崩壊しつつあるカシャーンのペルシャ絨毯産業

崩壊しつつあるカシャーンのペルシャ絨毯産業

[画像:カシャーンのペルシャ絨毯バザール]

イラン中央部にあるカシャーン。
カシャーンの歴史あるバザールはかつての主要な隊商の通りに位置し、そこで製作されるペルシャ絨毯は世界中で知られていました。
しかし、中世から続くアーケードの中で絨毯を商う絨毯商たちにとって、その生業はイランと世界の大国との核合意の崩壊と、西側諸国との緊張関係の高まりによって崩壊しつつあります。
カシャーンの絨毯産業はユネスコの世界無形文化遺産にも登録されており、ブドウの葉やザクロの実、クルミの皮などを使う染色技術を代々受け継いでいます。
政府税関統計によると、20年前には20億ドルを超えていた絨毯輸出額は、3月に終了したペルシャ暦の昨年、5000万ドル以下に急落しました。
観光客の減少と国際取引の困難化により、ペルシャ絨毯は売れ行きが鈍っており、一部の織師の中にはは1日わずか数百円で働いている者さえいます。
かつてカシャーンの絨毯商たちにとってアメリカ人は一番の顧客でしたが、両国間の交流という繋がりが失われ、関係は断ち切られてしまいました。
過去数十年にわたり、欧米諸国の観光客をはじめとする多くの人々がイランを訪れ、贈り物やお土産としてペルシャ絨毯を購入してきました。
1979年のイラン革命後、米国はアメリカ大使館占拠事件、テヘランと過激派による攻撃との関係やその他の問題を理由に、イランに対する制裁を強化します。
しかし2000年、ビル・クリントン大統領は、イラン産キャビア、絨毯、ピスタチオの禁輸を解除しました。

マデレーン・オルブライト国務長官は「イランは危険な地域に存在している」とし、「我々はイランの危険性を軽減するための努力を歓迎する」と述べました。
そして2010年、イランの核開発計画に対する懸念が高まる中、米国は再びイラン製ペルシャ絨毯の輸入を禁止したのです。
しかし2015年、イランは世界各国と核合意を締結し、テヘランの濃縮ウラン備蓄量を大幅に削減し、純度を劇的に低下させます。
それを受けペルシャ絨毯の輸入は再開されました。
ところが、その3年後の2018年、当時のドナルド・トランプ大統領は、米国を核合意から一方的に離脱させます。
それ以来、イランは兵器級に近いウラン濃縮を開始し、先月イスラエルを標的とした前例のないドローンとミサイルによる攻撃を含む、海上および陸上での一連の攻撃の責任を問われています。
絨毯職人にとって、それは彼らの製品が再び米国法の下で禁止されることを意味するものでした。
手織絨毯生産者組合の代表、アブドラ・バフラミ氏は、業界崩壊の原因はトランプ大統領の制裁にあると非難しました。
彼は制裁導入前の米国への輸出額は年間8000万ドルにも上ると推定しています。

絨毯販売業者が事態をさらに悪化させているのは、カシャーンへの観光客の減少です。
イランの日刊紙『シャルグ』は昨年、イランへの欧米からの高額所得者層の観光客はほぼ停止していると警告。
エッザトッラー・ザルガミ観光大臣は4月、過去12ヶ月間に600万人の観光客がイランを訪れたと主張しましたが、この中には宗教的な巡礼者や、支出の少ないアフガニスタン人やイラク人が含まれている可能性が高いようです。
そんな中、イランを訪れる観光客も国際ブランドのクレジットカードが利用できないという、この国の金融問題に直面しています。
たとえ気に入ったペルシャ絨毯が見つかったとしても、支払いに苦労する現実があるのです。
海外の銀行口座を利用するには高額な手数料を支払わなければならず、現金が足りないという理由で注文をキャンセルする観光客もいるといいます。
絨毯業界の賃金は低いことから、カシャーン周辺の工房で働くアフガニスタンからの移民が増えていることにも注目せねばなりません。
ある絨毯作家は、年間10件だった注文が僅か2件に減ったと頭を抱えます。
以前は大きな工房ともなると4~5人のアシスタントを雇っているのが普通でしたが、彼は従業員をすべて解雇し、狭い空間で一人で働いているそうです。
インフレは年wを追うごとに悪化し、いまやカシャーンの絨毯産業を崩壊させつつあります。

ナインの町

お問い合わせ

     

お問い合わせは
お電話もしくはメールフォームにてお受けしています。
お気軽にご連絡ください。