チューリップとペルシャ絨毯
イランの国花が薔薇(正確には黄色の蔓薔薇)であることは、ペルシャ絨毯にある程度詳しい方ならご存知かもしれません。
ペルシャ絨毯のデザインには薔薇を描いたものがたくさんあり、表情をより優雅なものにしています。
薔薇の最高品種といわれるダマスクローズの栽培の起源は現在のイランであるアルケサス朝パルティアで、紀元前12世紀ごろゾロアスター教徒によって始まったとされ、ダマスクローズで香り付けされたローズウォーター(薔薇水)を宗教儀式に用いていたと言われています。
信仰が広がるとともにローズウォーターの需要が高まり、シラーズに続いてカシャーン地方でもダマスクローズの栽培が始まりました。
いまもシラーズやカシャーンは、高品質なダマスクローズの栽培地になっています。
このように薔薇とは縁が深いイランですが、チューリップの国でもあることは意外と知られていません。
実はチューリップは薔薇と並んでイランの国花なのです。
また、イランの国旗の中心に描かれているのもチューリップの花。
そのチューリップは4つ三日月と真中の剣から成り、殉教者を表しているといいます。
古代ペルシャの伝説では、祖国のために兵士が戦死した場所には、赤いチューリップが咲くとされていました。
現在でもチューリップは、勇敢さの象徴と考えられているのです。
チューリップはもともとトルコからイラン、中央アジアを中心とした北緯40度線に沿った地域を原産とするユリ科の植物です。
イランではラーレと呼ばれ、「非のうちどころのない恋人」の意味があります。
旧約聖書にある有名な「ソロモンの栄華も野の百合にしかず」の百合とは 聖地に多く自生するチューリップの一種であるチューリパ・シャロネンスを指すとする説もあるようです。
チューリップの野生種は約150種があるとされますが、そのうちのいくつかがイランに自生しています。
野生種のチューリップは、強風が吹き荒れる乾燥地帯の中を生きるために背丈が低いのが特徴ですが、これら野生種のチューリップを20種ほど組み合わせて交配することにより、さまざまな園芸品種のチューリップが作り出されたそうです。
チューリップの栽培は10世紀頃にイランで始まり、それがやがてトルコに伝わりました。
16世紀にオスマントルコは神聖ローマ帝国であるハプスブルク家の首都ウィーンまで侵入します。
1544年に和平交渉が行われ、オージェ・ギスラン・ド・ブスベックが大使としてトルコに派遣されました。
彼は著作家で植物学者でもあり、そこで見慣れない花を眼にしたので名を尋ねたところ、トルコ人は頭に巻いているターバンのことを聞かれたのかと勘違いして、「テュルパン」と答えます。
そして、これが「チューリップ」という名の由来になったのでした。
ブスベックは帰国の際、このチューリップを持ち帰り、ウィーン宮殿で栽培されていました。
宮園の園長であるカルロス・クルシウスは、オランダのライデン大学の教授に迎えられたときにチューリップを持参。
1592年にクルシウスがチューリップに関する本を発表すると、この美しく珍しい花は瞬く間にオランダ中で大変な人気となりました。
栽培する人が増えて品種が豊富になると、チューリップの人気はさらに高まり、そして、世界最初のバブルと呼ばれるチューリップ狂時代へと突き進んで行ったのです。
それはさておき、チューリップは薔薇と同様に、ペルシャ絨毯のデザインにも採り入れられています。
タブリーズやイスファハンで製作されるシティラグからハマダン地方のビレッジラグやアフシャルのトライバルラグまで、登場する作品は様々です。
中でも大変ユニークなのがアフシャルが製作するトライバルラグです。
イランには逆さチューリップという珍しい種が存在しています。
逆さチューリップは、イラン西部のケルマーンシャー州にあるササン朝期の遺跡、ターゲ・ブスターンの石造りのアーチに掘り込まれています。
このことから、当時からこの希少種が存在していたことが分かります。
逆さチューリップをめぐるイランに伝わるある伝説があります。
イランの偉大な叙事詩人フェルドーシが著した『王書』には、中央アジアのトゥラーンの王アフラスィヤブの兄弟に当たるギャルスィヴァズという人物が登場します。
伝承によれば、このギャルスィアズが、自らの持っていた剃刀でペルシャの王子スィヤーヴーシュの首を引き裂いたとき、そこに咲いていたチューリップがその一部始終を目撃していました。
それ以来、悲嘆に暮れたチューリップは赤面して下を向き、罪なきスィヤーウーシュの非業の死を嘆いて涙にくれたのが、現在の逆さチューリップの姿だということです。
実際に、逆さチューリップには無色の樹液があり、時々それが流れ出す様は、あたかも逆さチューリップが涙を流しているように見えます。
この伝説から、イランの一部地域、とりわけクルデスタン州のパーヴェやウラマーナートでは、逆さチューリップは「スィヤーヴーシュの涙」と呼ばれています。
19世紀に製作されたアフシャルのトライバルラグには、珍しいこの逆さチューリップを織り出した作品を見ることができます。
逆さチューリップはフィールド一面に連続して織り出されますが、幾何学的に抽象化されているため、一見しただけではそれが何であるか分からないかもしれません。
逆さチューリップには2000年以上にわたって、咳止めや喀痰薬(かくたんやく)として使用されてきた歴史があります。
ただ美しくだけでなく、遊牧民にとってはありがたい存在だったのでしょう。
チューリップを織り出したアフシャルのトライバルラグには別のパターンもあります。
イランでは「ガビ」と呼ばれる斜格子のデザインです。
2017年にサンフランシスコで売りに出しされたコーウィン・コレクションに含まれていた一枚は、その最高傑作でした。
この絨毯が織られた19世紀初頭、アフシャルは遊牧生活を営んでいました。
都会の影響を受けた垢抜けたチューリップを織り出したその作品は、由来はともかく、アフシャル絨毯の特徴を明確に示しています。
パターンの原型は、サファヴィー朝期の庭園絨毯などに見られるもので、イランの芸術家で美術史家でもあるパルヴィズ・タナヴォリ氏によると、アフシャルはイランの他のどの部族よりも多くの庭園モチーフの絨毯を製作したそうです。
菱形のコンパートメント内にあるチューリップは向かい合った一対のパルメットで構成されていますがかなり大きく、両側の2つはそれより僅かにに小さいだけです。
ただし、絨毯自体は小型ですから、かなり大胆な構図と言えます。
これは18世紀のデザインの特徴で、タナヴォリ氏はこの絨毯を19世紀初頭以降に製作されたものとしていますが、もっと古い可能性があります。
カラーリングとデザインの優雅さは、同じタイプのデザインの後世の例とは際立った違いを見せています。
インディゴ・ブルーの地色は美しくドラマチックなアブラシュで強調されており、まるで静かな水面に花が浮かんでいるような錯覚を与えます。
庭園のデザインとして見ると、斜格子を形成する波型の白線は、水が流れる水路を連想させるかもしれません。
これは、多くのアフシャル絨毯に見られるシンプルな縁取りの一種かもしれません。
ただし、この作品では、メイン・ボーダーに明らかに通常とは異なる特徴があります。
目を凝らすと、斜めに交差した線が花の頭が点在する区画に分割する、古典的なトルクメン絨毯のサブボーダーの特徴が現れています。
ただし、トルクメンのデザインには写実的なモチーフはありません。
一見「点線」のように見えるシンプルなサブボーダーが両側に並び、曲がりくねった蔓は微妙に異なる赤の色合いで織られています。
輪郭がないため、蔓は後退し、それが現れる地色とわずかに対照的になります。これは、古い中央アジアの絨毯のフォーマットです。
この約1メートル四方のアフシャル絨毯は「マスナド」と呼ばれ、並外れた職人技と素晴らしい芸術的美しさを備えており、特別な目的のために製作されたものと考えられています。
タナヴォリ氏は、ケルマンの権力者が謁見用の絨毯(来客用の座布団のようなもの)として使用したものではないかとしています。
同じサイズの絨毯は、高位のゲストや特別な行事のために使用されており、これは中央アジア全域で行われていた伝統でもあります。