のとれた姿はカシュガイ独特のものとして有名です。
カシュガイはユニークな意匠の絨毯を産出することで知られますが、近年のギャッベ・ブームに押され、伝統的なカシュガイ産絨毯は徐々に姿を消しています。
カシュガイに属する部族のうち絨毯製作に携わっているのは、主にカシュクリ族、アマレ族、ダレシュリ族の3部族です。
とりわけカシュクリ族は最高のトライバルラグを製作することで有名です。
カシュクリ族はクルディスタンからファース地方へと移り住んだといわれる部族で、2008年の調査によれば5512世帯で構成されています。
カシュクリ族は「大カシュクリ族」(カシュクリ・ボゾルグ、4,862世帯)と「小カシュクリ族」(カシュクリ・クーチェク、650世帯)とに分かれており、大カシュクリ族のほとんどはイラン南西部最大の町であるシラーズの西から北西にかけての地域に定住しています。
もとは一つであったカシュクリ族が二つに分裂したのは20世紀に入ってからのことです。
第一次世界大戦の際、カシュガイ部族連合総長サウラト・ウッダウラは、ドイツ領事館のヴィルヘルム・ワスムスと手を組んでドイツを支援しました。
しかし、カシュクリ族はそれに反して英国を支援。
戦後、アッダウラはカシュクリ族の有力者たちを排斥した上、自らに忠誠を誓う者だけを部族本体から分離独立させます。
このとき分離独立した集団が小カシュクリ族、残る本体が大カシュクリ族とよばれるようになりました。
大小いずれもが絨毯を製作しています。
なお、カシュクリ族が製作する絨毯の中には18世紀のインドやアフガニスタンの絨毯によく似たデザインがありますが、これはアフシャル朝のナーディル・シャーが戦利品として持ち帰った絨毯がイラン南部に運ばれたからというのが定説です。
カシュクリ族は大きく分けると「定住民」と「遊牧民」になりますが、冬の間は定住生活を送り、夏になると遊牧生活を送る半定住民もいます。
政府が進める同和政策を受け入れ、定住化する世帯は年々増加しているのが現状で、既にカシュガイの全世帯の半分ほどが定住化もしくは半定住化しているといわれます。
きわめて統制のとれた部族として知られるカシュガイですが、その背景にあるのは厳格な階層制度は定住したとしてもそれは変わることなく、定住民には三つの階層が存在しています。
第一階層にある人たちは広大な土地や多数の家畜を所有しており、とても裕福です。
部族内はもちろんファース州や中央政府にまで影響力を及ぼす者もおり、シラーズなどの都市部に居を構えています。
第二階層にある人たちは程度の差こそあれ土地や家畜を所有し、放牧あるいは小作人として自営している者がほとんど。
第三階層にある人たちは土地や家畜を持たず、第一階層あるいは第二階層の人たちに雇われて生活しており、労働の対価として食料や衣類、家畜を受け取るのが一般的です。
カシュガイの遊牧民は毎年、夏と冬の宿営地の間を片道2~3ヵ月かけて移動。
その距離は500キロメートルほどにも及びますが、ルートはイルハンにより部族ごと明確に定められており、重なることはありません。
各部族は自らのルートに従い、波状的に移動します。
夏の宿営地(ヤイラク)はザグロス山脈南端の海抜3,000メートルのディナール山の斜面で、これは富士山の7合目とほぼ同じ高さです。
彼らは秋になるまでこの地で過ごし、やがて山を離れて平野に移動したのち、4月までをシラーズ南方にあるフィルザバドの西から南にかけての冬の宿営地(キシュラク)で過ごします。
そして、春になるとまた移動……。
移動には小型トラックやバイクも用いられます。
なお、カシュガイの遊牧民は絨毯やキリムの製作に一時間もあれば分解もしくは結合が可能な「水平型移動式」の織機を使用してきました。
しかし最近ではトラックで大きな荷物も運べるようになったため、分解・結合不要な水平型固定式織機が使われるようになってきています。