ペルシャ絨毯がシルクロードを通じて日本に伝わったという誤解
[画像:祇園祭]
シルクロード……何とも浪漫に満ちた名です。ペルシャ絨毯がシルクロードを駱駝に揺られて運ばれて、中国から日本に伝わったと考える人は多いことでしょう。
奈良の正倉院の宝物には、ペルシャから伝来した「白瑠璃碗」や、ペルシャの意匠を取り入れた「漆胡瓶」など、ペルシャとの交流を示す品が存在しています。
白瑠璃碗はササン朝ペルシャで作られたと考えられているガラス製の碗で、この碗は、正倉院にある他の宝物と同様に、ペルシャからシルクロードを経由して日本に伝わったとされてます。
イランで製作されたものではありませんが、漆胡瓶は鳥の頭に似た蓋が付いた水差しで、この形は古代ペルシャで生まれ、漆塗りはアジアの工芸技法であり、シルクロードを通じた文化交流の証とされています。
伎楽面「酔胡王」はペルシャの王をモデルにしたとされる面で、正倉院の宝物の中でも特にペルシャの影響を強く感じさせるものの一つです。
正倉院がシルクロードの終着点であったことを示すこれらの宝物は、古代の東洋と西方世界との交易の証とされています。
シルクロードは古代から中世にかけてアジアとヨーロッパを結ぶ主要な交易路であり、絹や香辛料、陶器など多くの品物が輸送されました。
しかし、ペルシャ絨毯が日本に直接伝わったという証拠は存在しません。
美しい文様が織られた敷物である正倉院の宝物「花氈」は、ペルシャ絨毯の様式に似ており、ペルシャの文化と日本の文化が交流したことを示していますが、これはイランで製作されたものではありませんし、パイル織の「絨毯」でもありません。
ペルシャ絨毯がシルクロードを経由して日本にもたらされたとする誤解は、ペルシャ絨毯の美しさや技術が広く評価されることに起因していますが、実際の流通経路はまったく異なります。
ペルシャ絨毯が日本に伝わったのは、南蛮貿易によるものとされています。
南蛮貿易は、16世紀から17世紀にかけて日本と南方地域、特にポルトガルやオランダを中心とした西洋諸国との貿易活動を指すものです。
南蛮貿易は、江戸時代初期の日本において重要な役割を果たし、特に戦国時代から江戸時代初期にかけて盛んになりました。
1543年にポルトガルが種子島に到達し、西洋の文化や商品、技術が日本に大きな影響を与え、火器や西洋の工芸品、医学、文物が輸入されました。
日本からは主に銀や金、香木、絹などが輸出される一方で、南方地域からは火器や時計、絵画、ワイン、布地などが輸入され、またこの貿易を通じてキリスト教が日本に伝えられ、宣教師たちが活動を行ったことで宗教的な影響も見られました。
南蛮貿易は日本の対外関係や文化に大きな変化をもたらしましたが、江戸時代中期には鎖国政策が進み、貿易は縮小しました。
しかし、オランダは長崎を通じて一部貿易を継続し、西洋の知識や技術が引き続き日本に影響を与える結果となりました。
これにより、南蛮貿易は日本の歴史における重要な出来事であり、国際交流の初期段階を象徴するものとなっています。
祇園祭の山鉾を飾る「懸装品(かけそうひん)」には、トルコやペルシャ製の貴重なアンティーク絨毯(じゅうたん)が多数使われており、「幻の絨毯」とも呼ばれ、世界的な美術工芸品として高く評価されています。
これらは16世紀以降、西欧との交易を通じて日本にもたらされ、山鉾の豪華絢爛な装飾として、現代の巡行でも大切に用いられ、文化財として保管・展示されています。
主にペルシャ(イラン)、インドなどで作られた手織りの絨毯で、ベルギー製のタペストリーなどもあります。
歴史的価値: 16世紀から19世紀頃に作られたものが多く、ムガール絨毯なども含まれ、非常に貴重です。
江戸時代に東インド会社などを通じた西欧との海上貿易で日本に流入したもので、当時の国際性を物語ります。
西洋の珍しい品物を取り入れた京都人の「粋」(いき)」を体現したものだったのでしょう。
祇園祭の山鉾巡行は、これらの美しいアンティーク絨毯が織りなす、「動く美術館」と言われていました。
「言われていました」と過去形にしたのはこれらの絨毯は 年にレプリカと取り換えられたからです。
また高台寺に伝わる豊臣秀吉の陣羽織は、ペルシャ絨毯で作られていると説明する者がいますが、実際にはペルシャ絨毯ではなく綴織のキリムを裁断して製作したものです。
この陣羽織は、秀吉が生前に着用されていたとされ、非常に豪華な装飾が施されています。
かつてイタリアのヘッセン財団が所蔵しており、現在はミホミュージアムに収蔵されているキリムとデザインや製法が酷似していることから、同じ工房で製作されたものと考える向きもあります(詳しくは【ペルシャ絨毯の歴史詳細】をご覧ください)。
日本においてペルシャ絨毯が知られるようになったのは、主に19世紀以降のことです。
この時期、西洋列強が日本に接触し、様々な文化や商品が流入しました。
特に、明治時代には西洋文化の影響を受けた多くの模様やデザインが日本に取り入れられましたが、その一部としてペルシャ絨毯も評価されるようになったのです。
しかし、それを実際にに目にすることができたのは一部の上流階級の者だけで、庶民に普及した訳ではありませんでした。
日本には独自の敷物文化が存在し、伝統的な日本の絨毯である「い草」や「タタミ」が広く普及していました。
それゆえペルシャ絨毯が我が国の生活様式に直接的な影響を与えることはなかったのです。

