イランのトルクメンが製作するトライバルラグ
長年にわたり、いくつもの部族がイランに入り、様々な地域に定住しましたが、トルクメンはイランに入った後、ホラサン州とゴレスタン州の北部に定住した最後の部族です。
『イランのトルクメン人』という書籍には、「トルクメン人はイランで最も特徴的な部族であり、ここ数世紀に中央アジアからイランに来た最後の部族である」と記されています。
トルクメンはもともと主に7つの部族から成り、ヨムート族、テッケ族、ギョクレン族の3部族がカラクム砂漠に住んでおり、残りはトルクメニスタン本土に点在しています。
トルクメン絨毯は、イラン国内に住むトルクメンの最も重要な製品の一面つであり、そのデザインの多様性により、イランにも欧米にも多くのファンがいます。
実用品として使用されてきたため、ほとんどのトライバルラグは時間の経過とともに破損してしまいます。
そのため博物館や書籍にはトルクメン絨毯の歴史に関する遺物や記述があまりありません。
しかし、カジャール朝期のいくつかの旅行記には、トルクメン絨毯に言及したものが見られます。
カジャール朝(1796〜1925年)の時代、人々は欧米へのペルシャ絨毯の輸出が盛んであったことを目の当たりにしているからです。
1801年にペルシャ絨毯の生産と輸出入に関する秘密文書がサルジャン・マルカムによって東インド会社管理委員会長に提出され、この文書ではヤズド、カシャーン、タバス及びホラサン州の町が絨毯織りの拠点して紹介されました。
これらの絨毯が都市の工房で織られたのか、村民や遊牧民によって織られたのかについてはよく分かっていませんが、別の文書では、絨毯が1826年にホラサンのトルクメンによって織られていたことが明らかにされています。
この記述の中で、イランの絨毯産業に関する貴重な情報が見つかりました。
この文書には、絨毯織りがケルマン、ヤズド、ボルジェルド、イスファハン、アゼルバイジャン、ヘラートなどで大規模に行われていたことが示されています。
J・クリスティ・ウィルソンは『イランの産業の歴史』の中で、カジャール朝期におけるホラサンのトライバルラグの特徴について記しています。
それによれば、ホラサンの部族はトルクメン絨毯またはブハラ絨毯として知られる絨毯を製作しており、それらの背景は濃い赤で、そのデザインは連続文様で構成されており、象の足と呼ばれているとあります。
またトルクメン絨毯の中にはフィールドが4つの部分に分かれているものがあり、これはチャハル・ファスル(四季)と呼ばれているとされています。
バルーチ絨毯も遊牧民によって織られおり、地色はトルクメン絨毯と同じ濃い赤ながら、それよりも緩くて柔らかく、これらの絨毯には様々なデザインがあると記されています。
これらの絨毯には濃い赤、明るい色が使用されているものの特筆されるようなものではなく、価格は安かったようです。
ウィルソンによれば、トルクメンが製作するチャハル・ファスルの絨毯は市場では「アンシ、エンクシ、エンシ、またはイェンシ」として知られており、さらにカジャール時代のホラサン絨毯の最も重要な市場はマシュハドであったと言うべきであるとしています。
モハマド・ホセイン・カーン・サーニ・アル=ダウラは「マシャドからはベルベットや絹織物が他の町に出荷され..…ヘラートからは絨毯、鉛、サフラン、ピスタチオが出荷される……それらはマシャドに送られる」と記しています。
これを確かめるべくイランに旅行したカーゾン卿の著書には「1889年にタイムズ紙の記者はマシャドのバザールについての説明の中で、『かつてマシャドのバザールはトルクメン絨毯、東洋の宝石、古い武器で非常に有名であった。しかし現在ではその評判は失われ、市場の在庫はすべてロシアとヨーロッパに運ばれ、バザールでは古いモンゴルのコインやパルティアのコインの破片のみが見つかる』と記している」と遺しています。
1906~1907年に駐イラン・フランス大使を務めたウジェーヌ・オーバンは、旅行記の中で、トルキスタン、ヘラート、バルチスタンの絨毯がマシャドの商人によって中央アジアを通って輸出されていると述べています。
マシュハドに加えて、ボイノルドもカジャール朝期にトルクメン絨毯が取引されていた地域の一つであると C・M・カーネルは記します。
マクレガーはホラサンへの旅行記の中で、「ボイノールドの産業は、北ホラサンのほとんどの地域で生産されている銅の皿と美しい絹織物だけである。縞模様のテキスタイルもあれば、とても美しいチェック柄のショールもある。靴下や手袋もウールやシルクで織られており、色も鮮やかである。絨毯は織られていないが、トルクメン人からいつでも購入することができる」と記述しています。
これはカジャール朝期には都市部に加えて、地方の中心地や遊牧民の集落でも絨毯製作が行われており、これらの絨毯を購入する者が存在していたことを示唆しています。
現在、イランに住む部族の中で最も多くの絨毯生産が行われているのは、北ホラサン州とゴレスタン州の一部に住むテッケ族とヨムート族です。
トルクメンが絨毯に使用するデザインや色は基本的に同じですが、ジャルガランに住むテッケ族の絨毯の品質は、他の部族、とりわけヨムート族のそれよりも遥かにに高いと言えます。
テッケ族の最高の織手はドイドフ村に住む女性たちで、高品質なシルク絨毯に加え、ダブル・フェイス(両面織)の絨毯を製作することができる創造性に長けた人たちです。
ダブル・フェイスはコレクター・アイテムとして人気が高いため、都市部の絨毯作家さえも、このタイプの絨毯を製作することがあります。
トルクメンの花文様は、イランのトルクメン絨毯、特にテッケ族の重要な装飾の一つです。
トルクメンの織り手は、絨毯の文面で織る花を「ゴル」または「ギュル」という用語を使用します。
アリー・ハスリは、トルクメン絨毯には20種類以上のギュルがあり、ギュルはペルシャ絨毯のメダリオンと同じで、トルクメンの遊牧民やペルシャ語を話す定住民の間では「池」として知られている模様であると述べています。
メダリオンは、ティムール朝期までのイランの貴重な絨毯や宮廷絨毯、そして紀元前 8 世紀と 9 世紀、西暦14世紀と15世紀の細密画で一般的でした。
そして16世紀の初めに北ホラサンのトルクメン絨毯のギュルの一般的な形状は八角形です。
八角形の内部は十字で4等分され、十字の形に作られたこれらの部分は2つの異なる色(クリーム色と濃い赤)で区切られています。
これらの八角形の内部は、十文字、小さな正方形、鶏の脚などで装飾されています。
北ホラサンのトルクメン絨毯のギュルのほとんどで、鶏の足のモチーフが中央部分にのみ織り込まれており、中心にはこのモチーフはありません。
このパターンは、その直線的なデザインとともに、シスタニ絨毯のフィルピ・ゴル(トルクメン、フィルパイ)というタイトルで『トルクメンと近隣部族の絨毯』という書籍に紹介されています。
この書籍には、北ホラサンのトルクメン絨毯の蛇と花のデザインに似たフィルピゴルのデザインの例が 2 つあります。
アリー・ハスリは書籍の別の箇所で、このパターンをマリーまたはマリー・ギャルとして紹介し、テッケ・ギュル、サロール・ギュル、エルサリ・ギュル、ブハラ・ギュルという名前で彼らのデザインを記録しています。