大自然の形容詞となったペルシャ絨毯
[第 話]
美しく高貴なるペルシャ絨毯は、『七王妃物語』をはじめとするペルシャ文学の中で、やがて、美の概念の代名詞となり、さらには美女を表現するための形容詞としても使われるようになりました。
彼は愛をこめて魅力的な美女を引きよせ、
心臓のように宗之な抱きしめた。
糸杉のような彼女は、いとも艶やかで
サーマーン朝のじゅうたんに置かれたジャスミンであった。
(『七王妃物語』第31章)
ペルシャ絨毯は、美女を表現する形容詞としてだけでなく、大自然の形容詞としても使われました。
美しく大きな絨毯の広がりは、見る者の目を洗う見事さであったことでしょう。
近世ペルシャ文学で、絨毯が大自然の壮大な美の形容詞としてしばしば使われるようになったのも当然のことです。
美わしの園……
その樹々の陰に 風は
色とりどりのじゅうたんを繰り広げている。
(サァディ作『薔薇園』序)
葉も草も ともに満足して、葉は鋏、
草はじゅうたんに譬(たとえ)られよう。
(『七王妃物語』第32章)
ペルシャ絨毯を敷き詰めたような平滑で柔らかで色とりどりの大地や草原や花野は、西欧の風土の中の一つの特質です。
この花野のことを英語では carpet of flowers といいます。
ここで carpet とは草原を意味しています。
逆のことも言えるかもしれません。
ペルシャ絨毯という生活文化財が生まれたのは、この牧草の野原の広がりが、草原や広野の中の砂漠の民にとっては当たり前の生活感覚だったからであり、この牧野の広がりの観念が絨毯という「広いもの」を創り出す発想に繋がったとも考えられます。
海に囲まれた土地に住む大和民族にとって、緑の野というのは稲田でした。
青い稲が風にそよぐ広がりの姿見を大和民族は大海原の波の動きになぞらえました。
この国に絨毯は生まれませんでした。
大和民族は、この土地で栽培される稲やい草の植物繊維から「うすべり」や「むしろ」や「ござ」や「たたみおもて」を作りました。
そして、これらはせいぜい3尺×6尺という小さなものでした。
澄み渡った広い大空を見上げ、果てしない広野を見はるかす砂漠の民が作り出す巨大な絨毯の広がりの感覚というものは日本にはなかったのです。
柔らかい緑の牧草を見慣れた地中海沿岸の国々の人が、西アジアの絨毯に親近感を持ち、その緑の大地ともいえる絨毯を自分たちの住まいの中に採り入れるんうになったというのは自然のことと考えます。
それは、東洋の人々には異質の感覚でした。
16世紀頃からヨーロッパで、木造の床に絨毯を敷き詰めるようになったのは、こうした風土的な感覚が予め備わっていたからでしょう。
さらに、果てしない大空の広がりを常に見上げている砂漠の民の日常に根差した感覚は、この大空の広がりを絨毯という言葉に託して表現するようにもなりました。
王は60段の望楼に登り、
無比の高さの弓形の部屋を見た、
それはハヴァルナクの宮殿よりもはるか高く、
青空にじゅうたんを敷いたようだった。
(『七王妃物語』第19章)
日が白い衣をまとい、
染物屋の夜が瓶を壊した時、
目をあざむくすべての色彩は消え、
装飾のじゅうたんもなくなっていた。
(同、第25章)
太陽が昇って濃紫紺の夜空を押しのけたとき、夜空に散りばめられた星の数々も消えた……という、その星空のことを「装飾のじゅうたん」という言葉で形容したのでしょう。
美しく力強い響きです。
ニザーミーの『七王妃物語』に続く、近世ペルシャ文学の最高傑作といわれるサァディ著『薔薇園』(1258年刊)では、比喩的表現を多分に用いて道徳的な逸話が紹介されており、絨毯は形而上的な概念として使われています。
(訳文は平凡社「東洋文庫」蒲生礼一氏訳による)
……彼は冗談を口にして私を激励し、
戯れのじゅうたんを繰り広げた……。
(『薔薇園』序)
彼との別離の後、生き永らえる限り、
欲望のじゅうたんを折り畳み、
友との交わりを断とうと決心した。
(同、第5章、第17章)
すべてを包み込む無限の広がり……それがこの絨毯という言葉で表現されているのです。