ペルシャ絨毯の起源を探る その4

ペルシャ絨毯の起源を探る その4

ペルシャ絨毯の起源を探る その4

[第 話]

パジリク絨毯が中央アジアで製作されたとする説が有力になっているのは、赤色の染料として使用されているのが地中海沿岸からイランのザグロス山脈にかけて生息するケルメス種の貝殻虫ではなく、インドや東南アジアを原産とするラック種の貝殻虫であるからです。
自動車や飛行機などない当時の移動にはかなりの時間を要したはずで、できる限り近場で調達したいと考えるのは当然のことであったでしょう。
もしもパジリク絨毯が中央アジアで製作されたとするならば、中央アジアのどの辺りでどの民族が製作したのでしょうか?
以下は、あくまで私説であることを承知した上で読み進めてください。

さて、パジリク絨毯を製作した民族について、まず考えられるのはスキタイ人です。
スキタイ人は紀元前8世紀から前3世紀頃、コーカサスの北側、黒海北岸からカスピ海北岸のボルガ川までの草原地帯で活動した遊牧騎馬民族です。
巧みな騎馬技術と「スキタイ文化」と呼ばれる高い金属器文化を持っていたことで知られています。
スキタイ人はペルシャ人に同じくイラン系民族とされており、その文化はステップ・ロード(草原の道)を通じて東に広がり、中央アジアのパミール高原の東部と西部からモンゴル高原、中国北部にまで及んでいました。
ペルシャ人は彼らをサカ人と呼んでいましたが、スキタイ人の存在はギリシャの歴史書にも見られ、ヘロドトスは『歴史』の中でスキタイ人について詳しく記しています。

南ロシアから中央アジアにかけて、「クルガン」と呼ばれるスキタイ人の墳墓が多数見つかっているのですが、パジリク絨毯は、アルタイ山中にある、その中の一つから出土したものでした。
しかし、それだけを理由にスキタイ人がパジリク絨毯を製作したと考えるのは早計かもしれません。
パジリク絨毯にはトルコ系民族特有のトルコ結びが使用されているからです。
パジリクに近いバシャダルで発見された別の絨毯の断片にはペルシャ結びが使用されているので、当時からトルコ結びとペルシャ結びの両方があったことは疑いようがありません。
イランでもトルコ結びが使用されていることをもって、パジリク絨毯がイランで製作された可能性があると主張する人がいますが、それは大きな間違いです。
イランにトルコ結びが伝わったのはセルジュク朝期のことで、それもトルコに近い地域に限られていることから、イランでは昔からペルシャ結びが使用されていたと考えるのが自然でしょう。
もしもスキタイ人が絨毯を製作していたならば、地理的にペルシャ結びを使用している可能性があります。
あるいは、それとトルコ結びの両方を使用していたのかもしれません。

スキタイ人がトルコ結びを考案したということも考えられますが、他の民族がスキタイ人にトルコ結びを伝えたということもあり得ます。
パジリク絨毯はテントに敷く典型的なトライバルラグではなく、ある程度の管理がされて製作されたシティラグに近いものです。
つまり、遊牧民の一女性が製作したものではなく、組織的に製作されたものであるということです。
パジリク絨毯が製作された前260年から前250年当時、中央アジアに存在したトルコ系民族としては丁零(ていれい)と匈奴(きょうど)があります。
この2つの民族はモンゴル高原を中心に活動しており、パジリク絨毯が発見されたアルタイ山には近い距離に存在していたのです。

丁零は紀元前3世紀から前1世紀頃、匈奴の活動が盛んだった時期の外モンゴルにいた遊牧民です。

匈奴が衰退した後のモンゴル高原ではモンゴル系の鮮卑(せんぴ)が有勢となりましたたが、鮮卑が4世紀に華北に移動した後、丁零がモンゴル高原に入りました。
しかし、5世紀になるとモンゴル系の柔然(じゅうぜん)が力を増し、丁零の後身とされる高車(こうしゃ)などを従えて外モンゴルを支配しました。
柔然に代わって登場し、6世紀に大帝国を建設したのがトルコ系の突厥(とけつ)です。

匈奴は前3世紀末から後1世紀末にかけて、モンゴル高原を中心に活動した遊牧騎馬民族です。
秦代末の前209年、冒頓(ぼくとつ)が単于(ぜんう=君主)となり、北アジア最初の遊牧国家を建設しました。
東胡(とうこ)、大月氏(だいげっし)を征圧して全盛を成し、漢にも侵入しましたが、漢の武帝の遠征、単于をめぐる内紛により東西に分裂し、後48年さらに南北に分裂。
南匈奴は漢に服属し、北匈奴は91年、漢に滅ぼされました。
西方に移動した匈奴の子孫が、ゲルマン人の大移動を招いたフン人であるともいわれます。

もう一つの可能性はソグド人です。
ソグド人は現在のウズベキスタンであるソグディアナを中心に活動したイラン系の民族です。
ソグディアナは紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシア帝国のキュロス2世に征服され、その属州となりました。
このソグド人のテリトリーもパジリク古墳に近いのです。
ソグド人はペルシャ系ではあるもののソグディアナは丁零や匈奴のテリトリーに接しているので、もし絨毯織りの技術が丁零や匈奴から伝わったのであればトルコ結びを使用していた可能性は大いにあります。
ソグド人はまた古くからステップロードでの交易に従事しており、その多くはソグド商人といわれていました。
彼らがアケメネス朝やアッシリア王国のデザインを伝えたと考えても不自然ではありません。

いずれにせよ、パジリク絨毯に織り出されているトナカイあるいはヘラジカは北方に生息する種であり、このことからもイランで製作されたものとは考えにくいようです。
冒頭に述べたように以上は、あくまで私説ですが、残念ながら、これ以上は辿りようがありません。
未知の世界に想いを馳せるのは至福な一時でもあります。
ペルシャ絨毯の起源については永遠に未知であり続ける方がよいのかもしれません。

お問い合わせ・来店予約

お問合せ・来店予約は
お電話もしくはメールフォームにてお受けしています。
お気軽にご連絡ください。