ケルマン産のペルシャ絨毯のいま
[画像:20世紀初頭に製作されたケルマン絨毯]
ケルマンは16世紀以降、ペルシャ絨毯の主要な産地の一つとなってきました。
しかしながら過去50年間は、その位置を保つことができていません。
インド北部のカシミールと同様に、ケルマンはカジャール朝の時代まで手織ショールの産地として世界的に有名で、高価で模様のある織物の生産と取引で黄金期を迎えました。
ショール製作は産業革命による機械の登場とともに廃れてしまいましたが、新たに興った絨毯産業においても繊細かつ緻密なデザインで欧米の人々を魅了してきたのです。
ケルマン絨毯は1970年頃まで、アメリカをはじめとする世界市場への輸出量の10~15%を占めていました。
この町では、OCM、ティモ、カダンといった国内外の大手企業が生産を行っており、19世紀後半から20世紀前半にかけては数千人もの職人たちが絨毯産業に携わっていたのです。
その中にはモフセン・ハーン・シャーロキ、ハサン・ハーン・シャーロキ(モフセン・ハーンの息子)、ハシェム・ハーン・シャーロキ(モフセン・ハーンの孫)、アフマド・ハーン、ザマン・ハーン、シェイフ・ホセイン、カルバライ・モハンマド・アリー、シェイフ・ラマダン・ミール・サルジャニ、アリー・モハンマド ・カーシ、アリー・レザーなど多くの有名デザイナーがいました。
ケルマンの絨毯の特徴としては、鉤針を使わず織師の指先だけでパイルを結ぶペルシャ結びが用いられていることが挙げられます。
そのため、タブリーズ絨毯などに用いられるトルコ結びに比べて織りの速度が遅く、絨毯の最終価格は高くなります。
ただしケルマンではジュフティ結びもよく使われていて、それはいまでも変わりません(ジュフティ結びについては【ペルシャ絨毯の作り方】をご覧ください)。
一見するとノット数は36万から49万はあるようですが、パイルの間を指で押し広げると縦糸が見えます。
本来2本の縦糸に結びべきパイル糸を、1列ずつ飛ばして4本の縦糸に結んであるからです。
ジュフティ結びを用いた絨毯は寿命が短く、数回クリーニングすると縦糸が露出してしまいます。
当然、値段は安くなりますが、ジュフティ結びは素人には分かりにくいため、決して値段だけで判断してはいけません。
ケルマン絨毯のもう一つの特徴は、この地域の絨毯に用いられる色数が多いことです。
この地域の精巧な絨毯には、30色にも及ぶ色が使われることもあり、ケルマン絨毯を非常に目を引くものにしています。
しかし、インテリアの主流はモダンスタイルへと移行し、無機質でシンプルなデザインが好まれるようになりました。
以来、カラフルなケルマン絨毯は敬遠される傾向にあります。
ケルマンでは通常「先染め」によって染色されます。
先染めは糸を紡ぐ前にウールを染色する方法で、染料は多く必要となるものの深い色を染めることが可能です。
かつては天然染料が使用されていましたが、現在ではクローム染料が主流になっています。
1970年代から都市部の絨毯産地ではパイルの一部にシルクを使った絨毯が流行しました。
ケルマン絨毯はこのトレンドにうまく対応できず、パートシルクの技法は普及しなかったのです。
ケルマン絨毯は原価が高かったため、カシャーンの25万~36万ノットの絨毯やタブリーズの36万から49万ノットに市場を奪われました。
いまではペルシャ絨毯全体の輸出量におけるケルマン絨毯の割合は5%にも至りません。
ケルマン絨毯の生産量は大幅に減少しており、この町で大規模な生産を行っていたイスラム救済委員会の工房でさえ、生産を大幅に減らしています。
またOCMの時代からケルマンに工房を構えていたイラン絨毯会社も同様に、この町における生産量を縮小しているのが現状です。
ケルマン絨毯がかつての名声を取り戻すには、ブランド力の強化が不可欠でしょう。
こうした意味で、いまケルマンの絨毯産業はカジャール朝時代への回帰が求められています。
独創的なデザインと緻密な織りで知られたケルマン絨毯が復活するには、官民一体の取組が必要です。
デザインのバリエーションを増やし、織りの質を上げ、サイズごとの生産量を見直すだけでなく、ブランド力を高めるための展示会への出展、教育施設の拡充、博物館の建設等、行うべきことはたくさんあります。
こうした取組が功を奏せば、必ずやケルマンの絨毯産業は息を吹き返すでしょう。

