アーティストたちを魅了するペルシャ絨毯
[第 話]
モダンアートからファッション、音楽の世界に至るまで、ペルシャ絨毯はインテリアとしてのアイテムを超えて、現代社会の様々なシーンに浸透しています。
文学、書道、建築などは昔からイラン人たちの芸術的才能を世界に知らしめてきました。
これらはイラン文化の高度さを物語るものの例ですが、おそらくペルシャ絨毯ほど認知され、憧憬されるものは他にないでしょう。
優美なデザイン、華麗な色彩、比類なき職人技で高く評価されるペルシャ絨毯は、世界中の家屋や施設を彩るだけでなく、ファッションショーやコンサートステージ、そして数多くの絵画などにも登場しています。
ペルシャ絨毯は、その美しさに匹敵するほどの輝かしい歴史を持っています。
世界最古の絨毯はイランで発見されたものではありませんが、イランとの関係性は捨てきれません。
紀元前3世紀に製作されたパジリク絨毯は、1940年代に南シベリアでスキタイ人の墳墓から凍結した状態で見つかりました。
スキタイ人はイラン人やクルド人、ジョージアやロシアのアラン人などと同じイラン系民族です。
スキタイ人がイラン系であることはさておき、考古学者の中にはパジリク絨毯が当時イランの首都であったペルセポリスから南シベリアに運ばれたのではないかと推察する者もいます。
この絨毯に描かれたモチーフは、ペルセポリスやその周辺で見られるモチーフと驚くほど似ているからです。
いずれにせよ古代においてもペルシャ絨毯の存在が知られていたことは確かなようです。
ギリシャの作家であったクセノポンは著書『ヘレニカ』の中で、「ファルナバゾスは、たくさんの金に値するような服を着て現れた。すると彼の召使たちが進み出て、ペルシャ人(イラン人)が座るような柔らかい絨毯を彼のために敷いた」と記しています。
これらの絨毯はアレクサンダー大王がペルセポリスを焼き払った際、町とともに焼失してしまったと伝えられます。
しかし、絨毯織りの伝統はイランの芸術や建築の多くとともに生き残りました。
ペルシャ絨毯が得たのは、17世紀にサファヴィー朝のアッバース1世がもたらした「黄金時代」の到来まで待たなければなりませんでした。
アッバス1世による統治以前、ヨーロッパの国々は距離的に近いオスマントルコから絨毯を輸入していました。
しかし、アッバス1世がもたらした様々な改革の結果、絨毯産業はかつてない規模で発展しました。
ヨーロッパとの交易が活発になり、イギリス、フランス、オランダなどの国々は、シェイクスピアの「ゾフィー」(サファヴィー朝)の国から新たに手に入れた贅沢品を堪能しました。
アッバス1世の治世以降、ペルシャ絨毯は、フェルメール、テルボルフ、ルーベンスなど、オランダ黄金時代やフランドル・バロック時代の画家たちの作品にも描かれるようになります。
たとえば、フェルメールの『水差しを持つ女』(1662年頃作)では、「水差しは柔らかくて厚手のペルシャ絨毯の上に置かれている」とメトロポリタン美術館の学芸員は言います。
アッバース2世の治世中にイランを訪れた貴族で宝石商のジャン・シャルダンは、その旅行記の中で絨毯やその他の織物について長々と綴りました。
ヨーロッパ人はペルシャ絨毯に夢中になっていたのです。
サファヴィー朝の滅亡とともに暗黒の時代を迎えたペルシャ絨毯は、20世紀に再び大流行します。
1911年、有名なフランスのオートクチュールデザイナー、ポール・ポワレが、パリの自宅の庭で「千夜一夜」、別名「ペルシャの祝宴」を開催しました。
これは、ペルシャをテーマにした豪華な舞踏会です。
ペルシャ風の派手な衣装やエキゾチックな動物たちに加えて、もちろん、ペルシャの雰囲気を醸し出すために、上質のペルシャ絨毯が敷かれました。
それから半世紀後、若者文化が隆盛した60年代に、ペルシャ絨毯の魅力は新たな高みに達します。
「ペルシャのピクルス」とも呼ばれるペイズリー文様は、当時のヒットメーカーの間で大流行し、彼らはロンドンのキングスロードにあるグラニー・テイクス・ア・トリップやカーナビーストリートにあるクレプトマニアといったブティックで、ペイズリー柄のシャツやイラン製のカフタンなどを調達することがよくありました。
ロンドンのファッション・アンド・テキスタイル・ミュージアムで回顧展を開催したファッションデザイナーのアナ・スイは「60年代はペイズリーが流行っていた。子供の頃、ボブ・ディラン、ローリング・ストーンズ、ビートルズなど、ロックスターが皆ペイズリー柄を着ているのを見た」と語っています。
1960年代後半から1970年代前半にかけて、『GQ』や『Vogue』などの一流ファッション誌だけでなく、『Honey』などのマイナー雑誌までもがイランを訪れ、イスファハンやペルセポリスでモデル撮影を行いました。
ペルシャ絨毯が足元に敷かれていたのは言うまでもありません。
今日のランウェイでも、ペルシャ絨毯に関わるデザインはファッショニスタを魅了し続けています。
アナ・スイのほか、2013年のエルメスのタブリーズ・コレクション、ジバンシィのペルシャ絨毯をテーマにした2015年秋冬コレクション、アレキサンダー・マックイーンの2017年秋冬コレクションも頭から爪先までペルシャ絨毯のデザインで着飾られました。
また、アムステルダムで開催された2016年メルセデス・ベンツ・ファッション・ウィークでは、本物のペルシャ絨毯を使用した衣装でピープルズ・チョイス・アワードを受賞したオランダ人デザイナー、マルルー・ブリュールスも忘れてはなりません。
エトロや、リアム・ギャラガーがデザイナーを務めるプリティ・グリーンなどのブランドも、デザインにペイズリー柄を採用してきました。
アナ・スイは、「ペイズリーはとても美しい。好きか嫌いかという問題ではなく、誰もが好きなのだ」と、ペルシャ絨毯の最も有名な文様の一つでもある、このイランの伝統柄を称賛します。
ペルシャ絨毯は他の場所でも注目を集めました。
60 年代から 70 年代にかけては、クロスビー、スティルス、ナッシュ、ヤング・アンド・ザ・グレイトフル・デッドなどのアーティストがペルシャ絨毯を敷き詰めたステージで演奏し、最近ではエリック・クラプトンやトム・ペティ、レナード・コーエンらの著名人がペルシャ絨毯の上で歌っています。
西洋人だけでなく、イラン系移民の現代アーティストもペルシャ絨毯にインスピレーションを受け、作品にペルシャ絨毯に関連したテーマを採用しています。
例えば、ババク・カゼミの「Exit of Shirin」や「Farhads」シリーズは、ミクストメディア写真にペルシャ絨毯のイメージを美しく取り入れています。
一方、ドイツのアナヒタ・ラズミやアメリカのサラ・ラハバールなどの移民アーティストたちは、自分たちのアイデンティティを扱ったインスタレーション作品に本物のペルシャ絨毯を使用しています。
しかし、すべてが順調とはゆきませんでした。
イランに対する経済制裁に加え、イランの絨毯産業は中国製やインド製の安価な絨毯の脅威に晒されています。
イギー・ポップにとって中国絨毯は「成功」の象徴であったのかもしれません。
「さあ、俺の中国絨毯が来たぞ!」と、彼とデヴィッド・ボウイは1977年のアルバム『ラスト・フォー・ライフ』の収録曲「サクセス」で叫んでいます。
ベルリンにあるアナヒタ・アーツ・オブ・アジアのオーナーで、ペルシャ絨毯の専門家でもあるアナヒタ・サデギ氏は、中国製とインド製の絨毯は1979年のイラン革命以降、イランの絨毯産業にとって大きな脅威となっているとして、「多くの絨毯作家が祖国を離れ、インドや中国に移住したため、安価で低品質の絨毯が世界に広まった」と嘆きます。
かつてペルシャ絨毯は、富裕層しか購入することができない高価な贅沢品とみなされていました。
しかしコピー品の登場によって、この状況は一変したのです。
サデギ氏のコメントは愛好家たちを落胆させるものですが、その根強い人気に鑑みれば、ペルシャ絨毯がすぐに姿を消すことはないでしょう。
これまでの歴史が示すように、ペルシャ絨毯には今後さらに多くのストーリーが織り込まれることになるはずです。