ビクトリア国立美術館にあるペルシャ絨毯の謎

ビクトリア国立美術館にあるペルシャ絨毯の謎

ビクトリア国立美術館にあるペルシャ絨毯の謎

[第 話]

あらゆる種類の美術工芸品に関して、贋作の問題は常につきまといます。
歴史上、極めて精巧に作られた贋作に騙された人は大勢いますが、とりわけ有名なのが「フェルメール事件」です。

ヨハネス・フェルメールは17世紀オランダの画家であり、バロック時代を代表する有名画家の一人であることは、いまさら述べるまでもないでしょう。
フェルメールは静物画や室内画を得意とし、光と影の効果や微妙な色彩使いで知られていますが、
1930年代にフェルメールの贋作「エオマの食事」を描いた画家がいました。
フェルメールと同じオランダで生まれの売れない画家であった、ハン・ファン・メーヘレンです。
メーヘレンについてはブログ【希代のペルシャ絨毯贋作家】にて紹介していますので、ここでは取りあげませんが、本題に入る前に日本で起きた贋作事件について少し触れておこうと思います。

フェルナン・ルグロというエジプト人美術商がいました。
彼はパリを拠点にハンガー出身の画家、エルミア・デ・ホーリーと組み、近代絵画の贋作を売り捌いたことが後に判明するのですが、かねてから彼の取り扱う絵画には贋作が含まれていると噂されていました。
そんなルグロが1964年に来日し、国立西洋美術館を訪れます。

美術館は彼からドランの油彩『ロンドン橋』を2238万円、デュフィのグァッシュ『アンジュ湾』を280万円、モディリアーニのデッサン『女の顔』を129万円で購入します。
たまたま同じ時期に訪日中だったフランス文化大臣アンドレ・マルローがこれらを絶賛し、またドランの未亡人がお墨付きを与えたことから、これらは真作として同美術館に展示されました。
ところが贋作疑惑が沸き起こり、国会で追及される事態にまで発展します。

美術館側は鑑定書が付いていることを根拠に真作に間違いないと主張しますが、ルグロが国際指名手配されたことから、美術館及び文化庁は、これらの作品が真作であることは疑わしいとし、今後一切展示しないことを公表するに至りました。
このように、古美術品は真偽の判定が難しいことがわかるでしょう。

同じことはペルシャ絨毯についても言えます。
多くの人が、アンティーク絨毯の贋作師セオドア・チュードゥックを知っています。
しかし、ペルシャ絨毯の世界にはもっと謎があり、トリニタリアス絨毯は世界の絨毯研究者やコレクターの間で最も大きな謎の一つになっています。

トリニタリアス絨毯は、オーストラリアのメルボルンにあるビクトリア国立美術館に所蔵されています。
この絨毯は、ウールのパイル、木綿の縦横糸でできており、絨毯には主に紫がかった赤いフィールドにはパルメット、ロゼット、雲のリボンが水平に並んでいます。
中央のメダリオンはパルメット模様で埋め尽くされたダークブルーの地に、幅広の縁取りのある 8 角の星型の形状をしており、雲のリボンで囲まれた2つのペンダントを伴っています。

メイン・ボーダーは小さな花のパルメットと雲のリボンで飾られた白い地模様で、赤地の大きな長方形のカルトゥーシュと、それより小さな八角の黄土色のメダリオンが交互に配置され、これらのモチーフは、さらに小さな 8 角の水色地の星で結ばれています 。
同じ花のモチーフでも結び目の数が異なるのは、1900年頃までは方眼紙の意匠図がなく、紙に描かれた「絵」をもとに製作されていたからです。

トリニタリアス絨毯は、縦10.44 xメートル、横3.36 メートルの大きなサイズのものです。
この絨毯はペルシャ結びを用いて製作されており、1平米あたりのノット数は18~20万個で、外見から判断すると17世紀のサファヴィー朝期に大規模な絨毯工房で生産されたもののようです。
それでは、何が問題なのでしょうか?

伝承によると、この絨毯は、スペインのフィリペ4 世がトリニタリアス・デル・カルサスの修道女たちに贈ったものとされています。
修道女たちは寒いときでも履物を履いていませんでした。
「裸足の修道女」と呼ばれた彼女らにとって、ペルシャ絨毯は分不相応に高価であり、また、ありがたい贈り物だったことでしょう。
トリニタリアス絨毯は以後400年間にわたり、修道女たちの足の冷えを防いできたといいます。
1938年にセビリアの万国博覧会で展示され、その後ロンドンにあるスペイン人が経営するギャラリーに売却されました。
第二次世界大戦中は略奪や焼失を防ぐためカナダに送られましたが、これはヨーロッパにあった多くの古美術品が辿った運命です。
戦後はグラスゴーの著名な絨毯商の手に渡り、彼はこのデザインを機械で製作するシェニール織の絨毯に使用しました。
1959年、彼はこの絨毯をビクトリア国立美術館に売却します。
そして、ここから謎が始まるのです。

トリニタリアス絨毯に使用されている染料はイスタンブールのマルマラ大学染料分析研究所で行われた調査の結果、17世紀に使用された天然染料と同じであることが判明しました。
また2010年に実施された炭素年代測定でも、製作年代がこの時代のものであることが確認されています。
これまでのところ、この絨毯は17世紀中頃の作品と考えてよさそうです。
しかし研究者たちの中には、トリニタリアス絨毯は19世紀から20世紀になってから製作された偽物の可能性があるとする者たちがいます。
現存するサファヴィー朝期のペルシャ絨毯のほとんどがパイルが擦り切れているにもかかわらず、トリニタリアス絨毯は不自然なほど良好な状態を保っているからです。

謎は更に深まります。
メルボルンの絨毯研究家、スーザン・スコレー氏が行った状況分析によれば、修道院の記録に初めて記載されたのは1699年ですが、フェリペ4世が王位にあったのは1621年から1665年まででした。
なぜこれほど重要な贈り物が贈られたときに記録されなかったのでしょうか?

この絨毯が1926年に初めて売りに出されたとき、購入者は修道院の記録を調べ、絨毯が1699年2月5日にドン・ファン・デ・グスマンという人物によって修道院に贈られたことを発見したといいます。
この贈り物は、最近修道院に入ったホセファ・デ・ラ・エンカルナシオン修道女に敬意を表したものだったそうです。
この記録によるとフェリペ4世が修道女たちに贈ったという話は事実でないことになりますが、記録は 1936年から1939年にかけてのスペイン内戦中に紛失したとされており、真実については確かめようがありません。

2012年、アメリカのイスラム美術学者であるウォルター・ベル・デニー氏は修道女とフィリップ王子に関する物語は興味深いものの、あくまで伝承であると主張しました。
また彼は原産国をイランではなくインドのデカン地方であるとしています。

デニー氏が最初に行ったことは、ジュフティ結びの有無を調べることでした。
ジュフティ結びが見つかれば、インドで生産された可能性はなくなります。
ジュフティ結びは2本ではなく4本の縦糸にパイルを絡めるもので、当時のインド絨毯には見られない技法でした(現在はジュフティ結びは当たり前になっています)。
ジュフティ結びが見つからなかったため、原産国は明らかになりませんでした。

次に、デニー氏は光学ルーペを使用して絨毯を隅々まで調べ、ズームレンズを使用してデジタル写真を撮影しました。
一般的に、ペルシャ絨毯の縦糸は、通常、撚りと呼ばれるケーブルのように撚り合わされた4本以下の撚糸で構成されています。
例外はいくつかありますが、一般的に縦糸に4本以上の糸があるカーペットはインド産です。
トリニタリアス絨毯では、縦糸に8本撚りの糸が使用されています。

インド起源のもう一つの論拠は、色の調査から得られます。
デザインには「トン・シュール・トン」と呼ばれるものがあります。
トン・シュール・トンとはフランス語で、同じ色濃淡が異なる同じ色を組み合わせる方法で、これもインドの絨毯では一般的ですが、ペルシャ絨毯ではそうではありません。
インドの染色家は、さまざまな色合いの色合いを作り出すことにはるかに熟練していました。
トリニタリアス絨毯は、インド絨毯のトン・シュール・トンの色彩を示しています。
たとえば、トリニタリアス絨毯は、濃いピンクの背景に淡いピンクの雲の帯があります。
こうした色使いはペルシャ絨毯では、ほとんど見られません。

17世紀から18世紀にかけてオランダ東インド会社がポルトガルとスペインに大量のインド絨毯を送ったといわれますが、これは状況に基づいた考察です。
トリニタリアス絨毯は17世紀のイラン製か、それともインドで後から複製したものか……。
残念ながら、これらの疑問は謎のままであり、研究者やコレクターたちの間ではデリケートな問題です。
どちらの側にも支持の証拠があることは間違いありません。

確かなことが一つあります。
由来がどうであれ、その良好な状態、複雑で流暢なデザイン、そして強力な視覚的インパクはトリニタリアス絨毯が並外れたものであることを示しています。
永久に謎が解明されることはないかもしれません。
しかし、トリニタリアス絨毯はオーストラリアが所有する貴重な文化遺産であり、世界の超一級絨毯の一枚であるのです。

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