十字軍が西欧に持ち帰ったペルシャ絨毯
十字軍
中世末期、幾人かの探検家たちが西アジアを旅行し、西欧の人々に絨毯というものがあることを伝えました。
しかし、それにもましてペルシャ絨毯を西欧の一般社会に広く知り渡らせたのは、十字軍の兵士たちです。
1096年から1099年までと、1147年から1149年までの二度にわたって十字軍の遠征は行われました。
従軍した兵士たちは中東と接し、そこで作られている種々の織物を知ります。
彼らはペルシャ絨毯(当時のイランはセルジュク朝)を目の前にして、目を奪われたに違いありません。
黄、青、緑などの鮮やかな色が織り込まれた敷物は、いままで彼らが手にしたことのない東洋の富の象徴でした。
彼らは、この羽毛をむしり取ったような不思議なもじゃもじゃした品物を carpo(むしる)という語をもとに、当時のフランス語で carpite(毛をむしり取ったようなもの)と名付けます。
このフランスの古語が、やがて英語の carpet という語になりました。
つまり、carpet 本来の語義は、もじゃもじゃした毛の生えている状態を意味しているのです。
十字軍の兵士たちは帰征の途につくとき、キリスト教徒の聖者たちの遺品を包むのに、この異教徒の作ったウールの絨毯を好んで用いたといいます。
十字軍の兵士たちは中東の文化を次々に西欧社会に持ち込みました。
12世紀以来、彼らによってモスール産の「モスリン」、ダマスカス産の「ダマスカス織」、バグダッド産の「バルダチン」などがヨーロッパに導入され、たちまち服飾は一変します。
また同時にペルシャ絨毯やトルコ絨毯が大量に導入されて、ヨーロッパの室内装飾には一大変化がもたらされました。
こうしてビザンチン文化にもイスラム文化の色が強く流れ込んでゆきます。
イタリアのシチリア島もイスラム文化の及ぶところとなっていました。
例えば、イスラム化したシチリア島やビザンチン帝国の王家と、中央ヨーロッパの王家との間の婚姻などは、これを迎える人々に対し、イスラム文化の象徴たる絢爛豪華なペルシャ絨毯などを誇示して、強烈なインパクトを与えたようです。
1113年の初夏、イェルサレム王ボードワン1世がシチリア島のアデライード姫と婚約して、彼女をフランス南端のアッコンの港(現在のサン・ジャンダークル)に迎えたとき、アッコンのメインストリートは色とりどりの絨毯で路面が被われ、沿道の人々は紅の布を露台に下げて、町を挙げてお祭り気分に華やいだと伝えられます。
これが西欧で街路を絨毯などで飾り立てた始まりでした。
姫をシチリア島から護衛してきた7隻のシチリア艦隊がアッコンの港に着いたとき、金、銀、宝石、甲冑のほかに高価な織物が大量に陸揚げされたといいます。
色彩豊かで豪華な絨毯は、彼地では貴重な装飾品となっていることを西欧の人たちは知らされたのです。
数十年後、ビザンチン皇帝が、かつてのシリア王国の首都アンティオキアに侵攻し、いよいよ入城というときに、アンティオキアの大通りは絹の敷布や高価な織物で覆い尽くされ、人々の歓呼の声や笛太鼓の鳴り響く中を、ビザンチンの軍隊は堂々と行進してゆきました。
高価な織物の絨毯などを露台から掛け下げたりすることは、それまでの西欧社会にはなかった習俗です。
室内をペルシャ絨毯で覆い尽くすというイスラムの習慣が、こうしてまず西欧の王侯社会に浸透していったことが、この史実の一片からはっきりと推察できるでしょう。
もう一つ、王家間の婚約の史実を紹介します。
イェルサレム王ボードワン3世は外交上の政策からイスラムのカリフ、ヌール・ウッディンと縁談を進め、ついにイスラム支配下のビザンチン皇帝マヌエル・コムネスの姪テオドーラと婚約しました。
1158年9月、皇女テオドーラが地中海東岸のテュロスの港に、華やかな従者たちを伴って上陸します。
この背高く雪のように白い肌と豊かな金髪を持った、実に優雅な身のこなしをする15歳の美少女は、千夜一夜の物語さながらに光り輝いていました。
その上、財宝をいっぱいに詰めた数多くの箱を携えて来て、街に溢れる人々に讃嘆の吐息をつかせたのです。
その財宝というのは、ビザンチンの貨幣であり、金銀の細工物であり、宝石であり、絹や金糸で織りあげた錦であり、そして見事な絨毯でした。
これらの錦や絨毯は、中世からルネッサンス期にかけての記録に「値段もつけられないほど高価な」と形容されています。
ペルシャ絨毯は、まさに値段もつけられないほど高価な財宝でした。
だからこそ絨毯は、王家の贈り物として最高のものでもあったのです。
例えば、ビザンチン帝国と他国の講和は、馬や金銀などのほか、贅が尽くされた礼服や上等高価な織物などの財宝をもって行われていました。
値段もつけられないほど上等高価な絨毯とは一体どんな品物だったのでしょうか?
強い好奇心をそそられますが、当時の絨毯や織物の現物は、残念ながら一枚として残存していません。
【十字軍の遠征経路】
十字軍は、主にキリスト教徒がイスラム教徒によって支配されていた聖地イェルサレムや周辺地域を奪還するために組織された軍隊や遠征隊のことを指します。
最初の十字軍は1096年に始まり、以降何度も遠征が行われます。
十字軍の動機は複合的で、宗教的な信念に基づく「聖戦」のほか、経済的な利益や政治的な権力の拡大なども含まれていました。
教皇やヨーロッパの王侯貴族などが十字軍を支援し、多くの人々がこれに参加。
主に東方に向けられましたが、様々な遠征が行われました。
中でも第一回十字軍は最も有名で、イェルサレムを奪還しキリスト教徒の支配下に置いたものの、再びイスラム教徒に奪われました。
十字軍は中世ヨーロッパの歴史において重要な役割を果たし、東西文化の交流や知識の伝播、経済的な発展などにも影響を与えました。
しかし、多くの犠牲者を出したり、異教徒に対する残忍な行為も行われたりしたことも事実です。