『コーラン』が説く楽園とペルシャ絨毯

『コーラン』が説く楽園とペルシャ絨毯

『コーラン』が説く楽園とペルシャ絨毯

[第 話]

中世期、西アジアにある砂漠の民が信じた楽園は、水豊かな緑と花の園でした。
それは砂漠の民としては至極当然のものだったでしょう。
灼熱乾燥の中に羊の群れを追いながら、ペルシャの人たちもアラブの人たちも、常に緑陰と水と花の園に激しく恋焦がれたのです。
その白日夢の中に現れる天国は、現実には何週間かの移動のあとに辿り着くオアシスでした。
水豊かな緑と花のオアシスが、彼らにとっての地上の楽園でした。
だからこそ彼らが夢見る天上の楽園は、緑陰と水と花の庭園だったのです。

こうした訳もあって、古来ペルシャの人たちは庭園に憧れました。
しかし、砂漠の国にあっては、それは余程の金持ちでなければ成就することのできない贅沢です。
富裕な貴族たちは大金を投じ、長い年月をかけて大きな庭園を作りました。
木々の緑豊かに風爽やかに吹き抜ける庭園には、東屋と満々と水をたたえた池を配し、池の中には鉛管を引いて空中に水をリズミカルに撒き散らす500本もの噴水を設けたりもしました。
ガーデン・ファニチャーなどというものはなかったがゆえ、その代わりとして絨毯を池畔に敷いて、暫しの憩いの場としたのです。
庭園の所有者は、そこで寛いだり友人をもてなしたりバックギャモンに興じたりして、幾時間もを費やします。
彼らの生活の中で、庭園は重要な役割を担っていました。
だからこそ庭園は、緑と水と花の庭園として描かれたのです。
砂漠の預言者ムハンマドが天上の楽園を説いたとき、緑のオアシスの安らぎと豊かさが、その心の中に先験的に潜在していたことは十分に推察できることです。

ペルシャ絨毯のメダリオンは、もとは庭園の池を描いたものであるとする説があります。
紀元前7世紀初めにムハンマドが現れて熱心に天国への道を説いて以来、彼の教えを信奉する西アジアの人々は、砂漠の民の一人であるムハンマドが説く『コーラン』の示すとおりに絨毯の上に天国としての「緑したたる庭園」をデザインの定型として描き出すようになったというのです。
『コーラン』には全篇を通じて「天国」とか「楽園」とかいう言葉が数多く登場します。
信仰に入り率先して善行を積む者たちは、神から罪の赦しを得て、永遠に至福の楽園に住むことができるとムハンマドは繰り返し説きます。
そして『コーラン』の中では、この天国や楽園は「アドンの楽園」ともいい表されています。
アドンの楽園は『旧約聖書』の「創世記」の中で、アダムとイブが暮らした「エデンの園」と同じものです。

至福とか楽園とかいう表現は『コーラン』の中に数多く見られますが、それらにも増して強く反復して説かれているのが「潺々(せんせん)と河水の流れる楽園」という表現です。
「こんこんと湧く泉の間」に楽園があると説いた箇所もあります。
潺々と流れるという潺々とは、澄んだ水がサラサラと流れている状態を示す形容詞です。
その水は「流れて止むことを知らない」清浄な泉水です。
「その水は腐ることを知らない」美しい小川なのです。

強い日射しと酷しい暑熱と激しい乾燥の砂漠を行き交う西アジアの人々にとって、水は救いでしたが、溜まって澱んだ水は苦手でした。
こんこんと噴出する泉水が小さな流れとなって緑陰の下に絶えることなくサラサラと流れ続けていることは、もうそれだけで楽園なのでした。
そんなオアシスに何の不安もなく常住できることは、滅多にない幸福です。
だから、マホメッドの説く「サラサラと流れつづける泉水」は、それだけで至福の楽園の第一条件として強烈な説得力を持つことになったのです。

澄んだ泉水がサラサラと流れるところには、自ずから緑の草や木が生い茂ります。
『コーラン』が説く楽園は、また「見はるかす緑の園」とか「緑したたる楽園」などとも言い換えられています。
そこは「水が湧き種々な木々が生い茂る」オアシスにそっくりです。
木々はゆったりと身体を休めることのできる濃い緑陰を与えるものであると同時に、香り高く美しい果樹の数々である方が遥かに望ましいことでしょう。

事実、このオアシスに似た『コーラン』の楽園には、「しゅろやブドウや椰子や橄欖(かんらん)やザクロ」など「あらゆる種類の木々に枝もたわわに果物がみのり」、しかもその果物は何でも食べ放題、「欲しいと思うものは何でもみんな食べられて勘定いらず」という好条件です。
砂漠の民の心の底にある強い憧れに力強く訴えた見事な説得です。

更に『コーラン』は、信者の肉体上の快楽までをも加えて、来世への憧れを激しくそそりあげます。
敬虔な信者が楽園に入ることを許されると、彼らは「涼しい木蔭にしつらえた豪華な、錦を張りつめた臥牀(ふしど)にゆったりと身を托し」たり「ふんわりとした緑の褥(しとね)や絢爛と美しい敷物の上にゆったりと身を凭(もた)せることができる」のです。
緑蔭で伸びやかに身体を伸ばすことも、狭苦しいテントの中で暮らす砂漠の民の強い憧れなのでした。

その上、身にまとう衣服は「緑の紗綾(さや)」や「金襴の衣」であり、黄金や白銀の腕輪をし、大粒の真珠で装います。
こんな至福の中で、人々は、「ああ、ありがたい、ありがたい、アッラーの神が一切の悲しみを取り除いて下さった!」と感激します。

この至上の幸福へ、緑蔭の豪華な臥牀にゆったりと身を横たえて、黄金や白銀の盆や盃に盛られた美酒や甘い飲物や鳥の肉などの食物を何でも望み次第に飲食することだけにとどまらず、更に「側に侍るは、目差し抑えてしとやかな乙女ら」であって、その「年齢も丁度頃合いで」あり「目涼しくつぶらな瞳の処女を妻として与えられる」という快楽までも約束されているのです。
「紅玉にサンゴをあざむく」美女たちが「ふくよかな胸」を豊かに張って、愛情こまやかに傍にかしずき侍れば、なるほど、この緑な園は天上の最高楽園となるのは当然でしょう。

イスラム文化圏内にある人々にとって、小川流れ花咲き果実豊かに実る緑の庭園は、彼らの理想郷となりました。
だからペルシャ絨毯の上に「緑したたる庭園」が天国の楽園として織り出されるようになったのは当然のことなのです。
(引用の『コーラン』の訳文はすべて岩波文庫版によった)

ところで、ペルシャ絨毯のメダリオンとは、円形や楕円形などを為す文様のことです。
メダリオンは複雑な唐草文様で囲まれます。
そこに見受けられる文様としては、人間や動物の姿はあまりなく、ほとんどがビザンチン文化のモチーフを受け継いだパルメットやイスリムなど抽象したものばかりであり、それらの抽象的文様は隙間なく配置されているのです。
ここで私たちは再び『コーラン』の影響を知ります。
なぜなら『コーラン』では偶像崇拝は厳しく禁じられていたことから、宗教上の装飾に限らず、イスラム文化の中の日常生活品の末端に至るまで、物の上に加えられる文様には人間や動物の姿はあまり描かれませんでした。
デザインは草木や文字の抽象図形が主流になっていたのです。

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