昭和15年のパンフレットに記されたペルシャ絨毯

昭和15年のパンフレットに記されたペルシャ絨毯

昭和15年のパンフレットに記されたペルシャ絨毯

[第 話]

弊社ではペルシャ絨毯研究の資料として、戦前にわが国で出版されたペルシャ絨毯に関する記述がある書籍やパンフレット、カタログ等を収集しているのですが、1940年(昭和15年)に日本建築学会の前身である建築学会が出版した『窓掛と敷物』と題したパンフレットを入手しました。 パンフレットは手織絨毯と機械織絨毯について解説していますが、手織絨毯の項にはペルシャ絨毯やトルコ絨毯、インド絨毯についての記述があります。 すべてを紹介することはできませんが、とても貴重な資料ですので、主にペルシャ絨毯に関わる箇所について掲載したいと考えます。

「敷物」

高島屋呉服店
家具裝飾部主任 宮内順治

まへがき

建築に屬する床敷(Floor Covering)としては色々な種類があり、この小冊子の限られた紙數に一々記載する事は到底至難な事であるから、床敷として普通所謂敷物と稱する絨氈(Carpet or Rug)に就いて、これが由來、特質、種類、利用等に就き概略を記述し、これが擶擇及利用の參考ともなれば實に幸甚の至りである。

敷物の沿革と發達の經路

手織「カーペット」

絨氈が我々生活の必需品として、如何なる經路を辿つて發達したかをみるに、その創造の年代は、紀元前五十年の昔に遡ると或る文献に在るが、古代埃及の發掘品には麻または木綿の經糸を織り込んだ粗い織物が發見されてゐる。
古代に於ては枯草や毛皮を敷いて座席を作つて居つたが、不便を感じ色々と工夫されて敷物の發達の經路をとつたものと考へられる。

亞細亞大陸の西部、中部の廣大なる高原地帯に於て、その昔遊牧の人種が棲息して居た。
常に漂泊の旅をつづけ、天幕の生活を送つて居つた。
枯草、毛皮を敷物としてゐたが、廣い面積を蓋ふ大きさの敷物を工夫して、羊毛を以つて厚地の織物の經糸に絡み附けて製織する様になつたのが今日使用されてゐる手織「カーペット」の起源である。
遊牧の彼らは隣國の耕作生活をなす人種と、物々交換をなし、更に海外貿易生活の民族の手に依つて、始めて歐洲の文明国に運ばれ非常なる珍重を得たのである。
歐洲諸國に於て使用せられたのは、十字軍の起こつた後で、英吉利(イギリス)や佛蘭西(フランス)の貴族が其の當時貴重なる室内裝飾用美術品として賞翫(しょうがん)したのである。

他方支那に於ては西域地方より傳來した物の様である。
卽ち十三世紀の中頃、蒙古の成吉思汗(ジンギスカン)の一族の伊兒汗(イルハン)の遠征が將來したものの様に考へられる。
卽ち、波斯(ペルシャ)地方の製織法と、意匠に共通點がある、組織に於て「パイル」の絡み方が相似て居り、又支那獨特の龍とか雲の意匠を應用した「カーペット」が彼の地に於て發見せられた點等より推して、兩者の間に連絡のあつた事が明らかである。
康煕、乾隆の成時には、優良なる敷物を織り出して居り、殊に康煕帝の時には織工を西域地方より招き、斯業發展に沒頭し、ここに支那段通の大成を見るに至つた。

元來、毛織「カーペット」の製織地は波斯、土耳古(トルコ)、支那が最も有名であるが、弘く東洋の諸邦民族の間には其の技術が伝えられて居つたのである。
これ等東洋民族は、本能的に色彩に對し良い感覺と驚く可き根氣とを有し、又地理的に理想的なる牧場は適當なる絨毛を供給するに充分であつた。

隣邦支那に於ける主要なる生産地は、西北支那殊に北京、天津地方が最も有名である。
新疆(しんきょう)省に於ては優美、精緻な絨氈を産するが、土地僻遠の爲め製品を域外に搬出する事は極めてまれである。
陜西省、甘蕭省からも生産せられる。
奉天、上海、濟南も産地として知られてゐる。

西藏(チベット)に於ては精密な製織が傳えられて居るが、主として西藏民族の自用として生産されてゐるに過ぎない。

中央亞細亞の生産品は、地理的關係から露西亜(ロシア)を經て大概輸出せられ、印度の各地より生産せられる品物は英國に一部分輸出される。
亞弗利加(アフリカ)の「アルジェリア」に於ても土人が製織して居るが主として佛蘭西が輸出先になつてゐる。

これ等手織に屬する、土耳古、波斯、支那等の絨氈を總称して「オリエンタル ラッグ」と稱ばれる。

我が國に於ける、絨氈の沿革及発想達に就ては別項に記述する事にする。

各種の敷物に就ての概説及び價格

波斯段通

「ペルシャ」の「カーペット」は、手織「カーペット」の中、特に優秀なる製品にして、美術的價 値も充分に具備して居る、「パーシャン カーペット」と稱して居る。
顕著なる特色は、曲線美の豊麗なる唐草模樣を多分に使用されて居る點である。
織方も緻密にして、染料も植物性なる故美麗なる色彩を持つて居る、毛も柔かである。
従つて價格も高貴なる爲め實用に供するより、 室内装飾用として壁掛に用ひられ、貴重なる絨氈として取扱って居る。
特に十六世紀頃の製作になるものが、英吉利の「ビクトリア アルバート」博物館に陳列されて居る、 この製品は花形で埋められて居るものや、狩猟の圖案に人間や鳥類をあしらったものや、又庭園の圖案に、水、魚等を表はして居るものや、何れも圖柄が細密で特に有名なるものである。

「ペルシャ段通の色彩の美麗なる點はクリムソンレーキと濃いグリーンを自由に使つて居る點である、手織「カーペット」の中一番尊ばれて居る「ペルシャ」段通も歴史的に有名であるが近頃の製品は往々染色に化學染料を使用し、粗製品を製織して居る。實に嘆かはしい次第である。

「ペルシャ」のもので有名な(Kirman) ものは、其の性質が最もよろしい、地色は黄味系であるがこの外白い模様の (Senna rug) や (Saraband) (Ferehan) (Herat) (Hammedan) (Shiray) (Ghorevan) (Meshed) (Muskabad) (Khorasan) がある。

GorevanとあるのはGorgan、ShirayはShirazの誤りであると思われますが、内容はかなり正確です。
とりわけ1940年には既に化学染料が使用されていたという記述は、イランの絨毯産業における化学染料の使用が1930年代に広まったことを裏付ける証拠ともなります。
一つ気になったのは産地の紹介に、当時ケルマンと肩を並べる高級ペルシャ絨毯の産地として有名であったカシャーンの名がないことです。
この時代、カシャーン絨毯はヨーロッパにもかなりの数が輸出されていました。
ただ単に書き忘れただけだったのでしょうか……。
それはともかく、当時の日本ではペルシャ絨毯がタペストリーとして用いられていたというのも興味深いことです。
戦前期のわが国においてペルシャ絨毯は小さなサイズでも、いま以上に高価なものだったのでしょう。

建築学会パンフレット
『窓掛と敷物』

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