ササン朝期のペルシャ絨毯

ササン朝期のペルシャ絨毯

ササン朝期のペルシャ絨毯

[第 話]

ササン朝(224~651 年)はパルティア帝国を滅ぼし、ビザンチン帝国と並んで400年以上にわたり強大な国家として繁栄しました。
地理的にはかつてのアケメネス朝の国境付近に位置し、首都をクテシフォンに置いてゾロアスター教を国教としていました。

この時代のペルシャのパイル絨毯については謎に包まれています。
しかし、絨毯織りと敷物のデザインに関する情報は、ビザンチン、アナトリア、ペルシャに跨る地域一帯で得られました。
ビザンチン帝国とペルシャの間に位置するアナトリアは、紀元前 133 年以来ローマの支配下にあり、東ローマ帝国とペルシャ帝国を結ぶ地理的、政治的な架け橋となっていました。
これにより、芸術スタイルや装飾モチーフの交換が促進され、ローマ帝国のアンティオキアのモザイクや建築にそれが表れています。
中でもヤン・ファン・エイクの絵画「パエレの聖母」に描かれたトルコ絨毯の文様は、ローマ時代後期に起源を辿り、ウマイヤ朝のキルバト・アル・マフジャール宮殿のイスラム初期の床モザイクとの類似点が認められます。

ササン朝期には、平織と刺繍がペルシャの工芸品として知られていました。
ササン朝期の精緻な絹織物は、ヨーロッパの教会に保存され、聖遺物の覆いとして使用されただけでなく、チベットの寺院でも見つかっています。
注目すべきことに歴史家アル・タバリーは、637年にアラブの兵士たちによって戦利品とされた「ホスローの春」と呼ばれる絨毯について、その複雑な細工からパイル織りではなかった可能性があることを示唆しています。

中国の楼蘭(ローラン)で出土した絨毯の断片は、2世紀から3世紀に遡ります。
調査により、それらに使用されているウールは、当時ササン朝ペルシャの一部であったコーカサス地方で産出したものであることが判明しました。
また、1967年にササン朝期のペルシャ絨毯の断片がイラン北東部のダムガン近くのコムスで出土しています。

2011年にロンドンのクリスティーズは、炭素年代測定により5世紀のものと特定された絨毯の破片を6万1250ポンド(当時のレートで約784万円)で販売しました。
ササン朝期のものと推定されるこの絨毯は、パジリク絨毯、楼蘭絨毯に次いで古いものと言えます。
興味深いことに、この断片の上下にはアケメネス朝時代のよく知られたモチーフが配置されています。
このニュースがなぜ広く報道されなかったのかは不明ですが、さらなる疑問を引き起こすことになりました。

研究者によれば、ササン朝期のペルシャ絨毯は、古代ペルシャの芸術や文化が反映されたものであり、絹や羊毛などの素材が使用され、繊細な柄や幾何学的な文様が織り込まれていたものと推測されています。

宮殿や寺院などの高貴な場所で使用され、その豪華さや美しさは当時の社会的地位や富を象徴する重要な要素とされていたと考えられています。
また、宗教的な要素や神話、歴史的な出来事などを表現したデザインが多く見られ、絨毯自体が物語を語る芸術作品として評価されていたのでしょう。

これが解明されることは永久にないかもしれません。
しかし、ササン朝期のペルシャ絨毯が、後のイスラム文化やペルシャ文化の発展に影響を与えたことは十分に考えられます。

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