ゲーリングのペルシャ絨毯
[画像:ゲーリングの列車の中から見つかった「巨大な絨毯」]
2013年1月、ドイツのニュース週刊誌『デア・シュピーゲル』は、ナチス・ドイツでヒトラーに次ぐ地位にあったヘルマン・ゲーリング国家元帥が所有していたペルシャ絨毯が、戦後ドイツ政府の庁舎で使用されていたとする調査結果を報じました。
報道によると、ゲーリングのコレクションの一部であったペルシャ絨毯がベルリンのドイツ首相官邸に敷かれており、同じく彼のコレクションのタペストリーがボン近郊のペータースベルクにある政府の迎賓館で見つかっています。
これらの工芸品は、第二次世界大戦前および戦中にナチスによって略奪された数千点もの美術工芸品の一部であり、戦後も元の所有者に返還されず、ドイツの美術館や政府機関に保管されていることが明らかになっています。
初めにゲーリングをよくご存知でない方のために簡単に触れておくと、彼は第一次世界大戦の戦闘機パイロットとして名声を得た後、ナチス党に加わり、ヒトラーの側近となりました。
ナチス政権下で空軍(ルフトバッフェ)の創設者として重要な役割を果たすとともに、「四カ年計画」と題した経済政策やスペイン内戦の戦略にも深く関与します。
第二次世界大戦が始まるとヒトラーの後継者に指名され国家元帥となりますが、やがてヒトラーと齟齬が生じ、終戦の直前にはすべての官職を剥奪され党も除名されました。
第二次世界大戦後、連合国によって捕らえられ、ニュルンベルク裁判で戦争犯罪および人道に対する罪で起訴され、死刑判決を受けます。
しかし刑執行の前夜、極中で服毒自殺しました。
第二次世界大戦前半、ドイツ軍がヨーロッパ各地を占領すると、ゲーリングは戦争よりも美術工芸品の略奪に情熱を注ぐようになります。
それらの美術工芸品の多くはユダヤ人富豪から没収したものでした。
首相官邸に敷かれているゲーリングのペルシャ絨毯は19世紀末から20世紀初頭にかけて、イラン中西部のスルタナバードで製作されたものです。
スルタナバードは現在のイランの地図には載っていません。
この町は1935年代に「アラク」と改められたからです。
1883年、英国マンチェスターに拠点を置くスイス企業、ジーグラー商会がスルタナバードに進出し、絨毯工房を開設しました。
西洋人の嗜好に合ったペルシャ絨毯を製作するのが目的です。
アーツ・アンド・クラフツ運動の幕開けとともに、ジーグラー商会はデザインを大型化し、絨毯のサイズも西洋の部屋の仕様に合わせて大型化しました。
ヨーロッパとアメリカの嗜好に合うよう、色彩も柔らかくなります。
これは西洋人がペルシャのデザインに直接影響を与えた初めての事例となりました。
スルタナバード絨毯はアンティーク絨毯の愛好家や収集家の間で、高い人気を誇っています。
ナチスの遺産であったペルシャ絨毯が話題になるのは、これが初めてではありません。
1991年にロンドンで開催されたクリスティーズのオークションに、第二次世界大戦中にナチスが略奪したペルシャ絨毯が出品されたことがありました。
この時期は、英国のナサニエル・ロスチャイルド男爵からオーストリアのアルベルト・ザロモン・アンゼルム・フォン・ロートシルト男爵に継承されたものです。
16世紀にタブリーズで製作されたとものといわれるこの絨毯は、カタール首長であったハマド・ビン・ハリーファ・アッサーニーが240万ドル(約3億2000万円)で落札し、ドーハに開館したイスラム・アート美術館に寄贈しました(詳しくは【ペルシャ絨毯の歴史詳細】をご覧ください)。
終戦直後、500万点にも及ぶ美術工芸品がドイツの鉱山や城の地下室、修道院、その他1500カ所の施設で埃をかぶっていました。
ドナウ川の石灰岩で覆われた、隣接する2棟の建物がミュンヘン中心部にあります。
ヒトラーはそのうちの1棟を国賓の接待に、もう1棟をナチス党本部として使用していました。
連合国はナチスの有力者たちが美術工芸品を略奪していることを知っており、終戦のかなり前からナチス略奪品の処理計画を立てていたのです。
そして、この2棟の建物を集積場所に選びます。
バルコニー、大理石の階段、そして地下防空壕を備えたナチス時代を彷彿とさせるこの場所に、中央集積所(CCP)は開設されました。
1945年の夏以降、ヨーロッパ各地で見つかったた美術工房品がCCPに集まり始めます。
それらには、ヒトラーがオーストリアのリンツ市に建設予定の総統博物館に収蔵されるはずだった4700点以上の品々、ゲーリングのコレクション4200点(そのほとんどはベルリン近郊のカリンハルの別荘に保管されていました)、そしてヨーゼフ・ゲッベルス、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ、ハインリヒ・ヒムラー、バルドゥール・フォン・シーラッハ、アルベルト・シュペーア、マルティン・ボルマン、ハンス・フランクらの小規模なコレクションが含まれていました。
連合国は、ナチスの有力者たちが第二次世界大戦中、ヨーロッパ各地から美術工芸品やその他の貴重品を略奪していたことを知っていました。
1945年、連合国は略奪された美術工芸品の集積所をミュンヘンに設置しました。
話を戻しましょう。
第二次世界大戦後、ドイツ軍はナチスにより略奪されな美術工芸品の元の所有者の捜索を開始しましたが、1966年に捜索が終了すると、多くの作品が美術館に貸し出されました。
シュピーゲル誌の調査によると、650点以上の美術品が政府機関に貸し出されたといいます。
その中にはヒトラーが1939年、のちに妻となるエヴァ・ブラウンに誕生日プレゼントとして贈ったプラチナ製の腕時計も含まれていました。
現在、この腕時計はミュンヘンの博物館に「第三帝国保管品」として所蔵されており、「エヴァ・ヒトラー(旧姓ブラウン)の遺産」として登録されています。
エヴァ・ブラウンの腕時計に加え、ミュンヘンのピナコテーク・デア・モデルネ美術館には、ゲーリングが所有していた数多の品々が所蔵されています。
これらの中には、プラチナ製のネクタイリング、金のカフスボタン、ダイヤモンドで装飾された指輪、金のシャンパンゴブレット、そして1940年に妻と娘から贈られたダイヤモンドで装飾された金のシガレットケースなどが含まれています。
シュピーゲル誌の調査を受け、当時のドイツ文化相ミヒャエル・ナウマンは、ベルリン州政府に対し、略奪された美術品を正当な所有者に返還するための取り組みを強化するよう求め、ドイツの美術館で働く研究員を雇用するための国家予算の増額を要求しました。
ドイツには6300の美術館がありますが、収蔵品の出所を調査する専門家は不足しています。
バイエルン州立アルテ・ピナコテーク(旧絵画館)は、1933年以降に収集された4400点の絵画と770点の彫刻の出所調査に、たった1人の専門家しか雇用していません。
シュピーゲル誌によると、戦後バイエルン州はナチス指導者の所有していた多くの別荘を相場よりも低い価格で売却しました。
これにより、元の所有者やその相続人は、より高額な賠償金を受け取る権利を失ったといいます。
ドイツは、ナチスによって略奪された美術工芸品について、尊厳ある道を歩む機会を幾度となく逃してきました。
現在、アルテ・ピナコテーク所蔵の数千点に及ぶ美術工芸品の出所調査は、美術史家のアンドレア・バンビ氏が負っています。
彼女は自身の職務を警察の捜査に例えます。
10年以上前、彼女の雇用主はゲーリング・コレクションに含まれる126点の絵画の出所を調査する研究プロジェクトを立ちあげました。
そのうち72点は現在も美術館が所蔵しています。
バンビ氏の仕事は、残りの膨大な絵画を調査することです。
これはドイツでは他に類を見ない、そしてかなり特異な役目といえます。
ワシントン協定に基づき、彼女はナチスの犠牲者に対する義務を負う一方、美術館からは給与を受け取り、終身在職権を与えられています。
バンビ氏の仕事は、双方の要求を満足させなければならない綱渡りのようなものなのです。
「略奪品刑事」の仕事は簡単ではありません。
バンビ氏の書斎のテーブルの上にはベージュ色のフォルダーが置かれています。
そこには3500ページに及ぶ資料が入っており、彼女はミュンヘンにある美術工芸品の出所を突き止めるために、これらの書類をくまなく調べなければなりません。
資料は整理されておらずバラバラの状態で、羊皮紙にカーボンコピーが貼られ、すでに引退している同僚たちが書いた判読しにくいメモが添えられています。
彫刻の推定価格がカレンダーの裏に赤鉛筆で殴り書きされていたりで、まさに混沌とした書類の山です。
バンビ氏は美術史家の他に、アーキビスト(公文書館で働く専門家)、歴史家の3人のスタッフが必要だと言いますが、その人件費は年間で約23万ユーロ(約4170万円)と見積もられます。
しかし、ヒトラーの著書『我が闘争』の印税と、彼のすべての遺産を保有するバイエルン州財務大臣は、このプロジェクトへの資金拠出を拒み続けています。
こうした状況を鑑みれば、連邦政府の介入が必要なのは明らかです。
アルテ・ピナコテークとシャック・コレクション、そして12のサテライト・ギャラリーのコレクションを合わせると、1933年以降ナチスのコレクションとして蓄積された合計4400点の絵画と770点の彫刻を調査する必要があるといいます。
しかし、実際はそれだけにとどまりません。
バイエルン州の最高幹部が日常的に使用している、ナチスの遺産があります。
例えば、バイエルン州政府は長年、プリンツレーゲンテン通りにある建物を議事堂として使用していました。
元バイエルン州知事でCSU(キリスト教社会同盟)議長のフランツ・ヨーゼフ・シュトラウスは、この大広間を閣議や、東ドイツの指導者エーリヒ・ホーネッカーをはじめとする国賓の接待に使用しています。
部屋の床には、15.18メートル×7.27メートルの巨大な絨毯が敷かれていました。
この絨毯についての記録は連邦公文書館にも保存されており、ベルヒテスガーデンでゲーリングの列車の中から見つかった「巨大な絨毯」として記録されています。
この絨毯は一見ペルシャ絨毯のようですが、イラン製ではなくてインド製です。
絨毯の裏には、戦後、中国共産党が付けた「6498」という番号も残っています。
この絨毯がドイツの現代史においてどれほど重要な役割を果たしたかを知る人はほとんどいません。
この絨毯はかつてゲーリングのカリンハル邸の図書室へ通じる廊下に敷かれていたものと伝えられます。
そして、1987年に東ドイツの反ファシズム指導者ホーネッカーがプリンツレーデンテン通りを訪れた際の写真も残っています。
これらすべてがゲーリングの絨毯の上で起こった出来事だったのです。
戦後、この巨大な絨毯はバイエルン州の所有物となりました。
そして、いまはシャック・コレクションの廊下に丸めて置かれています。
もはや誰も使うことがないにもかかわらず、この歴史に刻まれた絨毯を売ろうとする者はいません。
20年近く前、アメリカから購入希望者が現れたものの、売却されることはありませんでした。
現在、この絨毯は古い木製のパレットに挟まれ、ビニールに包まれた状態のまま放置されています。
放置することも一つの手段かもしれません。
ミュンヘンの国立グラフィック・コレクションには、かつてナチスが所有していた601点のルドルフ・フォン・アルト(1812~1905年)による素描と水彩画が保管されています。
これらはヒトラーのオーバーザルツベルクの別荘、ベルリンとミュンヘンの総統官邸、そしてリンツに建設予定の総統博物館のためにヒトラーの側近マルティン・ボルマンが入手したものです。
この画家のデッサンも、ヒトラーの専属写真家ハインリヒ・ホフマンに返還された美術品のリストに含まれていました。
ミュンヘン美術館の職員は、1930年代までこれらの作品が主にウィーン出身のユダヤ人実業家の所有物であったことを知っていたといいます。
1959年以降、これらの作品は旧ナチス党本部ビル(現在は国立グラフィック・コレクションが所有)の2つのスチール製キャビネットに保管されていました。
この現状が覆されたのは2011年に、ロンドンに拠点を置く「ヨーロッパ略奪美術委員会」がここを訪れ、水彩画の返還を要求したことです。
委員会は、1938年まで現在のチェコ共和国ブルノ出身のユダヤ人女性が所有していた「ウィーン旧北駅」の返還を求めました。
委員会は他の作品についても返還を求める意向を示し、最終的に国立グラフィック・コレクションは来歴調査プロジェクトに着手するに至ったのです。
ドイツはオーストリアの例に倣うべきです。
終戦後、ウィーン近郊の修道院には、主にユダヤ起源の8422点の美術工芸品が保管されていました。
そのうち相続人が所有権を証明できたのはわずか93件です。
50年にわたる議論の末、オーストリア政府は道義的な解決策を導き出しました。
クリスティーズでオークションを開催し、その収益をナチスの犠牲者に寄付するというものです。
1996年10月のオークションでは1100万ユーロが集まりました。
ゲーリングの絨毯についても、この方法で解決できるのでしょうか?
一部の指揮者が懸念するように、ナチス縁の品々の取引が過熱するだけかもしれません。
しかし、インターネットにはすでにそうした品々が溢れています。
ヒトラーの真鍮製デスクセット、強制収容所の医師ヨーゼフ・メンゲレのメモ、ヨーゼフ・ゲッベルスが書いた手紙や絵葉書などです。
いくつかの指輪やティアラが売られたくらいでは、状況はあまり変わらないでしょう。
それでも、この方法については公の場で議論する価値があります。
これらの品々を売却すれば、来歴調査の職員を数人増員できるだけの資金が集まるはずだからです。
追加の資金と政治的な意思決定がなければ、戦後のドイツによる賠償の最終章とも言えるこの段階が、尊厳ある結末を迎えることは不可能でしょう。
賠償とは、法治国家の再建です。
美術工芸品の返還に関して、ユダヤ人請求会議(JCC)は、ドイツにはまだなすべきことが山積していると悲嘆します。
JCCは、連邦政府が用意する資金では、必要な措置のほんの一部しかカバーできないと述べています。
それどころか、相続人は自ら調査を行い、疑義が生じた場合は家族の遺産のために闘い、裁判に訴えるしかないとJCCは主張しています。
ミュンヘンは、ナチスの遺産を追うのに最適な出発点なのです。
【カリンハル邸に敷かれたペルシャ絨毯】
カリンハル邸はゲーリングがドイツ北東部のブランデンブルク州にあるショフルハイデの森に建築した豪邸。
その名は亡き先妻カリンに因んだものです。
彼はこの広大な森を私有地とし、狩猟を楽しみました。
日本の松岡洋右外相や山下奉文大将、飛行家のチャールズ・リンドバーグもカリンハル邸を訪れています。
ゲーリングの公式伝記作家エーリヒ・グリッツバッハによれば、「彼は建物。それを取り巻く庭園、織物類、カーペット、ランプの取付具や壁掛け、ドアの取っ手や絵画、美術品に至るまですべて自分で計画した」そうです。
廊下には当時欧米で人気のあった、色とりどりのスルタナバード産のペルシャ絨毯が敷かれています。

