王の象徴としてのペルシャ絨毯

王の象徴としてのペルシャ絨毯

王の象徴としてのペルシャ絨毯

[第 話]

中世、精巧で豪華なペルシャ絨毯は、西アジアの世界にあっては最高のもの、値段もつけられないほど高価で貴重なものでした。
それゆえ結局は王室専有のものとなりました。

東ローマ帝国のヘラクリウス帝はササン朝ペルシャの侵攻を迎え撃ち、やがて巻き返してペルシャ領内に進撃。
628年には首都クテシフォンに迫ります。
ダスダギルドの戦いでササン朝軍を破り、ペルシャ帝国最後の皇帝ホスロー2世の宮殿を占拠しました。
その数ある戦利品のうち、最も貴重なものとされたのが、宝石が散りばめられた巨大な絨毯でした。
この巨大な絨毯は後に「ホスローの春」として、広くその名を知られることになります。

ホスローの春は、ササン朝ペルシャ文化が最も爛熟した時期の王であったホスロー1世が愛用し、息子のホスロー2世が相続したものと伝えられます。
春の情景を華やかに織り出していて、王に暗い冬のことを忘れさせるために製作された、長さ40メートル(140メートルとする説もあり)、幅27メートルという巨大な絨毯です。
そこに織り出された花や果実はダイヤモンドやルビーで飾られ、それらは銀糸の歩道や金糸の地面の傍らを流れる真珠の小川のほとりに咲き誇っていました。
見はるかす牧地はエメラルドでした。

残念なことに、1200年以上も前のこの絨毯は現存していません。
しかし、その遥か後の時代、16〜17世紀に作られた「帝王の絨毯」の中で現存するものをいくつか見てみると、往年のホスローの春の絢爛たる仕上がりは容易に想像できるのです。
しかし、よく考えてみると、あまりに豪華極まりないものに仕立てあげるために、糸だけで仕上げるのではなく、これに金糸や銀糸や種々の宝石を織り込んだり、更に輝く絹糸を色鮮やかに使ったりして、純粋な織物としての絨毯という概念の範疇を逸脱しかかったものであったのです。

王とは絨毯の上に座る者でした。
絨毯がヨーロッパの家庭生活の中に持ち込まれたあとでも、絨毯の上に座る人はその家の主だけであったため、英語で"to be on the carpet"とか” to walk the carpet"とか"to have on the carpet"とかいう熟語が、「主人に呼びつけられて叱られる」という語義になったのです。

ペルシャ絨毯は王の権威と富の象徴でした。
預言者ムハンマドの跡を継いで、8世紀後半に強大なイスラム帝国を築いたアッバス朝最盛期のカリフ、ハールーン・アッラシッドは、首都バグダッドの宮殿を2200枚もの豪華な絨毯で飾り、為政者としての権威を誇示しました。
その中には長さが7メートル以上に及ぶものも少なからずあったといわれます。
しかも織り目は細かく、極めて精巧なものだったとされます。

王は豪華な絨毯の上にありました。
絨毯は王座の象徴であり、王の権威の象徴でもありました。
したがって、この高貴な絨毯の上で王以外の者といることは許されず、ましてや男と戯れたりすることは、当然、一刀両断の断罪に値したのです。

豪華なペルシャ絨毯は王専用のものでした。
なぜなら、その絨毯は地上に存在するもののうち最高のものであり、稀少価値のあるものであり、ゆえに高貴なものであったからです。
この高貴な絨毯は壁掛けとして堂々と飾られ、また王の浴衣台の上にも敷かれました。
最高ということは、当時の西アジアの王者にとって比較的容易に入手できる宝石などよりも数段と入手し難い稀少高貴な価値がありました。

例えば、メトロポリタン美術館が所蔵する16世紀にイランで作られたニザーミー著『詩篇』の写本には、絨毯の天蓋の下に王が座り、王が着座した壇の下にはメダリオン文様の絨毯が敷かれている挿絵が、美しい細密画の手法で描かれています。
高価で豪華な宝物である絨毯を床の上に敷き、その上に客人を座らせるということは、王が為せる最高のもてなしであり、客人を王と同一の品格と認めるという、最高の敬意の表れでもあったのです。

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