トライバルラグの知識

トライバルラグとは

トライバルラグとは

トライバルラグとは、部族(少数民族)が製作する手織絨毯のことです。
トライバルは「部族の」という意味で、トライバルラグを直訳すれば「部族の絨毯」になります。
主に中央アジアから北アフリカに至る地域に居住する部族により製作されていますが、部族という概念には遊牧民だけでなく半遊牧民や定住民も含まれます。

トライバルラグは各部族特有の文化や伝統が、個性的な文様や色として織り出されているのが特徴です。
部族ごとに異なる文様や色があるため、多くの場合、その絨毯を見ればどの部族が製作したものかを判別することができます。
文様の中には稚拙な印象を抱かせるものや、それが何を意味するのか分からないものさえありますが、それこそがトライバルラグの持ち味といえます。
手紡ぎのウールを使用していたり、天然染料を使用していたりすることが多く、手織ならではの肌触りや素朴な風合いを楽しめます。

イランは多くの遊牧系部族が暮らす国として知られており、トライバルラグの生産も盛んです。
イランの有力部族としては、カシュガイ、シャーサバン、トルクメン、アフシャル、バルーチ、ハムセ、クルド、ルリ、バクチアリがありますが、その下には数多の支族が存在します。
20世紀以降、政府の定住化政策により多くの遊牧民が定住しました。
しかし、絨毯織の伝統はいまも受け継がれており、各部族ならではの個性に溢れたトライバルラグは、コレクションの対象としても人気があります。

トライバルラグは敷物としてだけではなく、バッグや馬具、テントの装飾品など、様々な用途で製作されてきました。
遊牧民にとっての生活必需品として常に彼らとともにあったトライバルラグは、部族文化の具現であり、歴史の生き証人でもあります。
部屋のインテリアにアクセントを与えるだけでなく、その背景にある民族や文化の歴史を感じることができるのがトライバルラグの最大の魅力といえるでしょう。

トライバルラグの特徴

トライバルラグの特徴

トライバルラグには部族によって異なる特徴があります。
その一方で各部族間に共通する点もあり、それらはすべて「遊牧」という生活形態に由来しています。
トライバルラグのアイデンティティであるともいえるそれらの共通点を以下に解説します。

1. 素材
トライバルラグはパイルだけでなく、縦横糸にもウールを使用したものが多く見られます。
牧草を求めて移動生活を送っていた遊牧民には、同じ場所に留まり綿花を栽培する考えがなかったことが理由でしょう。
これらのウールは彼らが飼育する羊から得られますが、山岳地帯の羊のウールは質がよく、それがトライバルラグの品質に大きく関わっています。

2. デザイン
トライバルラグは意匠図を用いず、織手のインスピレーションによってデザインが決められます。
よって複雑なデザインともなれば、左右が対称にならないこともよくあります。
デザインは菱形のメダリオンの周りを部族伝来の文様で連続させたものが一般的ですが、それらはすべて幾何学的です。
幾何学的なデザインは曲線的なデザインに比べると織るのが容易であるため、同じ場所に留まる期間が短い遊牧民にとって、製織速度を上げることができる幾何学的なデザインは、理にかなったものであったのかもしれません。

3.
トライバルラグには部族のテリトリーである山岳地帯や草原地帯で採取した天然染料が使用されていることがよくあります。
これらの色は主に赤をはじめとする暖色系の色です。
したがって、遊牧民の手織り絨毯のほとんどは、温かみのある赤い色合いです。
シャーサバン、トルクメン、カシュガイ、アフシャルの絨毯には、深い赤が使われます。
バクチアリの絨毯では、中間色や寒色も見られます。
トライバルラグには、黄、緑、紺、アイボリーなどの色も使用されますが、色数は限られており、通常は6~7色です。
ただし、20世紀後半に製作されたトライバルラグの中には天然染料と化学染料が併用されたもの、あるいは化学染料のみを用いたものもあります。

4. ノット
トライバルラグの中にはトルコ結びを用いて製作されるものもありますが、ほとんどの部族はペルシャ結びを使用しています。
移動生活を送っていた彼らにとって、生活用具の軽量化は必須でした。
ペルシャ結びを用いて製作された絨毯は薄くて軽くなるため、多くの部族がペルシャ結びを使用するようになったとされます。
トライバルラグは一般にノット数があまり多くはありませんが、シティラグ(都市部の絨毯)と違い、ノット数は重要視されません。
なぜならばトライバルラグとは本来そういうもので、それも伝統の一つだからです。

5. サイズ
トライバルラグに大きなサイズはあまりありません。
移動生活には重くて嵩張る大きな生活用具は不便なだけです。
また、宿営地に留まる期間は限られていますから、短い期間内に大きな絨毯を織りあげることは困難です。
そうした理由に加え、トライバルラグは水平型織機を用いて製作されることが多いのですが、この織機は大きなサイズの絨毯の製作には向きません。
パイルを結び終えた部分に織手が座りながら作業を進めてゆくため、絨毯の全体像が把握しにくいからです。
水平型織機を用いるのは定住民も同じで、定住民が製作するトライバルラグにも9平米以上のサイズはほとんど見つかりません。

6. 価格
トライバルラグは比較的小さなサイズが多く、ノット数も少ないため、価格は手頃なものが多いです。
もちろん自家製であることや、僻地ならではの物価の安さも関係しています。
ただし、アンティークのトライバルラグの名品は状態さえよければ、驚くほどの高値で取引されることがあります。
今日、アンティークのトライバルラグは目に見えて減少しており、18世紀後半から19世紀初頭のトライバルラグが博物館に展示される機会も増えています。

トライバルラグの価値

トライバルラグの価値

トライバルラグには独特のデザインや手織の温かみ、歴史や文化が織り込まれた伝統工芸品としての価値があります。
以下に、トライバルラグの価値についていくつかのポイントを挙げます。

1. 文化的・歴史的価値
トライバルラグは、特定の部族によって伝統的な技術とデザインで作られており、その背景には豊かな文化や歴史があります。
そのためトライバルラグは、部族の文化や伝統を受け継ぐ貴重な遺産としての価値があります。

2. 工芸品としての価値
トライバルラグは部族の女性によって、一枚一枚丁寧に手織されています。
手織ならではの温かみや風合いが実に魅力的であり、個々に織手の技術と情熱が込められていることから、工芸品としての価値が高いとされています。

3. 耐久性と品質
トライバルラグは高品質な天然素材を用いて製作されるため、耐久性が高く長持ちするという特徴があります。
その特徴によりインテリアとして長く愛用できることから、トライバルラグは品質的な価値が高いとされています。

4. 装飾的価値
トライバルラグは独特のデザインや色彩が特徴であり、部屋のインテリアにアクセントを与えることができます。
その美しいデザインや装飾性の高さから、トライバルラグはアートとしての価値があるとされています。

トライバルラグの歴史

トライバルラグの歴史

絨毯を織り始めたのは中央アジアの遊牧民といわれます。
敷物として最初に使われたのは、おそらく動物の毛皮だったと思われますが、文明が進化する過程においてパイル織絨毯が発明されました。
最初のパイル織絨毯は、おそらく動物の毛皮に似た長いパイルを持ったものであったと考えられています。
今日の「トゥル」と呼ばれるトルコ絨毯のようなものです。
長いパイルの絨毯は平原の寒さから身を守るテントの敷物や覆いとして、また寝具などとして使用されたのでしょう。

しかし、これらはあくまで推測に過ぎません。
初期の手織絨毯に関する考古学的資料はほとんど見つかっておらず、推測に頼るしかないというのが現実だからです。
これまでに発見された最古の絨毯、いわゆるパジリク絨毯は紀元前250年頃に製作されたものとされます。
パジリク絨毯はトライバルラグではありませんが、この絨毯の高度な芸術性と仕上がりは、パイル織の技術がその何世紀も前からすでに存在していたことを如実に物語っています。
そして、それを考案したのは遊牧民であるというのが定説です。

このようにトライバルラグは驚くほど長い歴史を持っています。
例えば、コーカサスに住むアルメニア人の絨毯は、紀元前 5 世紀のギリシャの歴史家ヘロドトスから「色あせることのない鮮やかな色」であったと賞賛されています。
サマンガン州に由来するアフガニスタン北東部のパイル絨毯の断片は、炭素年代測定により2世紀後半またはササン朝初期のものと判明しています。
断片の一部には、パジリク絨毯のデザインを彷彿とさせる、行列をなすように並べられた雄鹿などの動物の描写があります。
これら初期のトライバルラグは、縦糸、横糸、パイルにウールを使用し、粗く紡がれた糸と、ペルシャや極東のカーペットに典型的な非対称の結び目を使用しています。
数列ごとに、紡がれていないウール、布の切れ端、革片が織り込まれています。
これらの絨毯の断片は、ササン朝初期のものと確実に年代が付けられていますが、アラブの征服者が述べた豪華な宮廷カーペットとは関係がないようです。
粗い結び目と裏側の毛羽立ちは、断熱性を高める必要があったことを示唆しており、遊牧民の職人技を示しています。
10世紀のアラブの地理学者フドゥド・アルアラムは、ファース(カシュガイのテリトリー)で絨毯が織られていたことを記し、14世紀にはモロッコの探検家イブン・バトゥータがバクチアリの族長のもとを訪れた際、目の前に緑の絨毯が敷かれていたと述べています。
これらの記述を除けば18 世紀から 19 世紀に至るまでのトライバルラグの歴史についてはほとんど分かっていません。

18 世紀から 19 世紀になってからトライバルラグがヨーロッパの人々に知られるようになった裏には哀しい事実があります。
この頃、多くの遊牧系部族は中央政府にとって厄介な存在となっていました。
羊たちを連れて草原を自由奔放に行き来する遊牧民には国境という概念がありません。
そこで国境を跨いで自由に行き来する遊牧民たちを統制する手段として強行的な措置が講じられたのです。
そのため、多くの部族が定住するか、局地に留まることを余儀なくされました。
最も悲劇的な出来事の一つは、1881年に帝政ロシアがトルクメンのテッケ族を攻撃したことです。
近代的装備を持つロシア軍に激しく抵抗したトルクメン人たちは、数十年にわたる戦いの末、壊滅的な被害を受けて敗北しました。
生き延びたトルクメン人の多くはアフガニスタンやイランに逃れ、残った人たちは定住することを余儀なくされました。
この時、彼らの貴重な財産であった絨毯の多くは売り払われ、中央アジアの貿易の中心であったブハラを経由してモスクワやサンクトペテルブルクなど、ヨーロッパの諸都市に送られたのです。

そうして20世紀に入るとトライバルラグは商業的に生産される時代を迎えます。
市場の需要が高まりと政治的な混乱は、トライバルラグのデザインと品質を大きく退化させました。
とりわけ化学染料の導入は、数千年にわたって使用されてきた天然染料に取って代わり、トライバルラグのアイデンティティを著しく損なわせました。
また、いくつかの部族においては、急激に生産数が減少しました。
こうした負の渦中にありながら、人里離れた地域では、一部の部族が昔ながらの伝統を守り続けていたことだけは救いでした。

フォークアートが評価されるようになった 1960 年代から 70 年代にかけて、アンティークのトライバルラグは世界中のコレクターから注目されるようになります。
19世紀に製作されたトライバルラグの名品が、大手オークションハウスでたびたび見られるようになりました。
1980 年代には、手織絨毯における天然染料のルネッサンスが興ります。
何十年もの間、合成前に染められた古い敷物はその色で珍重されてきました。
合成繊維で作られた新しいラグは、古典的なラグとは比較にならないでしょう。
しかし、敷物生産者は、これらの輝く色の秘密を明らかにするために、天然染料のレシピを復活させる実験を開始し、成功しました。
これらの敷物生産者は、優れた色だけでなく、優れたデザインにも関心を持っていました。

天然染料復活の先駆者たちは、18 世紀から 19 世紀に製作された古いトライバルラグを見本にしました。
そのような人物の 一人が、エルサリ文化復興プロジェクトに携わったクリス・ウォルターでした。
アメリカの絨毯輸入業者であった彼は、1987年にパキスタン北部でエルサリ・トルクメン人のジョラ・アガに出会いました。
ジョラはロシアによるアフガニスタン侵攻から家族とともに逃れていたのです。
当時、パキスタンから絨毯を輸出していたクリス・ウォルターは、難民キャンプでトルクメンの織工たちが粗悪な機械紡績ウールでカーペットを織っているのを目にしました。
彼は、これらの織物業者に手紡ぎの天然染料で染色された手紡ぎのウールを提供したいと考えていました。
これらの上質なウールは、かつてエルサリ族が製作していた見事なトライバルラグを復刻するために使用されました。
そこで、クリスは織りと生産を監督をジョラに任せ、18 世紀と 19 世紀のエルサリ・トルクメンのデザインを用いたトライバルラグの生産を開始しました。

また同じ頃、イランでは天然染料のみを使用したギャッベの製作が始まりました。
シラーズの絨毯商であるゴラムレザー・ゾランバリは草木染めを復活させ、部族民の実用品に過ぎなかったギャッベを「商品」として海外に輸出することに成功しました。
これらのギャッベは伝統的なギャッベとはまったく異なるデザインで作られた、モダンでスタイリッシュなものです。
これは、のちのギャッベ・ブームへと繋がり、それまで手織絨毯に関心がなかった若い世代の人々に興味を抱かせるに至りました。
それに触発され、シラーズやヘリズなどでは天然染料復活への取組みが始まります。
しかし、その一方でカシュガイの定住民たちは、すぐに現金収入となるギャッベの製作に熱中するあまり、かつてトライバルラグとしては高い品質を誇っていた伝統的な絨毯を作らなくなってしまいました。
それに拍車をかけたのが、イランの経済成長に伴う織職人の減少です。
今日、伝統的なギャッベやカシュガイ絨毯は姿を消しつつあります。

トライバルラグの種類

トライバルラグの種類

トライバルラグは狭義には部族が製作するパイル織の絨毯を指しますが、広義にはキリム、ソマック、ジャジム等の綴織を加えた総称として用います。
キリム 、ソマック、ジャジムにも各部族ならではの特徴があり、また、その薄さゆえ敷物としてだけではなくソファやベッドのカバー、テーブルクロスなどとしても使用できるため、とても人気があります。
以下では、それぞれの特徴について解説します。

絨毯(パイル織)

絨毯(パイル織)

絨毯は縦糸、横糸、パイル糸の三つで構成されることが、縦糸と横糸のみによって構成される綴織と大きく異なります。
これらの中でもドザール(約140×約210)のサイズのもの、トルクメンやバクチアリについてはドザールからキャレギ(約200cm×約300cm)のサイズのものは俗にメイン・ラグと呼ばれます。
部族の絨毯としてはもっとも大きなものですが、テントの大きさに合わせて製作されるため、サイズにはばらつきがあります。
部族民の財産ともなるメインラグはかつて嫁入り道具として製作されたほか、バザールで換金されることもありました。
とりわけ19世紀に製作されたメイン・ラグは極めて秀逸で、溜息が出るほどに美しいものがたくさんあります。
トライバルラグはつい最近までイランでは価値を認められていなかったため、古いトライバルラグの名品は欧米で見つけるしかありません。
ただし、状態のよいものを見つけるのは非常に困難で、価格も高価です。

ギャッベ

ギャッベ

カシュガイやルリが製作する絨毯の中でも普段使いに用いられる絨毯をいい、発祥はルリにあるとされます。
日本流にいえばメイン・ラグが「ハレ」の絨毯ならギャッベは「ケ」の絨毯で、シンプルなデザインと荒い織りが特徴です。
ギャッベとは「毛足が長い」という意味であると説明されることがありますが、実際は「ゴミ」や「クズ」に近いニュアンスで用いられてきた呼称です。
メインラグのように資産としての意味を持つものではなく、いわば半消耗品として製作されたものであり、それゆえアンティークやセミアンティークのギャッベはほとんど現存していません。
かつては価値をまったく認められていなかったギャッベも1960年代から70年代のトライバルラグ・ブームに乗じて注目を浴び始め、現代人の趣向に合わせたものに変えられてゆきました。
これらの敷物は他のスタイルのペルシャ絨毯よりも比較的簡単に製造できるため、場合によってはより手頃な価格になることがあります。
デザインがシンプルで、これらの敷物に見られるノットの数が少ないため、これらの敷物をより迅速に生産できます。
現代のギャッベは伝統的なそれとはデザインもサイズもまったく異なります。
絨毯業者は昔ながらのギャッベを「オールド・ギャッベ」、新しいスタイルで製作されたギャッベを「モダン・ギャッベ」あるいは「コンテンポラリー・ギャッベ」と呼んで区別することがあります。

オールド・ギャッベ

オールド・ギャッベ

伝統的なギャッベで、ウールを染色せずにそのままの色で織りあげた「ナチュラル・ギャッベ」(ガッべ・ホドランゲ)と「カラード・ギャッベ」(ガッべ・アルワーン)に分けられます。
ナチュラル・ギャッベの色は大体、キナリ色、ベージュ色、灰色、茶色、黒色の5色の濃淡で、色合いも地味な色合いが多いです。
様々なデザインがありますが、一般的にはシンプルで幾何学的なパターンや抽象的な文様を織り出したものが主流です。
鳥や動物を大きく描いたものもあり、中でもライオンや豹などの猛獣を織り出したものは、そのユーモラスな姿から愛好家やコレクターには特に人気があります。
やや細長い形状のものが多くサイズはまちまちですが、毛足はそれほど長くありません。
オールド・ギャッベは必ずしも古いという訳ではなく、現在でも少数が製作されていますので、「オールド・スタイル」と言い換えた方が現実に則しているかもしれません。
パイルは天然染料のみを使用したもの、天然染料と化学染料を併用したもの、化学染料のみを使用したものとまちまちです。
トルコ結びを用いたものとペルシャ結びを用いたものの両方がありますが、古い作品には横糸を3本以上用いたものもあります。

モダン・ギャッベ

モダン・ギャッベ

モダン・ギャッベは現代人の趣向に合わせて製作されたもので、伝統的なギャッベ(オールド・ギャッベ)とは趣を異にします。
これらのギャッベは、多くの場合、シンプルなデザインと鮮やかな色彩を特徴としています。
フィールド全体に人物や山羊、駱駝などの動物がランダムに配置されていたり長方形の中に収められていたりするものもあれば、樹木や草花、山や川、太陽や星など自然の風景が描かれているものもあって、一枚一枚に個性が与えられています。
よりシンプルなものでは文様がまったくなく、ウールの色だけによってデザインが構成されているものも見られます。
一部の絨毯業者によりカシュクリ、アマレ、ルリバフ等の名称が付けられて販売されていますが、イランでは「ガッべ・リズ」(細かな織りのギャッベ)と「ガッべ」(一般的なギャッベ)の2つに分類されているだけです。
モダン・ギャッベはファース州の農村部で製作されており、織手の多くはカシュガイの定住民ではあるものの、他の部族の定住民、イラン人も製作に携わっています。
なお、モダン・ギャッベについて、「遊牧民が移動生活を送りながら、飼育している羊のウールを周辺に映えている植物で染色し、織手の頭の中で考えたデザインに沿って織っている」と説明する絨毯屋がいますが、これはまったくの事実無根です。

キリム

キリム

縦糸と横糸だけで構成される綴織の一種で、平織、スリット織、繋織、重ね繋織、曲線織等、いくつかの織り方があります。
キリムはペルシャ語のゲリーム、すなわち「粗い織布」に由来すると言われ、その単純な構造から絨毯よりも長い歴史を持つとも言われます。
また絨毯の原型であるとする説もありますが、それを解明する術はありません。
キリムは縦糸と横糸のみで構成されているため、薄くて表面が平坦になるのが特徴です。
また、キリムの表と裏の柄は同じになるので、両面使うことができます。
キリムのデザインは幾何学的な文様やストライプ、ダイヤモンド、チェック柄などが一般的ですが、中には植物や動物のモチーフを取り入れたデザインもあり、それぞれの文様にはそれぞれ意味が込められています。
キリムは横糸によってデザインが表現されます。
横糸の素材にはウールが使用されますが、縦糸にはウールを使ったものと木綿を使ったものがあります。
縦糸と横糸が細くて柔らかいほど、キリムの品質は高くなります。
このためキリムの素材には羊の喉の下や脇の下の毛などの高級ウールが使われることもあります。
イランではクルドやカシュガイ、シャーサバンがこれを製作しています。

ソマック

ソマック

縦糸と横糸とを交互に重ね合わせた平織の地に、横方向に柄糸を絡ませて文様を作ってゆく織り方です。
絡ませる向きの違いにより「一方絡み」と「二方絡み」の二つがあります。
柄糸は縦糸二本毎に絡ませるため、キリム よりもしっかりとした作りになりますが、キリム のように両面を使うことはできません。
シャーサバンやアフシャルが製作しています。
ソマックは、コーカサス地方の言葉で、イランでは「スーザニ」といいます伝統的な手織り絨毯の一種で、中東やアジア地域で作られています。
ソマックは、主に細長いストライプ状の模様が特徴であり、幾何学的なデザインやカラフルな色使いが施されています。
ソマックは、糸を地に沿って平織りすることで作られるため、表面に凹凸がなく滑らかでありながらもしっかりとした質感があります。また、ソマックは両面に同じ模様が織り込まれていることが多いです。
ソマックは、高品質な羊毛や山羊毛、綿などの天然繊維を使用して手織りされ、耐久性が高く長持ちする特徴があります。
伝統的には、ソマックは床を覆う絨毯として使用されてきましたが、最近では壁掛けやテーブルクロスなどとしても人気があります。
ソマックは、繊細な手織り技術と独特のデザインが組み合わさった美しい絨毯であり、その風合いや色使いがインテリアにアクセントを与えることができます。
ソマックは、伝統的な手工芸品として高く評価され、世界中で愛されています。

ジャジム

ジャジム

ジャジムはイラン西部と北西部で製作される綾織の一つで、比較的厚みがあり両面で使用できます。
ウールまたはコットン、またはその両方の組み合わせで作られています。
ジャジムは寝具、ベッドツイスターとして織られ、時にはテーブルの上で使用されます。
ジャジムは地域によって呼び名が異なり、たとえばイラムではジュルと呼ばれています。
同様に、ジュルを製作する織機はジュライまたはジュラヒと呼ばれ、織手はジュラヘと呼ばれます。
ジャジム織りには道具が使われますが、すべて手に頼っており、完全な手作業です。
ジャジムは通常、長さが長く、幅が狭い4枚の板を織り、次にそれらの板を縫い合わせます。
ジャジムで織られる模様はカラフルで、縞模様、階段状、議会模様、市松模様などがあります。
チチャクラメ・ジャジムは、村と都市の縞模様の色と菱形パターンの組み合わせで最も有名でした。
現在は機械で製作されたものもあるので購入する際は注意が必要です。

イランの部族

トライバルラグの種類

遊牧民の手織り絨毯の起源はイラン全土にあり、イランの遊牧地域が広いため、これらの絨毯は広範囲に点在しており、各地域には遊牧絨毯の中でも独自の特徴があります。
以下ではトライバルラグを製作しているの12の部族と、彼らが製作するトライバルラグについて解説します。

シャーサバン

シャーサバン

シャーサヴァンの起源ははっきりとしません。
19世紀後半の記録によれば、この部族同盟は16世紀後半に指導者のユンスール・ダシア・パシャとともにアナトリアからイランにやって来たとされます。
パシャはサファヴィー朝の王、アッバース1世にイランに定住する許可を求めました。
アッバス1世はパシャの要請を快く受け入れ、「シャーの友人」を意味するシャーサヴァンの称号を与えました。
アッバース1世はユンスール・パシャに、冬と夏の宿営地として適切な場所を選ぶように指示し、シャーサヴァンは国中をさまよった後、アルデビル地方を選び、モガン平原を冬の宿営地、サバラン山脈を夏の宿営地とします。
パシャこの地域に3300のテントを構える部族民たちを定住させました。

シャーサヴァン部族同盟はトルコ語を話す部族から構成されており、その中で最も有力な部族は、東アナトリア地方のカルス出身のウスタジュル族、アナトリア地方のアレッポ、アダナ、タルスス出身のシャムル族、おそらくペルシャ北西部のハマダン近郊のバハル出身のバハルル族、アレッポ出身のゾルガドル族、11世紀にイランに侵入した古代トルクメンのアフシャル族、アナトリアのトカット、シヴァス、アマスィヤ周辺出身のルムル族、アナトリアのマンタシャとハミド地方出身のタカル族、アルメニアのエリヴァンとカラバフ出身のカジャール族です。

このようにシャーサヴァンのすべてがトルコ系という訳ではなく、クルド人とタジク人からなるペルシャ系の割合が高いのが実際でした。
トルコ東部から来た人々は、おそらく11世紀に中央アジアからオグズ(トルコ系民族)が移住した際にこの地に到来したと考えられます。
サファヴィー朝の政策は、シャーサヴァンをイラン北西部の防波堤として、当初はオスマン・トルコから、後にはロシアから防衛させることでしたた。
最大の脅威となったのはロシア人です。

19世紀、ロシアとイランの戦争は、ロシア軍がアゼルバイジャンの大部分とそれに伴うシャーサヴァンの領地を獲得する結果となりました。
これにより、多くのシャーサヴァンの人々が南に移動することを余儀なくされ、テヘランの南にあるベラミンまで移動しました。
しかし、彼らが自らのアイデンティティを捨てることはなかったのです。

シャーサヴァンの敷物は、イランでは最近に至るまで「コーカサス」として分類されてきました。
しかし、過去10年ほどの間にイランの学者によって行われた調査により、誤りが正され始めています。
今日、入手できるシャーサヴァンの敷物の大部分はキリムやジャジム、ソマックですが、この分野ではシャーサヴァンは優れた織手と見なされています。
しかし、バザールでシャーサヴァンのパイル絨毯を見つけるのは、森で爪楊枝を探すようなものです。
1985年にシャーサヴァンに関する包括的な研究書が出版され、掲載された287点の織物のうちパイル絨毯は2枚だけで、残りの285点はすべてキリム 、ジャジム、ソマックでした。

パイル絨毯がそれほど少ない理由は、入手できなかったからです。
著者である世界的に有名なトライバルラグ研究家で彫刻家のパルヴィズ・タナヴォリは、シャーサヴァンのテリトリーで買付を行うバイヤーたちにパイル絨毯を探すように頼みました。
しかし、彼らが見つけることができたのはほんの僅かだったのです。
彼らが見つけたパイル絨毯はすべて19世紀のもので、精巧に作られていました。
これにより、タナヴォリは、シャーサヴァンが、いつの時点まで、結び目のあるパイルのラグや装飾品を織っていたという証拠を得ます。

構造的には、タナヴォリが検査したパイル絨毯はすべてが似通っていました。
トルコ結びが用いられ、使用されているウールは柔らかく、織りは柔軟でした。

昔からパイル絨毯は裕福な部族のハーンたちが自ら使用するために注文していました。
しかし19世紀末までに、彼らは権力、地位、富のほとんどを失っていました。
その結果、ハーンたちはパイル絨毯を注文しなくなったのです。
平織の生産が途切れることなく続いた19世紀に、シャーセヴァンがパイル織絨毯を製作するのをやめのは、これが理由かもしれません。

いずれにせよ、シャーサヴァンのパイル織絨毯の研究はまだ初期段階にあり、多くが解明されていないこと。
そして、市場に出回るそれらを目にする機会はほとんどなく、現存するものは状態如何にかかわらず、極めて貴重であるということだけは間違いありません。

キジルバシュ

キジルバシュ

11世紀にトルクメンが中央アジアからイラン、コーカサス、アナトリアに移住したことにより、織物のデザインにもトルクメンの影響が色濃く残されました。
これは1400 年頃にティムール・イ・レンク (ティムール王) が南東アナトリアで捕らえたトルクメン起源の民族、キジル・バシュの織物にも見られます。
これらのキジルバシュは、ウスタジュル、シャムル、ニカルー、ズルクデル、ルムル、タカル、デュル・カデル、イナンル、バハルル、バヤット、アフシャル、カジャールの各部族で構成されていました。
当時反抗的だった彼らは、ティムールによって捕虜にされました。
ティムールは彼らを罰するためにサマルカンドに強制的に移送しようと計画していましたが、アルデビルの聖人サドル・ウッディンの要請により、彼らはアゼルバイジャンで恩赦を受けて解放されました。

16世紀、イスマイルという名の聖人の直系の子孫がキジル・バシュの支援を受けて、アク・コユンル政権 (別のトルクメン連合) を倒し、ペルシャの王位に就きました。
この王朝は 222 年間続き、サファヴィー朝となりました。
シャー・イスマイルは、忠実なトルクメン部族に特別な頭飾り、赤い帽子、そして「赤い頭」を意味するキジルバシュの名を与えました。

16 世紀にアッバース1世が権力を握ると、サファヴィー朝の統治者はキズルバシュの横暴に悩まされ、キズルバシュのハーン(族長)を数人処刑してその力を抑えようとしました。
これが達成されると、彼は強制的に構成部族を分割し、ペルシャ各地に移住させました。
次に、キジルバシュの生き残りの忠実なメンバーから新たな部族を編成し、彼らに「シャーに忠誠を誓う者」を意味するシャーサバンの名を与えました。

キジルバシュが製作した絨毯は希少で、今日の市場に良質な作品はほとんど存在しません。
存在するもののほとんどはマフラシュと呼ばれる大きな寝具袋の表地です。
これらの多くにはフィールドの中央にギュルが織り出されており、過去のトルクメンとの密接な関係を示しています。
これらキジルバシュの絨毯は、テヘラン南部のベラミン周辺で織られたようです。
この地域には17 世紀に多くのキジルバシュが移住しました。
ベラミンのキジルバシュが製作した絨毯は、すべてに共通する独特のスタイルを持っています。

クルド

クルド

クルド人の中心地は、巨大な山々、なだらかな谷、肥沃な平野で形成されています。
夏は特に谷や平野で暑さが厳しくなります。
冬は寒さが身に染みて厳しいものになります。
クルディスタンの面積はおそらく 140,000 平方マイル (362,600 km) で、フランスとほぼ同じ大きさです。
クルディスタンには、有史以来、好戦的でありながらも非常に活発な人々が住んでいます。
クルド人の起源は、少なくとも紀元前 3 千年紀にまで遡ることができます。
おそらく世界最古の貴族階級であるクルド人は、シュメール王朝以来、侵略者や支配者による同化に抵抗するために歴史を通じて戦ってきた、非常に独立した民族です。
クルド人は中世から16世紀以降、ティグリス川中流域で記録されており、クルド人貴族が自治権を持つ世襲公国の強力な支配者でした。
しかし、クルド人は自分たちが紀元前9世紀から6世紀にイラクとペルシャの一部を支配した古代メディア人の子孫であると信じており、これが歴史上受け入れられている見解のようです。
コーカサス地方に起源を持つメディア人は、紀元前1200年頃にペルシャにやって来て、古代および現代のペルシャ語に関連するインド・ヨーロッパ語族の言語を持ち込みました。
この言語は、現在クルド人が話している言語です。

クナクサからトラブゾンへの退却中(紀元前401-400年)にクルディスタンを通過したギリシャの作家クセノポンは、彼が「カルドゥホイ」と呼んだ野蛮な部族民について言及していますが、これはクルド人であった可能性が高いです。
1522年から1523年にかけて、シャー・イスマイールは、ウズベク族とトルクメン族の侵略からこの地域を守るために、4,000のクルド人家族をペルシャ北東部のホラーサーン州に追放しました。
この強制移住に関わったクルド人部族は、エルズルム地区のケミシュゲゼク・クルド人、およびヴァン湖周辺のカラマンル・クルド人およびシウルカンル・クルド人であったと報告されています。
シャー・タフマースブ(1524年 – 1576年)の治世中、シャー・イスマイールによって移住させられたクルド人にさらに力を加えるために、さらに多くのクルド人部族がホラーサーンに強制的に移住させられ、このとき、ザンガナ、チャガニ、ジク、カルホル・クルド人はすべて追放されました。

クルディスタンにおける絨毯織りには長い歴史があります。
この問題は、この州における遊牧民の絨毯の信頼性と正当性に関連しています。
クルドの手織り絨毯の年代を正確に判断することは不可能です。
しかし専門家らはクルド絨毯の年代を400年前と推定している。
ナセリの贈り物帳には、氏族や遊牧民の長の要請に応じて役人に寄贈された貴重な絨毯や敷物が取り上げられています。
絨毯博物館には、ガージャール時代の手織りクルド絨毯が展示されています。
この地域の特殊な気候と山岳条件は、人々の気分、生計、芸術に良い影響を与えています。
カーペットの織りには粗いウールが使用されており、その質感が粗い印象を与えます。
クルディスタンの手織り地図からは、難しく曲がりくねった山岳地帯の全景が簡単にわかります。
この画像は、クルディスタンの手作りの地図上に点線と角だらけのパターンとして表示されます。
イランの各地域では、異なる地理的条件がその地域の気候や芸術作品に影響を与えます。
クルディスタンの山岳地帯により、この地域の人々は織物やその他の手工芸品に自然の要素を利用してきました。
クルディスタンの手描きの地図は、険しい山岳地帯を完璧に表しています。
これらの計画には、地域の人々の信念、習慣、信念が組み込まれています。
クルディスタンの手織り地図では、モチーフと仕事、生活、日常行事、結婚、出産、祈りなどとの関連が見られます。
この地域の絨毯はサナンダジュ、ビジャール、ベドウィンのスタイルで織られています。
縦糸と横糸に使用されている糸は手紡ぎのウールです。
クルド人の遊牧民も絨毯織りの特別な技術を持っています。
クルディスタン絨毯や遊牧民の手織り絨毯の特徴のひとつは、羊毛の代わりにラクダの毛を使って絨毯を織ることです。
このタイプのウールは厚みがあるため、カーペットの硬さ、伸び、硬さを感じるでしょう。
黄緑、茶、赤などが多く使われ、ザラザラした質感の絨毯です。
北部地域のクルディスタン絨毯の特徴の 1 つは、ザンジャーンとアゼルバイジャンの絨毯パターンの影響を受けたデザインとパターンです。
また、南部地域ではケルマーンシャーやハマダーンに近いため、近隣都市の影響を受けています。

ルリ

ルリ

イラン中西部のルリスタン州、チャハルマハル・バクチアリ州、コギルエ・ボイヤー・アフマド州を中心に暮らす部族で、一部は国境を超えたイラク中東部にもいます。
人口は推定200万人。
そのうちイラクのルリは6万3000人と言われています。
7世紀にシリアから移り住んだとする説があるものの、一般にはこの地域土着の部族であると考えられており、クルドと密接な関係があるとされています。
ルリ(ルル)の名は10世紀の書物に初めて登場することから、その頃クルドから分かれたのではないかと言われます。
なお、ルリは森を意味する「レル」もしくは「リル」に由来するとする説があります。

ルリの居住する地域には中期旧石器時代から人が住んでいた痕跡が見つかっていますが、ルリは紀元前22世紀頃にこの地を支配したエラム人の末裔であると考えられています。
エラム人は前1155年にバビロニアのカッシ-ト人を滅ぼして最盛期を築くものの、前639年頃メソポタミア北部に興ったアッシリア王国によって滅ぼされました。
それからササン朝期までの記録はほとんどありませんが、7世紀にアラブ人がイラン高原に侵攻すると、他の部族同様、ルリもその支配下に入ることになります。

932年、ファース地方にブワイフ朝が興り、946年にはアッバス朝のカリフからイラン・イラクの統治を奪いました。
この頃には既にルリの暮らす地域は「ルリスタン」(ルリの国)と呼ばれるようになっていたと言われます。
その後、ルリスタンは小ルリ=現在のルリスタン州とイラム州を中心とする地域と、大ルリ=チャハルマハル・バクチアリ州、クーフギール・アフマド州を中心とする二つに分断されました。

11世紀に入りイラン高原がセルジュク朝の支配下に入り、12世紀にはトルクメン人がクーフギールに入植するも、大ルリ、小ルリはともに居住地域における勢力を維持し続け、1155年には大ルリがホルシディ朝(アタベガーニ・ルリスタン)を興します。
ホルシディ朝は1184年に小ルリを支配下に置き、ディズ川からシラーズに至る広大な地域を支配しますが、1423年にティムールにより滅ぼされました。
ホルシディ朝の崩壊は大ルリの結束と繁栄を終わらせ、かつての領土は群雄割拠の時代へと移ります。
1501年にティムール朝を倒してサファヴィー朝が成立すると、大ルリは北部のバクチアリ、中部のクーフギール、南部のママサニの三つに分割されました。
サファヴィー朝は王朝の成立に貢献したアフシャルのハーンにクーフギールの統治権を与えましたが、たび重なるルリの反抗により、統治権を放棄します。

一方の小ルリはホラマバードを拠点にサファヴィー朝に対しては服従の姿勢を示していました。
小ルリのシャー・バルディ・ハーンはサファヴィー朝の往生を妃に迎え、姉妹をサファヴィー朝第5代君主アッバス1世に嫁がせます。
そして、ホルシディ朝の君主アタベグの末裔と婚姻関係にあったホセイン・ハーンはアッバス1世からアタベグの後継者として認められ、1596年に地方自治政権であるワリ朝を興しました。
ワリ朝はその後1929年まで続きます。

1722年、アフガン人がイラン高原に侵攻すると、サファヴィー朝は小ルリのアリー・マルダン・ハーンを総司令官に任命して防戦するも、敗れて消滅しました。
1736年にアフシャル出身のナーディル・シャーがアフシャル朝を樹立。
ナーディル・シャーは小ルリとバクチアリに攻撃を仕掛け、数名の族長を処刑するとともに数千人のバクチアリをホラサン地方に追放しました。
ナーディルの死後、小ルリに属するザンド族のカリム・ハーンはアフシャル朝を倒してザンド朝を興します。
シラーズを都に定めると小ルリの数千の家族をシラーズに移住させました。

トルコ系遊牧部族のカジャール族によってザンド朝が倒されると、ファースのルリはイラン中央部に追放され、クーフギールとママサニはファースに併合。
小ルリはルリスタンとポシュト・クーとに分けられ、ルリスタンは中央政府の直轄地となります。
カジャール朝への服従を拒んだルリのハーンたちは処刑されますが、それでも抵抗は収まらず、1896年にナセル・ウディン・シャーが暗殺されると、カジャール朝はルリスタンに対する支配権を失いました。

1925年に興ったパフラヴィー朝のレザー・シャーは中央集権を目指し、それに抵抗するルリを弾圧しました。
小ルリの自治政府であったワリ朝はイラン国軍との戦いによって崩壊。
武装解除された後、指導者たちは投獄されるか遠島に処され、いくつかの部族は強制移住させられました。
イラムとルリスタンは軍の統治下におかれ、伝統衣装とブラック・テントの使用さえも非合法化したため、ルリのアイデンティティは著しく損なわれました。

ルリは部族(イル)の連合体で、各部族はいくつかの支族(オラド)により構成されています。
支族は更に複数の一族によって構成されており、ピラミッド型の階層社会が存在しています。
各部支族は世襲制の族長(ハーン)により統治されていて、族長は配下の一族に土地や家畜を貸し出す見返りに、年貢を得ます。
約半分が牧畜を営む半遊牧民であると言われます。
夏の間は遊牧生活を送り、10月から4月にかけては低地の牧草地にある住居で暮らします。
定住化が進んでおり、定住民は農業を営む者が大半。
主な作物は大麦と小麦です。
ハマダン州、ルリスタン州北部に居住するルリはペルシャ語の方言であるルリ語を話しますが、ルリスタン州南部及びチャハルマハル・バクチアリ州、クーヘギール・ブーエル・アフマド州、フゼスタン州、イラム州、ファース州、ブーシェフル州のルリはクルド語に似たラキ語を話します。

ルリが製作する絨毯は集積地により3つのグループに分類されます。
一つめはルリスタン州の州都であるホラマバードです。
ホラマバードのルリ絨毯はボテなどの複雑なオールオーバー・デザインが多く、濃紺をベースにした控えめな色調が特徴です。
2つめはフゼスタン州南東部、ルリスタン州との州境近くにあるベフベハンです。
ベフベハンに集積されるルリ絨毯の多くは大きな菱形のメダリオンを縦一列またはフィールド全体に連ねたデザインが多く、ベースには赤も使用されますが色はやや暗めです。
縦横糸には木綿が使用されたものもあります。
3つめはファース州の州都であるシラーズです。
シラーズのルリ絨毯はにはシュガイの影響を受けたものが多く見られ、メダリオンやオールオーバーなど様々なデザインがありますが、色は派手めでカジュアルな雰囲気です。
これらの他にルリが製作する絨毯としてはギャッベがあります。
ギャッベの製作はイランがイスラム化する前から行われていたとされ、ギャッベの起源をルリにあるとする研究者もいます。
なお、ルリが古来製作してきたギャッベは、現在「ルリ・バフト」として販売されているギャッベとはまったくの別物です。

バクチアリ

バクチアリ

バクチアリは全体として、小コフキルイェのロルとママサニとともに、2つのロリ ロル・イ・クチェク (小ロル) の1つを構成しています。
歴史文書によると、タフマスプ1 世 (1524~1576年) の治世に、ウスティラキ一族に属するバフティヤーリ族の首長の1人であるタージ・アミール・ハーン・ウスティラキが、シャーによってロル・イ・ボゾルグの長に任命されました。
タージ・アミール・ハーンはその後、税金を滞納したためにシャーによって処刑され、バフティヤーリの伝承によると、母親を通じてサファヴィー朝と関係のあるジャハーンギール・ハーン・バクチアリが後を継ぎました。
バクチアリは、1524年から1576年にかけて2つの部門に分かれたと考えられています。
バクチアリは、16 世紀にハフト・ラング (7 本の脚) とチャハル・ラング (4 本の脚) という名前で誕生しました。
バクチアリの歴史におけるこれらの名前の由来は、多くの憶測の対象となってきました。
1つの解釈では、バクチアリの創始者が亡くなったとき、2人の妻から2つの家族が残され、1人には7人の息子が、もう1人には4人の息子がいました。
これがバクチアリの分裂です。
より妥当な説明は、税の義務に基づいて土地を分割したというものです。

1867年、ハフト・ラングとチャハル・ラングは、イル・バクチアリと呼ばれる1つの大きな部族連合に統合されました。
これは、行政上の目的でガージャール朝のシャーによって主張されたもので、率直に言えば、中央政府が税の流れを確保し、部族が税を課すという封建制度でした。
政府の意向を実行する責任を負わされる代わりに、個人的な利益を得ることとなりました。
その後の数年間、バフティヤーリー・ハーンは中央政府でシャーに対抗できるほど裕福で権力を握り、1909年、憲法危機の最中にバフティヤーリーがテヘランを占領しました。
バフティヤーリーは軍事力によって権力を握ったが、伝統的な指導者が無能だったため、同じように権力を失いました。

バクチアリは、60パーセントが山岳地帯である約29,000平方マイル(75,110 km?)の領土を支配しています。
この土地は、西はイスファハンから東はフゼスタンまで、北東はゴルパイガンから南西はラムホルモズまで広がっています。
この広大な地域を北西から南東にかけて斜めに走るのは、ザグロス山脈です。
最も高い山は標高4548メートルのザール・エ・クーです。バクチアリは年に2回、ペルシア湾の先端にあるフゼスタン平原の温暖な冬の生息地から、家畜の餌となる草が豊富にあるイスファハン西部のチャハル・マハル渓谷の夏の牧草地まで、これらの山々を越えて移動します。夏の移動は通常、3月末に始まり、完了までに約6~8週間かかります。
フゼスタンへの帰路は、冬の雪が戻ってくる前の9月頃に出発します。
この移動中、毎晩は前日のような一日の終わりとなり、毎朝は前日のような旅の始まりとなります。部族は往路で6つの峠を越え、帰路で再び峠を越えます。
この信じられないほどの旅は、春の洪水、急な岩の斜面、雪原を通り抜けます。
高齢者にとって、旅を完遂できるかどうかは疑わしいです。
たとえ高い山道をなんとか越えることができたとしても、最後の難関、つまり増水したカルン川を渡る難関が残っています。
これは最も厳しい時であり、若者が荷役動物や群れを川を渡らせる力強さを見せるだけでなく、最も厳しい時となる。若者にとっては命が生き生きとしているが、老人にとっては命が危ういと言えます。
老人は川を渡れなければ、残って死ぬしかありません。
彼らは遊牧民の生活を受け入れている。長い旅の終わりにたどり着き、最後の安息の地がどこであろうと、それはそれでいいのです。

バクティアリ族はイラン最古の高貴な部族のひ​​とつです。考古学者がタン・ピデ地域で発見した遺跡によると、その発見物は1万5000年前に遡る人類の居住地の存在を示しているといいます。
バクティアリ族は、常に世界の有名な遊牧民族および牛の飼育者の1つです。
イル・バクティアリの最も重要な職業の1つは、手織りのカーペットや敷物を織る技術です。バクティアリの手織り絨毯の歴史は 800 年以上前にまで遡り、この地域での絨毯織りの信頼性を示しています。
その文化的背景と品質の高さから、手織りの絨毯を求めて多くの外国人観光客がこの地を訪れます。
バクティアリ手織りカーペットは、イランで最高品質の手織りカーペットの1つです。
これらのカーペットは、独特で緻密なデザインを持つことで非常に有名です。
バクティアリのデザインやモチーフのほとんどは、これらのカーペットの美しさをさらに高める非常に小さなシンボルやディテールで構成されています。
バクティアリのカーペットは、その質感に応じて厚くも薄くもできます。
遊牧地域で織られたカーペットは通常、綿の縦糸とウールの横糸が使用され、田舎の手織りカーペットよりもはるかに軽いです。
最も有名なバクティアリの農村絨毯の中で、バルデの手織り絨毯を挙げることができます。
ガージャール時代にカシュカイ族の遊牧民がこの地域に大規模に移住したことを考慮すると、カシュカイ族とバクティアリ族のデザインと役割の組み合わせと親密さが認識できます。
一般に、バクティアリ絨毯の最も重要な特徴は、非常に高密度であること、ターキッシュノットファンとペルシャノットの一部の領域、多くの詳細なデザイン、および非常に高い色の安定性です。
バクティアリ絨毯の色の安定性が高い理由は、伝統的な染色を使用して自然および在来植物の色を使用しているためです。
一般に、バクティアリ絨毯、特にバルデ絨毯は、イラン産絨毯の中で密度と色の点で最も安定した絨毯の一つです。
バクティアリ手織り絨毯の特徴はさておき、バクティアリ手織り絨毯はデザインとパターンの点で世界で最も豊かな手織り絨毯の一つであることを知っておいてください。
これらのカーペットには、古代の自然のシンボルが数多く使用されています。これらのカーペットに木、花、在来動物などの自然要素を使用することは非常に有名で、人目を引くものです。
一般に、バクティアリ絨毯の最も有名なデザインスタイルはより挑戦的であり、さまざまなデザインで織ることができます。
間違いなく、バクティアリの手織り絨毯の最も有名なデザインはトリックタイプのものです。トリッキーなデザインはカーペットの中のハウスデザインと呼ばれます。
これらのカーペットは中央にありません。
最も有名なトリックデザインとしては、サムリ、粘土、松、杉のデザインを挙げることができます。
粘土のデザインは、最も有名な遊牧民のカーペットのデザインとして使用されます。
バクティアリの手織りカーペットで遊牧民が使用する収集価値のある創造的なデザインの1つは、植木鉢や木のデザインです。
このデザインでは、織り手はカーペットの長さに沿って木をデザインすることで多くのディテールを示しています。
カーペット全体のデザインは、木や鉢を表すものと一致しています。
これらのデザインは、収集価値のある形や小さいサイズでより人気があります。 このデザインでは、幾何学的な形や構造、自然要素の組み合わせが芸術的に使用されています。高貴な花またはエナメルの花がこのデザインの主要な構成シンボルです。
また、バクティアリの手織り絨毯では、この花が幾何学模様や菱形の構造で繰り返し描かれています。
バクティアリの手織りカーペットで常に特別な役割を果たしてきたデザインの中に、ラクとタランジのデザインがあります。
もちろん、このデザインは、ナイン、カシャーン、イスファハーンで織られたラックやタレンのデザインと比較すると多くの違いがあります。
カーペットの中央にベルガモットがあり、カーペットの正方形にゴムが入っているのは、他の起源のデザインとの類似点の一部です。しかし、最も重要な違いは、高貴な花と花の境界線の使用です。
単一の池のデザインは共通パターンの一部であり、カシュカイの起源と組み合わされています。
バクティアリの起源との文化的親和性が高いため、このデザインは織り手によって共同で使用されています。
これらのデザインでは、伝統的な池のシンボルが、繊細な幾何学的なエッジを何層にも重ねて繰り返されています。
今回のデザインでは、池のシンボルをより重視したため、池の横のディテールは表示せず、単色で表現しています。
単一ホーズ設計に似た組み合わせ設計は、シェケルロ設計またはヤルメ設計と呼ばれ、一部では二ホーズ設計とも呼ばれます。

オラド

オラド

オラドは「部族」「一族」を意味する語で、特定の部族を指したものではありません。
イスファハンのバザールでは「パシュクヒ」とも呼ばれますが、パシュクヒは小ルリに属する支族の名です。
パシュクヒはポシュティ・クーヒ、すなわち「山の向こう」に由来し、サファヴィー朝期には既に名を知られていました。
しかし、オラド絨毯を製作しているのはこのパシュクヒ族ではなく、チャハルマハルの南西端にあるザグロス山脈に近いナグンに住む、ルリもしくはバクチアリの一族と考えられます。

この種の絨毯がパシュクヒと呼ばれるようになった経緯について、絨毯研究家のP・R・J・フォードは(オラド絨毯がはじめてイスファハンのバザールに現れたとき、それらがどこで織られたのか、誰が売りに来たのかわからなかった。『これは儲かる』と直感した絨毯商だが、彼はそれらを製作した部族を明らかにすることに拘っていなかったので、産地を「パシュクヒ」だと話した」と解説しています。
デザインはルリに準じたものが一般的ですが、バクチアリ風のパネル文様を織り出した作品も存在します。
しかし色調はバクチアリ産とは異なり、ルリ絨毯に近いものとなっています。
パイルはペルシャ結びで、ダブル・ウェフト、セミダブル・ノットの構造です。

ヤラメ

ヤラメ

イスファハン南方のアリアバドやタルカンチェの西に暮らす部族です。
隣接するバクチアリと同じくルリから派生した部族と見られていますが、カシュガイとの共通点も多いため、カシュガイから派生したとする説もあります。
たとえば、ヤラメ絨毯に見られる「バンディ・アルワン」と呼ばれるデザインは、チャハルマハルの地に辿り着いたカシュガイの一派が、バクチアリ絨毯のパネル・パターンの枠の中の文様を、自分たちの菱形のメダリオンに置き換えたものともいわれます。
ヤラメをカシュガイの支族としている書籍やサイトもありますが、本サイトでは別の部族として紹介します。
いずれにせよヤラメが製作する絨毯はトライバルラグとしては質が高く、鉤状の飾りを持つ菱形のメダリオンを配したカラフルな色彩が特徴です。
ヤラメ絨毯の色には青、赤、緑、紺、白、紫、黒の9色が使用されるのが一般的です。
定住民となって久しいため、サイズのヴァリエーションも豊富です。
19世紀の初めにはすでに優れた絨毯を製作していたようですが、古いヤラメ絨毯には黄や緑が多用されており、現在の色調とは異なります。

カシュガイ

カシュガイ

いくつかの資料によると、カシュガイ族は、東トルキスタンに起源を持つトルコ系民族で、11世紀にこの地域を去った西オグズの22部族の1つであるハラジ族に由来します。
14世紀末、モンゴルの偉大な支配者ティムールは、ハラジ族の一部を小アジアからペルシャ中央部と東部に移しました。
その後まもなく、ハラジ族の一団が主要部族から離脱し、ペルシャ南西部のファールスに逃げ、そこで「逃亡者」または「逃げた者」を意味する「カシュガイ族」という名前を与えられた。
別の資料では、カシュガイ族はガズナ朝(944-1040)から逃れてペルシャ西部に定住したイラク・トルクメン族の一派であるとされています。
19世紀のカシュガイ族の指導者たちは、カシュガイ族はカシュガルから連れてこられたという情報を提供しています。
東トルキスタンのカシュガイ族はモンゴルのフレグ・ハーンによってペルシャに渡されました。
どの説が正しいにせよ、一つ確かなことは、カシュガイ族はペルシャ系ではなく、中央アジアまたは東トルキスタンに起源を持つ可能性が高いということです。
カシュガイ族の連合は、シャー・アッバース(1587-1629)の治世に遡ると考えられています。
アッバースは、シャーヒル族のジャニ・アガ・カシュガイにペルシャ南西部のファールス州の部族の支配権を与えました。
1895年、ファサイはシラーズで出版した著書『ファールスの部族』の中で、57ものカシュガイ族の部族を列挙しました。
1972年、イラン部族局は、シェシュボルキ、カシュクリ・ボゾルグ、カシュクリ・クチェク、ファルシマダン、ダレシュリ、アマレの6つの主要部族(タイフェ)のみを指定しました。
その他の重要な小部族には、ママサニ、サフィ・ハニ、ボルヴァルディ、ラヒムル、アルド・カパンがあります。

カシュガイ族のさまざまな下位組織とそれに関連する正式な指導者は以下のとおりです:
イル (イル・ハーン)
タイフェ (カランタール、ハーン)
ティレ (カドホダ)
ボンクー
ベイレ
ハネヴァデ (個々の家族)
この連合は 1956 年にイラン政府によって正式に解散されましたが、それ以前はさまざまなタイフェがイル・ハーノールまたは最高首長によって統治されていました。
この首長は歴史的には通常、アマルチ・タイフェのシャヒル・ティレから選ばれていました。
彼は政府の税金の徴収と法と秩序の維持、各タイフェは、各タイフェの貴族出身のカランカルによって統治されました。
各タイフェは、カヴァニンまたは部族貴族とラヤまたは平民の2つの階級に分かれていました。
これらは、タイフェのティレ(氏族)またはフィブ部門に組織され、カドホダまたは首長が率いました。
モミの木の下には、長老が率いるボンク(部族)があり、ベロンは牧畜と農業の共同作業の基本単位であり、遊牧民セクター内で最も重要なグループであるベイレです。
ハネバデ(核家族)を含む単一のテントは、孤立して見られることはなく、常にベイレの枠組みの中で一緒に見られます。
1974年、博物学者のデイビッド・アッテンボロー卿はカシュカ族に関する映画を制作し、彼らを次のように的確にまとめています。
カシュカ族の遊牧民の集団と一緒に長時間旅をしなくても、彼らがなぜ庭園を造るのかは理解できます。
彼らが長い旅をする土地は乾燥していて単調で、むき出しの岩、熱い砂、そして青白い塵がそこら中に漂う世界です。
しかし、彼らは色彩に情熱を持っています。女性たちは、どんなに過酷な旅でも、最も豪華な色の服、きらびやかな錦織りの帯、銀貨を吊るした緑やオレンジや青の頭巾、地面まで届く大きな鮮やかなスカートを身に纏います。
ラクダや馬には平織りの鞍布を飾り、馬具には明るいウールの房を吊るします。
そして、夕方になると、彼らはキャンプをし、ラクダをかがませ、鞍袋と穀物袋を一列に積み上げて防風林を作り、砂の上に敷物を敷くので、砂漠は夕陽を浴びて突然色彩に輝きます。

今日、部族の織り手による率直でありながら繊細な作品は、ますます高く評価されるようになっています。
その意味の複雑さ、歴史と伝統のニュアンス、そして鑑識眼の洞察力はすべて、確かにその魅力を高めていますが、その永続的な魅力は、無名の作り手が非常に大切にしていた品質、つまり職人技への誇り、模様と発明への喜び、そして色彩への飽くなき喜びにかかっています。
ウールと織りの特徴は、カシュガイ族の敷物が近隣のグループのものとどのように異なるかを常に明らかにする最も重要な2つの特徴です。
カシュガイ族の羊毛は、硬く、繊維が長く、光沢があり、よく紡がれた貴重な商品で、バザールで売られていました。
羊はトルコ系で、近東や中央アジアで見られる太い尾の品種でした。
羊の毛刈りは年に一度、5月と6月頃に行われました。
カシュガイ族は、その色の品質と純度、そして繊維を2度染めることによって得られる色調の多様性で特によく知られていました。
最も有名な織り手はカシュクリ族で、彼らは極めて上質なラグ、キリム、バッグを生産しました。
これらは 20 世紀初頭まで天然染料で織られた最高の作品でした。 その他の主要な織り手は、アラブ チェルパンル、ボリ、クヒ、ハイバトゥル、ドゴズルのタイフェで、優れた結び目のあるパイルワークで知られています。
シェシュボルキ族は 19 世紀末のカシュガイ族の総生産量の約 3 分の 1 を生産しました。
アマレ族のタイフェは、アルド カパン ティレ内で素晴らしいキリムとガッベを生産しました。
ダレシュリ族のタイフェも同様です。
ダレシュリ族はルリ族の近くに住み、ロリ バフティヤリ族のデザインの象徴を作品に取り入れました。
その他の重要な織り手としては、イグデル族とラヒムル族(ともにアマレ族のティレ)、サフィ・ハニ族(ダレシュリ族のティレ)、シェカルル族とヤラメ族(ともに現在は定住)、そしてアマレ族とともに移住したチェゲニ族がいました。

ハムセ

ハムセ

アラビア語で「5」を意味するカムセは、アラブ部族、バハルル族とアイナル族 (ともにトルコ系)、ナファル族とバセリ族 (ともに民族的に混合した部族) を指します。
この連合は、近隣の連合であるカシュガイ族の勢力拡大に応じて 1860 年代に結成されました。 1860年、カシュガイ族の勢力拡大に対抗するため、シーラーズのガヴァム家が 5 部族連合を結成しました。
カシュガイ族は、この地域におけるガヴァム家の強い政治的利益だけでなく、商業的利益にも脅威を与えました。
シーラーズのガヴァム本部からペルシア湾へ向かう途中、商品を運ぶキャラバンはカシュガイ族の襲撃を受けました。
この地域でカシュガイ族の勢力に対抗できる新しい勢力を確立するため、アリ・ムハンマド・ガヴァム・ウル・ムルクは、自らをイル・ハーンとして「5人の連合」、カムセ連合を結成しました。
この連合は、1950年代に故国王モハメド・レザーによって最終的に解散され、もはや政治的団体としては活動していません。
しかし、ハムセの名はこれらの部族の織物群を示すものとして、いまでも使用されています。

構成部族の中には、はるか昔に村落生活に定着し、もはや遊牧民の形態をとらないものもあります。
バシリ族だけが、1990年代までほぼ完全に遊牧民のままでした。
ハムセ連合内で最大かつ最も強力な部族グループは、アラブ部族であり、7世紀のアラブ人の征服とイスラム教の到来直後にファールスに入植したと考えられています。
アラブの遊牧民はナジュド族、ヤマメ族、オマーン族の子孫で、主にジャバレ族とシェイバニ族の 2 つの部族から構成され、そのうちジャバレ族だけが織工でした。
彼らは織工としての技術を、先住民のルリ族とペルシア族から学んだと考えられている。
部族の一部は独自の言語を保持していますが、遊牧民と定住民の両方がペルシア語、さらにはトルキ語を話すします。

アラブのジャバレ族の初期の絨毯は、鮮やかな青と赤を取り入れた見事な色彩をしています。
人気のデザインはモルギ(鶏)で、一部の作品ではそれが主流のようです。
この部族の織物のほとんどは非対称の結び目を特徴としていますが、対称の結び目もいくつか見られます。
側面または耳は、さまざまな色のセグメントで覆われています。
これらはすべて織物自体に見られます。
バハルル族は、おそらく11世紀の大量移住中にトルキスタンを離れたトルコ系のカラコユンル族の子孫であると一般に考えられています。
13世紀には、カラコユンル族はペルシャ北西部のハマダン地方のバハルに記録されており、最終的には南のファールス州に移住しました。
アイナル族もトルコ系の血統です。
彼らの祖先は、18世紀に西トルキスタンの故郷を離れ、南のファールスに来ました。
しかし、両部族はカシュガイ族より1世紀早くファールスに到着したと考えられています。
彼らは、西トルキスタン語を話すカシャイ族とは異な​​り、東トルキスタン方言を話します。
20世紀初頭から定住しているバハルル族とアイナル族は、ダフラブとファサ地域を拠点としています。
彼らの織物は高品質で、近隣のカシュガイ族の織物と同等でした。
バハルル族とアイナル族の織物の特徴の1つは、2 列の赤みがかった横糸の間に対称的な結び目を使用することです。
デザインはザクロの木に基づいており、これはおそらく彼らの古い故郷トルキスタンから持ち込まれたものと思われます。
これはサマルカンドとホータンのアンティーク ラグでよく見られる特徴です。
執筆時点では、バハルル族とアイナル族のラグやその他の織物の起源を正確に特定することは困難です。
「カムセ連合」の織物に関する研究はまだ初期段階にあります。
バシリ族はペルシア語を話し、2 つのタイフェ、アリ ミルザイ族とヴァイシ族の同盟の末裔である。
アリ ミルザイ族はファールス地方の先住民であるが、ヴァイシ族はホラーサーンからファールス地方にやってきたと考えられています。
サファヴィー朝後期以降、バセリ族はアラブ・シェバニ族の首長の支配下に置かれ、1862 年にカムセ連合が結成されました。
ナファル族はトルコ系とロル系部族の同盟で、ザンド朝 (1759-1779) には強力な部族勢力であり、バハルル族を支配していました。
ナファル族は上質なキリムと鞍袋 (ホルジン))を生産しました。
ナタール族の織物の特徴の 1 つは、「灌木」と「鶏」の模様の使用です。
これは、ナファル族の絨毯の95%を占めています。

アフシャル

アフシャル


アシャールの起源は、12世紀初頭にトルキスタンのキブチャグ平原を離れペルシャに入国したトルコ系オクズ族またはグズ族のチャンにまで遡ることができます。
部族の大半はペルシャ湾の先端にあるフゼスタンに定住しましたが、そこではほとんど地位がありませんでした。
しかし、1140 年頃、シュムラという名の強力な新指導者が部族を支配し、フゼスタンとルリスタンを統治しました。
彼はまた、ファースを支配しようと試み、当初はある程度成功しましたが、最終的にはフゼスタンに追い返されました。
シュムラの死後しばらくして王朝は終わり、彼の孫たちはバグダッドのカリフに捕らえられ、その後3世紀にわたって部族の消息はほとんど聞かれなくなりました。
16世紀初頭、アフシャル族はキズィル・バシュ連合の一部である他の 6 つの部族を支援し、シャー・イスマイルをペルシアの王位に就ける (1499-1524) のに重要な役割を果たしました。
しかし、このころには、アフシャール族の重要な一派が再びアゼルバイジャンに移住していました。
その間、シャー・イスマイルはキズィル・バシュの部族から指導者を任命し、ペルシアのさまざまな地域を統治させることに決めました。
これらの指導者は、保護のために自らの部族の多くを連れて行き、これがペルシア国内でのアフシャール族のさらなる分散の始まりとなりました。
一部の地域では、アフシャール族は独自の習慣と伝統を守りましたが、他の地域では他の部族に吸収されました。

フゼスタンのアフシャル族は、12 世紀以降、この部族の最も古い故郷であり、今日までそのアイデンティティを保持している唯一の氏族はグンドゥズルです。
アゼルバイジャンのアフシャル族は、サファヴィー朝を権力の座に就かせるのに重要な役割を果たし、サファヴィー朝の統治期間中、ペルシャ全土で重要な地位を占めていました。
最も重要な氏族は、イヌル族、アルプル族、グンドゥズル族、アラシュル族、カゼムル族、クフギル族です。
カムセのアフシャール族は、主にザンジャン、ハマダン、アバールの村に住み、シャーサヴァン族、バヤット族、カラゴル族などの他のトルコ系部族と混交しています。
彼らの織物は主に粗い結び目のパイルラグで構成されており、これまでも、そして現在も、単に「カムセ」ラグと呼ばれています。
これらのハムセ絨毯は、ペルシャ南西部のファールス地方のハムセ連合部族の優れたラグやカーペットと決して比較されるべきではありません。

ホラサンのアフシャル族 – シャー・アッバースの治世中にアゼルバイジャンから移住を余儀なくされ、ウズベク族とトルクメン族によるペルシャへの絶え間ない攻撃に対する緩衝地帯として機能した。
ホラサンに移住した最大かつ最も重要な一族は、クチャン、シルヴァン、ボジュヌールド地域に定住したケミシュゲゼク族です。
ホラサンの他のアフシャル族の一族は、カゼムル族、バケシュル族、キリグル族であり、いずれもダレ・ガズとカラト・ナデリの間のヘザール・マスジェド山脈の麓に定住しました。

ケルマンのアフシャール族 – 1510年頃にこの地域に移住したアフシャール族の最も重要な集中地である。
ケルマーン州はイギリスよりも広大で、その土地の大半は不毛の砂漠である。
ジェバル・バレズの山々は標高 4,500 メートル (14,750 フィート) を超え、夏は涼しい気候です。
ペルシア湾まで広がる低地は、部族の冬季キャンプ地として暖かいです。
アフシャル族がケルマーン州に到着する何世紀も前、この地域にはペルシア語、トルコ語、アラビア語を話すさまざまな部族が住んでいました。
アフシャル族とは関係のない約30の部族がケルマン州に住んでいたと考えられています。
最も重要な部族には、3つのバルーチ族 (アブドゥギ族、モハマド・レザ・ハーニ族、ハサン・ハーニ族)、2つのルリ族 (ルードバリ族、ミルザ・ホセイニ族)、およびラク族のグループがあります。
最も重要なアフシャル族は、アフシャール・アモウイ、ブーチャクチ、アリ・クズル、アシュラフルー、カゼムル、ピル・モラドル、ラデラズル、ミルジャニ、カライ・トルコ、アグタイ・アフシャルです。
ケルマン・アフシャルの織物は、間違いなくペルシャの部族の中で最も多様であり、初期の絨毯はウールの縦糸と横糸の土台の上に対称的に結ばれていました。
すべてのアンティークの絨毯とカーペットは、10~15cmの深さの長く平織りの端を持っています。
綿の縦糸、横糸、またはその両方が使用されていることは、一般的に後期の織物、つまり 20 世紀に織られ、遊牧民の環境ではなく村で織られたことを示しています。
ケルマン州では綿花が栽培され、機械加工されることが多かったが、当初は羊毛を大量に保有していなかった村人たちにとって実用的なものであったと思われるが、やがて遊牧民のアフシャール族にも使用されるようになりました。

アフシャルの織物に見られるデザインは非常に多様で、すべてを図解するには非常に分厚い本が必要になるでしょう。
多くのアフシャールの絨毯に使用されている「ボテ」デザインは、18世紀後半から19世紀初頭にかけてショールから絨毯へと両方を移行したケルマーンの織工から採用されました。
カジャール朝の王とその廷臣たちは、両方の絨毯を大いに愛していました。
そしてショール。
アフシャール族はボテを使った最初の部族織り手の一つであり、彼らの作品の中でも最も古くて素晴らしい作品のいくつかにボテが見られます。
パイルラグは圧倒的に数が多いですが、アフシャール族が作った平織りの優れた作品も数多くあります。
ただし、初期の作品は現在では極めて希少です。

トルクメン

トルクメン

トルクメンは、中央アジアの主要なトルコ系民族で、人口は約900万人。
そのうちの半数近くがトルクメニスタン共和国に居住していますが、イラン、アフガニスタン、ウズベキスタン、パキスタンなどにもいます。
テュルク系言語の一つであるトルクメン語を母語とし、イスラム教スンニ派を信仰しています。

トルクメンは西アジアや中央アジアの多くの部族と同様に、文書化された歴史がありません。
10世紀以降、イスラーム世界の歴史書ではテュルク系民族のオグズの別称としてトゥルクマーンという名称が使われるようになりますが、このトゥルクマーンとトルクメンに直接的な関係があるか否かについては明らかになっていません。
このオグズ起源説のほか、マッサゲタイ、エフタル、サルマタイ、アランなどのステップ地帯の遊牧民とマルギアナ、パルティア、ホラズムなどの定住民との混血によって民族が形成された説も唱えられています。

15世紀から16世紀にかけての時期にはトルクメンはカスピ海東岸に居住しており、16世紀初頭のマンギスタウ半島には多数の部族が混在していました。
17世紀から19世紀にかけて、トルクメン人はカスピ海沿岸部からコペトダグ山麓やアム川下流域のホラズム地方に移住し、半農半牧の生活を営むようになりますが、部族間での抗争を繰り返しました。
20世紀初頭には31部族に分かれていましたが、1924年ソ連による境界画定によりトルクメン社会主義共和国を形成しました。
トルクメンの主な部族には、サロール、サリク、テッケ、チョドル、ヨムート、ゴクレン、ジャッファルバイ、オグルジャリ、イムレリ、イグディル、アタバイ、アブダル、エルサリ、チョブバシュ、ベシル、キジルアヤク、アラバチがあります。

トルクメンの女性たちは優秀な絨毯織職人でもあり、彼女らの作品は中央アジア全域、特にブハラの市場で売買されていました。
このため、西洋では誤って「ブハラ」絨毯とみなされていました。
しかし、近年の関心と研究が高まり、これらの絨毯を製作した部族で特定しようとする努力がなされています。
そのため、今日ではトルクメンの絨毯をサロール、テッケ、ヨムート、エルサリ、サリク、チョドル、アラバチなどの部族名で特定するのが一般的になりつつあります。
しかし、トルクメンの絨毯を特定の部族に帰属させるには多くの問題があり、下位部族に帰属させようとするとさらに困難になります。

絨毯に使用されているギュルやその他の文様で部族を特定するだけでは十分ではありません。
それらは他の部族によって模倣されたからです。
戦闘を通じて部族の同化が起こった場合、同化した部族や弱い部族の織手は、自分の部族の紋章のギュルを絨毯の「小さな」装飾として使うことは許されますが、支配的な部族のギュルを「大きな」装飾として使わなければなりませんでした。
ただし、織り方までは強制されなかったため、織手は自分の部族から教わった方法で結びます。
こうして、さらに混乱が生じたのです。

織りの技術はトルクメン族の間では尊敬される職業であるだけでなく、貴重な資産でもありました。
遊牧民の生活に必要不可欠なだけでなく、織られた絨毯は困難な時期に対する保険でもありました。
干ばつやその他の困難な時期には、家族の男性は家から余った絨毯や織物を片付け、メルヴやブハラの市場で売りました。
何世紀にもわたって商人たちが集まり、交渉の余地はありませんでした。
例外は貴重な結納品の織物で、これは家族の最も貴重な財産とみなされていたため、売却は最後の手段だったのです。
トルクメン絨毯の図像的モチーフを解釈する能力は、過去1世紀ほどの間にその起源に関する知識とともに失われてしまいました。

バルーチ

バルーチ

バルーチはイラン系のバルーチ語を母語とする遊牧系部族で、人口は推定800~900万人。
その多くは、パキスタン南西部からイラン南東部に跨るバルーチスタンと呼ばれる地域に居住していますが、一部はアフガニスタン北西部、トルクメニスタンにもおり、パキスタンでは人口の約3.6%、イランとアフガニスタンでは約2%を占めています。
バルーチという名の由来については諸説あり、バビロニアの王と神ベルスに由来するとする説、カスピ海とヴァン湖に挟まれたバラシガンに住む「バラシク」という名の部族に由来するとする説、サンスクリット語で強さを意味する「バル」と壮大を意味する「オチ」に由来するとする説等があります。
勇猛果敢で忍耐強く、忠誠、もてなしを美徳としており、イスラム教スンニ派を信仰していることで知られています。
ただし、ホラサン地方に居住するバルーチについては周囲のイラン人に同化し、シーア派を信仰している者が大半です。

バルーチの起源については明らかではありませんが、バルーチ語がササン朝初期のペルシャ語やパルティア語、クルド語との関係が認められるインド・ヨーロッパ語族に属するものであることから、アーリア民族の一部であると考えられています。
研究によれば、遠くは中央アジアのスィール川とアム川とに挟まれた地域に暮らしており、人口増加などの理由から、紀元前2000年頃にバルフ周辺に移動した集団があり、彼らは現在のイランの東部と北東部に定住。
更にこの集団の一部はのちにイラン西部に進出し、いくつかの部族に分かれたとされます。
バルーチは644年にアラブ人によって征服されたケルマン地方に居住する遊牧民として初めて歴史に登場します。
その後、セルジュク朝がホラサンとシスタンに侵攻しバルーチは大きな被害を受けて東進を始めますが、ガズニ朝とのハビスの戦いで大敗を喫し、今日バルーチスタンとよばれる地域に逃れました。
インド洋に面するマクラーンでジャット族、更に北のブラーフ族を糾合してシンドからパンジャブに進出。
ムガール朝を樹立するバーブルによるデリー攻略に参加しました。

バルーチの絨毯には、何世紀にもわたる長く誇り高い歴史があります。
これらの絨は、イラン西部の遊牧民、通常はケルマン州、南ホラサン州、シスタン・バルチスタン州に居住するバルーチの定住民によって製作されています。
ラグ織り職人は伝統的な技術を使用して、幾何学的な形、大胆な色、複雑な花柄など、彼らの文化を反映するモチーフを組み込んだ美しいデザインを生み出します。
バルーチ絨毯に使用される素材は、ウールやコットンからシルクやジュートまで多岐にわたります。
地域に応じてバルーチ絨毯には長方形だけでなく、八角形や正方形など、様々な形状があります。
バルーチ族のペルシャ絨毯を作るための生産プロセスは労働集約的であり、多くの場合、複数の家族が関与します。
まず、ウールまたはコットンを糸に紡いで、強くて耐久性のある基盤を作ります。
次に、織り手はラグのデザインを慎重に測定し、マークを付けてから、ラグに独自のパターンと色を付けます。
最後に、何時間もかけて結び目の列を一つ一つ手で結び、保護裏地でラグを仕上げ、何年も頑丈に保ちます。
大きなサイズのバルーチ絨毯はほとんど見つかりません。

バルーチ族のペルシャ絨毯には、何世紀にもわたる長く誇り高い歴史があります。これらの精緻な芸術作品は、イラン西部の遊牧民、通常はケルマーン州、ホラーサーン州、シスタン・バルチェスターン州の村の人々によって作られています。
ラグ織り職人は伝統的な技術を使用して、幾何学的な形、大胆な色、複雑な花柄など、彼らの文化を反映するモチーフを組み込んだ美しいデザインを生み出します。
Baluch ペルシャ絨毯に使用される素材は、ウールやコットンからシルクやジュートまで多岐にわたります。
産地に応じて、これらのカーペットには、長方形、八角形、正方形などのさまざまな形があります。
バルーチ族のペルシャ絨毯を作るための生産プロセスは労働集約的であり、多くの場合、複数の家族が関与します。
まず、ウールまたはコットンを糸に紡いで、強くて耐久性のある基盤を作ります。
次に、織り手はラグのデザインを慎重に測定し、マークを付けてから、ラグに独自のパターンと色を付けます。
最後に、何時間もかけて結び目の列を一つ一つ手で結び、保護裏地でラグを仕上げ、何年も頑丈に保ちます。

トライバルラグの製作工程

トライバルラグの製作工程

トライバルラグの製作工程はシティラグ(都市部の絨毯)と基本的には同じですが、いくつかの工程が省略されています。
まず、トライバルラグの製作には意匠図を用いません。
デザインは織手が織りながら考えます。
また、いくつかの工程が省略されており、品質管理もなされていません。
仕上についても専門の仕上師に依頼するのではなく、自分自身あるいは共同作業によって行われます。
当然、完成品の精度はシティラグに大きく劣りますが、それもトライバルラグならではの「味」として、愛好家やコレクターには、むしろ歓迎される傾向にあります。

  1. 毛刈:羊の毛を刈り取ります(この作業を「剪毛」とも言いますが、7と区別するため本サイトでは「毛刈」を用いています)。
  2. 梳毛:刈り取ったウールを梳毛具にかけ、余分な油分やゴミを取り除きます。
  3. 撚糸:ウールを紡錘や糸繰車で撚って毛糸にします。
  4. 染色:毛糸を染めます。
  5. 整経:水平型織機に縦糸を張ります。
  6. 製織:縦糸に横糸とパイル糸とを絡めて絨毯を織ってゆきます。
  7. 洗浄:剪毛時に付着した糸屑や汚れを水で洗い流します。
  8. 乾燥:洗い終わった絨毯を天日で乾燥させると完成です。

トライバルラグの用途

トライバルラグの用途

トライバルラグは部族民の生活において、とても重要な役割を果たしています。
トライバルラグは厚みがあり保温性が高いため、テントや家の床に敷いたり壁に掛けることで暖かさや快適さを提供します。
とりわけ寒冷地での生活においては大変重宝されます。
また、部族民をトライバルラグを馬の鞍の下に敷いたり、荷物を収納する際にも使用します。
絨毯は頑丈で丈夫な素材で作られているため、移動中に荷物を守るのに適しているのです。
テントや家の中ではクッションとして使用したり、絨毯の上で食事を楽しんだりします。
絨毯は豪華で美しい装飾が施されていることが多いため、祝祭や集会の際には重宝されます。

メインラグ

メインラグ

メインラグはもとは移動式の住居であるテント内に敷かれる絨毯で、ドザール(約140×約210)のサイズが一般的ですが、テントの大きさに合わせて製作されるため、サイズにばらつきがあります。
これらのラグは、遊牧民族が移動生活を営む上で不可欠なものであり、移動の際に嵩張らないよう、また水平型織機を用いて製作するため、あまり大きなサイズはありません。
地面に隙間ができないよう何枚も敷くというスタイルです。
メインラグは、彼らの伝統的な生活様式や文化を反映しており、そのデザインや構造により、どの部族が製作したものかを特定することができます。
特別な機会に使用される、いわば「ハレ」の敷物で、カシュガイやルリが製作する絨毯については、普段使いのギャッベと区別されます。
部族民の財産ともなるメインラグはかつて嫁入り道具として製作されたほか、バザールで換金されることもありました。

プレイヤーラグ

プレイヤーラグ

プレイヤーラグはイスラム教徒である部族民が日常的な礼拝に用いる絨毯で、イランでは「ナマーズ・リク」あるいは「アーヤト・リク」と呼ばれます。
スンニ派は一日5回、シーア派は一日3回、これを地面に広げてその上で礼拝します。
通常はミフラブ・パターンを用いて製作されますが、同じ部族でも様々なデザインがあります。
プレイヤーラグは、ザロチャラケからザロニムまでのサイズが一般的で、都市部の絨毯とは異なり、それより大きなものはまず見かけることはありません。
ただし、小さな子供用にポシュティのサイズで製作されることはあります。
トルクメンは礼拝用としてだけでなく、葬儀用として死者を墓に運ぶ際にも用いていました。
部族のプレイヤーラグは、デザインの面白さからとても人気があり、タペストリーにも最適です。

鞍袋

鞍袋

「ホルジン」と呼ばれる鞍袋は、荷物を運ぶ目的で動物の背中に置かれるバッグです。
ホルジンは遊牧民の結び目のない手織りの1つで、通常は伝統的なモチーフが付いており、開口部の半分を縫い合わせる2つの袋で構成されています。
ホルジンは部族民によって、特に移動中に精巧で貴重な品物を運んだり保管したりするために使用されており、ほとんど箱のようなものです。
ホルジンのような布製の箱の一種は、ホルジンバイクとして知られるサイクリングにも使用されます。

馬着(ばちゃく)

馬着(ばちゃく)

馬着は馬衣ともいい、馬具の一つで馬の衣服のことです。
頭部、頸部、脚部を除いた胴体部分をすっぽり包むように凹形をしており、胸部の前で閉じ合わせ、胴体下部と臀部に布製のベルトをクロスさせて固定します。
部族民は馬を重要な交通手段や財産として扱うことが多いため、鞍敷は馬のケアや快適性を重視する必需品として使用されています。
鞍敷は通常、絨毯やキリムなどで作られ、馬にとって適切な吸湿性や通気性、保温性を持つとともに、虫刺されを防ぐ効果もあります。
馬着にはしばしば装飾や模様が施されており、遊牧民族の文化や伝統を反映していることもあります。

塩袋

塩袋

塩袋は岩塩を保存する袋です。
イランでは「ナマクダン」といいます。
塩は人間を含む動物が生きてゆく上で、なくてはならないものです。
凸型のユニークな形状が特徴ですが、これは家畜たちが勝手に舐めることができないようにしたものです。
手を入れる開口部を最小限にしています。
塩袋がミフラブの形をしていたのは単なる偶然ではないでしょう。
塩は遊牧民の生活に欠かせないものだったからです。
塩袋の形自体が神聖なシンボルであり、モスクや礼拝用敷物にあるミフラーブや礼拝用の壁龕の形に直接関連していま した。

寝具袋

寝具袋

「マフラシュ」と呼ばれる寝具袋は、移動しながら生活を営む遊牧民族が使用する寝具や衣類を収納するための袋のことです。
寝具袋は通常、キリムやソマックで作られますが、傷みやすい部分にはパイル織りが用いられることもあります。
寝具や枕、毛布などを収納するために横長の箱のような形状をしています。
遊牧民族が移動する際には、寝具袋に寝具類を詰め込んで持ち運び、次の場所に到着した際にすぐに寝具を取り出して使用することができます。
寝具袋は、遊牧民族が移動中に寝るための寝具を保護し、整理するために重要な役割を果たしています。
また、寝具袋は嫁入道具の一つと捉えられることもあります。

食事敷

食事敷

ソフレは部族の女性によって平織りされた小さなカバーで、部族生活の伝統的な日常業務や儀式で重要な役割を果たしていると同時に、それを作るペルシャの部族グループの非常に多様な装飾レパートリーの典型となっています。
ソフレは、バクチアリ、クルド、アフシャル、バルーチなどの部族民によって製作されています。
ソフレ (アラビア語の「sufrah」は「食卓」を意味する) は、神聖なものとされる食物を置くために地面に敷かれる平織のキリム です。
ソフレは、食物を汚さずに食べることができる清潔な表面として象徴的に使用されます。
これらのソフレは、主にイラン中南部のケルマンやシルジャンのの部族集団のテントや小さな田舎の村で編まれており、ソフレ・アルディとソフレ・イェ・ナン・パジ(パンや小麦粉のソフレ)という名前で呼ばれています。
ソフレ・アルディは、神聖なものとされる食物を置くために地面に敷かれる平織のキリムです。
ソフレ・イェ・ナン・パジは、通常約 1 メートル四方で、パンの準備中に生地が地面に落ちるのを防ぐために使用され、また、焼いた後にパンを反らせて新鮮さを保つためにも使用されます。通常はキリムで製作されます。

駱駝袋

駱駝袋

ジュバル

小麦粉袋

小麦粉袋

タシェ

クッション

クッション

遊牧民のクッションは、座るためや寝るために使用される、通常は柔らかい敷物や枕のことを指します。
遊牧民は移動しながら生活を営むため、快適な座り心地や寝心地を提供するためにクッションを使用します。
クッションは、一般的に布や毛皮、羽毛などで作られ、手織りや手作りのものが多いです。
遊牧民のクッションは、しばしば地域や民族の伝統的な技術や装飾が施されており、その文化を反映しています。
クッションは、座る場所や寝具として使用されるほか、装飾や儀式などにも利用されることがあります。
遊牧民のクッションは、移動中の快適さや生活の質を向上させるために重要なアイテムとして使用されています。

バッグ

バッグ

遊牧民のバッグは様々な素材や技法を使って作られ、地域や民族の文化や伝統が反映されています。
遊牧民のバッグは、伝統的な素材を使用して作られることが多いです。
例えば、羊毛や山羊毛、綿などの天然素材が使われることが一般的です。
遊牧民のバッグのデザインは、しばしば幾何学的な模様や民族固有の文様が施されています。これらの文様には、民族の歴史や信念、自然環境に関連する意味が込められていることがあります。
遊牧民のバッグは、伝統的な手織りや手編みの技法を用いて作られることが多いです。
織りや編みの技術は、世代から世代へと受け継がれており、その技法によってバッグの独特な質感や風合いが生み出されます。
遊牧民のバッグは、その地域や民族の文化や生活様式を象徴する重要な手工芸品であり、美しいデザインと繊細な制作技法が組み合わさっています。
これらのバッグは、装飾品や日用品としてだけでなく、文化遺産としても重要な存在として扱われています。

その他

その他

トルクメンは上記の他にも様々な用途で絨毯を製作します。。
詳しくは【トルクメンの生活に用いられるトライバルラグ】をご覧ください。

トライバルラグの文様

トライバルラグの文様

トライバルラグには各部族によって独自のパターンや文様が施されています。
トライバルラグの文様は、地域や民族ごとに異なり、そのデザインには特定の意味や象徴が込められていることがあります。
多くのトライバルラグには幾何学的な文様が用いられており、繊細な織り目で織り込まれています。
これらの幾何学的なデザインは、民族や地域の伝統や信念を表現するために用いられています。
また、一部のトライバルラグには、自然や動植物をモチーフとした文様が取り入れられています。
これらの文様は、環境や生活様式に密接に結びついており、その地域や民族の特性を反映しています。
トライバルラグの文様には、特定の象徴や意味が込められている場合があります。たとえば、幸運や繁栄を願う文様や、伝統的な物語や神話を表す文様などがあります。
トライバルラグの文様は、その製作者の文化や信念、生活様式を反映しており、美しいデザインの背後には豊かな歴史や伝統があります。

亀

亀は長寿と多産の象徴です。
遊牧民の信仰では、カメは長寿と多産の象徴です。母親は娘が長生きしてたくさんの子供に恵まれるように、亀の模様の敷物を織っています。
亀の模様が入った絨毯は、娘が長生きしてたくさんの子供を産めるように、母親が娘のために織るのが一般的です。
数年前までカシュカイ族の母親たちが編んでいた幅広のリボンも、その亀の主なシンボルでした。
リボンの両端を縫い合わせ、真ん中にわらを詰めて馬の背中に結び付けました。
花嫁はそれに座って、式典中に新郎の家に連れて行かれました。

ダイヤモンド

ダイヤモンド

このデザインは遊牧民のカーペットでよく使われます。
古代人は、この役割が目の痛みを取り除くのに役立つと心から信じていました。
ひし形またはひし形のシンボルが内部に入れ子になっており、このシンボルはより強力にするために他のいくつかのシンボルと組み合わせられることがあります。
過去何世紀にもわたって遊牧民の絨毯で何度も繰り返されてきたモチーフやシンボルの1つが菱形のシンボルです。
このパターンは、より強力にするために他のいくつかのパターンと組み合わせられることがあります。
私たちの先祖は、手工芸品で目の痛みを避けるためにこのパターンを使用しました。
彼らは、この役割を使えば目の痛みを避けることができると心の底から信じていました。
いくつかの遊牧民の部族にとって、ダイヤモンドの記号はさまざまな意味を象徴していました。
一部の人々は、人間の目を表すためにダイヤモンドを使用し、ラグのデザインは不吉な視線に対する抑止力として機能しました。
他の部族の絨毯を購入すると、ダイヤモンドは女性の象徴として使われ、2つのダイヤモンドがつながっている場合は、男性と女性の代わりとなります。

三角形

三角形

遊牧民の信仰では、三角形は悪魔の印です。
この模様はカーペットのモチーフや縁の隣に織り込まれており、カーペットの広い場所に悪魔の力が行くのを防ぎます。
連続した三角形のモチーフは、今でも多くの遊牧民や田舎の絨毯に見られます。
昔の遊牧民の信仰では、三角形やピラミッドは悪魔の象徴であり、それをカーペットのモチーフや境界線の横に使用することで、カーペットが広い場所に悪魔の勢力が侵入するのを防ぐことができます。
連続した三角形のモチーフは、今でも多くの遊牧民や田舎の絨毯に織り込まれています。

エンドレス・ノット

エンドレス・ノット

エンドレス・ノットは紐の結び目を意匠化した文様で、インドに起源を持つとされます。
チベット密教では八つの吉祥の一つとされ、また中国においても結芸などの工芸に用いられてきました。
日本の水引は、これが中国から伝わったものといわれています。
トライバルラグに見られるエンドレス・ノットは花の正面形であるロゼットの一種と考えられます。
しかし、イスラム建築などにも似た文様が見られることから、ティムール朝期に中国へ留学していた画学生によって吉祥を意味するこの文様がもたらされた可能性も捨て切れません。

羊の角

羊の角

雄羊の頭のシンボルは偉大さと高い地位の象徴です。
トルクメン人はハン・イルのテントに羊の頭の模様を織ります。
ひし形の模様が織り込まれた雄羊の頭には、カーンや人の目を癒す力があります。
雄羊の頭は素晴らしいシンボルであり、このシンボルは人々や部族の中で高い地位にある人々のシンボルです。トルクメン人は、カーン・イルシャンのテントに羊の頭の模様を織ります。
ひし形の周りに編み込まれた雄羊の頭には、カーンや人の邪悪な目を治す力があります。
歴史を通じて、雄羊の角はグループを一つにまとめるために使われてきました。
雄羊の角は強さ、力、豊穣を象徴し、人生そのものが一時的なものではなく永遠であることを示唆しています。
雄羊の角の模様を絨毯に織り込んだ女性は、モチーフとして象徴される男性らしさ、力、豊穣、英雄的精神のため、将来の配偶者にそのような特性を望んでいたと考えられます。
羊と雄羊は、暖かさと快適さの重要な源であり、羊毛は部族の生活の中心でもありました。

蟹

古代人の信仰では、蟹の役割は悪を追い払うことです。
蟹は星座の一つで厄災や厄災を取り除く星座です。
昔、先祖たちは星座を深く信じていました。
カニの役割は邪気を払うことです。
私たちの祖先は星座に対する奇妙な信仰を持っており、カニを星座の一つと考えていました。
一部の遊牧民の絨毯では蟹が多用されているのが分かりますが、それは災難や厄災を取り除くためでもあります。

ライオン

ライオン

最も強力な地球の力はライオンです。
ライオン柄の絨毯は権力者への贈り物として贈られました。
このシンボルは、ポジティブな力を引き付けるために織られています。
それは地球上で最も強力な力です。ライオンの模様が描かれた絨毯は、カーンや一族の有力者への贈り物として贈られました。
この役割の質感の意味は、このカーペットを贈り物として贈られた人にポジティブな力を引き付けることです。

山羊

山羊

イラン人の神話文化では、山羊は雨を求める象徴とされています。
山羊のシンボルは、ほとんどの遊牧民のパターンで繰り返されます。
また、この文様はガゼルを表すものとの意見もあります。
ガゼルはアフリカからアジアにかけての砂漠地帯に生息する中型の羚羊(アンテロープ)で、ウシ科の動物の中では最もスマートな姿をしています。
部族民たちは自然の動物たちが持つ能力を自らの中に培おうとしました。
ガゼルは、あらゆる状況や人生の場面で発揮できる俊敏さの他、優美さや威厳といった意味を持つとされています。

蛇

雲流文様として知られるS字の文様は、蛇を表すものと言われます。
イランの文化では、蛇は健康と保護の象徴です。
この文様はまた、龍を表すものともされます。
龍は蛇と同様に、悪魔の力を守り、追い払う義務があります。
つまり男性的または天上の生命原理を表すと考えられています。
また、太陽の生命力を表すゾロアスター教のシンボルに由来するとする説もあります。
太陽は永遠に輝き、常に差別なくすべてのものを養うという特性を体現しています。
トライバルラグのあちらこちらに小さなS字が散りばめられているのはこのためかもしれません。
太陽はまた、人間が内面の発展を目指すことで得られる、中心的な照明の性質も表しています。

S字

S字

雲流文様として知られるS字の文様は、蛇を表すものと言われます。
イランの文化では、蛇は健康と保護の象徴です。
この文様はまた、龍を表すものともされます。
龍は蛇と同様に、悪魔の力を守り、追い払う義務があります。
つまり男性的または天上の生命原理を表すと考えられています。
また、太陽の生命力を表すゾロアスター教のシンボルに由来するとする説もあります。
太陽は永遠に輝き、常に差別なくすべてのものを養うという特性を体現しています。
トライバルラグのあちらこちらに小さなS字が散りばめられているのはこのためかもしれません。
太陽はまた、人間が内面の発展を目指すことで得られる、中心的な照明の性質も表しています。

魚

魚のシンボルは生命の木の守護者であり、生命の守護者です。
魚は太陽や生命の木の隣に編まれています。クルディスタン、トルコ、ペルシャで作られたラグには、魚のデザインがよく見られます。
これらのモチーフは、ペルシャ語で「マヒ」と呼ばれることが多く、魚に似た長い形で描かれることが多く、幸運と富をもたらすと言われています。

十字

十字

このシンボルは 4 枚の花びらを持つ花に似ています。
遊牧民は、世界は水、風、土、火の4つの要素で構成されていると信じています。
四季、4週間、これらのアイデアの4つの主要なシンボルは、遊牧民のカーペットの 4 つの部分のシンボルの形をしています。
十字架は必ずしもキリスト教を意味する訳ではなく、土、空気、火、水の自然の4つの力を現したものです。
別のテーマと組み合わせると、モチーフの意図された用途が変わります。
たとえば、4方向すべてからの悪をかわす 1 つの方法は、十字架を含むダイヤモンドのシンボルを探すことです。
このシンボルは 4 枚の花びらを持つ花に似ていますが、遊牧民は、世界は水、風、土、火の 4 つの要素で構成されており、私たちには4つの主要な方向があり、それぞれの年には4つの季節があり、各月には 4 週間があると信じています。
そして… これらの論理的なアイデアは、4つの部分からなるシンボルの形状が遊牧民の絨毯で際立っています。

犬

犬は戦争と一族と家族の防衛の象徴です。
織られた絨毯の中には、翻訳するとその時代に起こった出来事や戦争について物語る模様が描かれているものもあります。
カーペット上の人間と犬のシンボルはイベントを表しています。

孔雀(くじゃく)

孔雀

孔雀は人を欺く鳥として知られています。
このシンボルは、カーペット上の欺瞞やトリックを防ぐために使用されます。
この美しい鳥は私たちの文化ではあまり良い歴史を持っておらず、美しい頭と形と醜い足を持ち、誘惑し、欺く鳥として知られています。
このシンボルは、カーペットの欺瞞や策略を防ぐために使用されました。

怪獣

怪獣

怪獣といえば怪獣映画に登場する恐竜のような巨大な動物を想像しますが、本来は正体不明の不思議な獣のことで、神話や伝説口碑などで創られたものや、実際の動物の瞥見(べっけん)や伝聞に空想を加えて創りあげられたものなどがあります。
イランではアケメネス朝以前の時代から登場しますが、カシュガイやハムセのトライバルラグには鳥とも獣とも判別できない双頭の動物がよく見られます。
これはアラブ族が考案した文様とされ、ファース地方独特のものです。
常識では考えられない能力を身につけたいとの願いから派生した文様であると思われます。

鷲

この鳥は常に超自然的な力と強さの象徴です。
ワシは常に高く飛ぶ力強い鳥として知られています。
この鳥は高く飛ぶ力強い鳥として昔から有名です。この鳥は地球上の超自然的な力と力の象徴です。

この鳥は遊牧民にとって神聖な鳥です。
それは闇の終わりと新たな始まりの到来を告げる

パルメット

パルメット

この花は強さと健康の象徴であり、アケメネス人の主な象徴です。
古いイラン絨毯のひし形の中に、よく蓮の花が見られます。

樹木

樹木は生命の象徴です。
このシンボルは、遊牧民にとって絨毯の重要性の高さを示す、遊牧絨毯の主要なシンボルの一つであると言えます。

龍

東洋の世界では、龍は地球に常に存在する天の影響力の象徴です。
龍は男性的または宇宙的な要素であり、生命に活気を与え、すべてのものに見られる活動的な原理です。
龍は、女性的または土の要素である鳳凰との関係で示されることがよくあります。
この受容的な原理は、生命を形に具体化し、成長するように育てます。
古代中国の宮廷では、皇帝は龍の付いたガウンを着ており、皇后は鳳凰を着ていました。
龍と鳳凰は、人間の心と心の結合の可能性を表すとも解釈できます。
龍は翼を持ち、その爪はライオンを連想させ、その尾は蛇に似ています。
龍は水と空気の支配者であり、隠された宝物の番人です。
豊かな春の雨を迎える意図で、カーペットやラグに触れます。

柵

アンティークのトライバルラグの最も内側と最も外側の縁には、しばしば相互に鋸歯状の柵のモチーフがあしらわれています。
畑のモチーフは、本質的なもの、つまり人間の生得権であり、より充実した人生を送るきっかけとなる属性を表しています。
これらの古来のシンボルは神聖なものと考えられていました。
安全の柵は、最も価値のあるものが最も脆弱でもあること、したがって保護され尊重されなければならないことを示しています。
両刃の柵は、人間の本質的な生活が人生の外的な出来事に影響されないことも示唆しています。

八芒星

八芒星

智慧の星は八芒星の幾何学的図形で表されます。
この文様は洞窟壁画に描かれており、人類の黎明期に登場ものと考えられます。
人間の知恵と理解力を表しているとされ、伝承によるとソロモン(スレイマン)大帝はその証として、指輪に八芒星を付けていました。
そのため「ソロモンの星」とも呼ばれます。
古代の部族の絨毯織り職人は、所有物が最小限の、基本的な生活を送っていました。
彼らは、知恵こそが、日々の活動の多くの課題の中で努力することで得られる真の富であると信じていたのでしょう。
転じて幸福の象徴として、多くのトライバルラグに見られます。

ペイズリー

ペイズリー

ペイズリーの原形であるボテ(ブテ)は、上端がカールし、涙の形をした文様です。
ソロアスター教徒が崇拝する炎や糸杉を表したものとも言われますが、部族民の間では発芽した種子に似ていることから「生命の種」と呼ばれることがあります。
ボテは、成長と再生、ひいては宇宙と永遠の生命を表していると言われます。
部族民が暮らす過酷な環境下でも成長と豊かさの魔法が可能であることは非常に刺激的でした。
ボテは成熟した植物を中に閉じ込めることが多く、全体が常に部分の中に存在することを象徴しています。
1つの大きなペイズリーの中に複数のペイズリーが見られますが、これはおそらく母親の子宮のしるしです。
世界中で、市販のカーペットにはペイズリーのデザインがよく使われています。

ロゼット

ロゼット

バラは栽培されている花の中で最も神秘的で畏敬の念を抱かせる花です。
ロゼットは、人間の創造力によって栽培された結果、自然が原始の状態よりも洗練され、純粋になったことを示しています。
これは、人間の知識と心の内なる温かさ、そして天と地を支配する法則に対する感受性の調和によってのみ可能になります。

人間

人間

人間のモチーフのほとんどは女性です。
織り手が自分自身を表現しようとしているからです。
稀に男女が描かれているのがあります。
これは子供を産めない人のために織られたものであり、新婚のお守りでもあります。
そしてこのシンボルは生殖能力に非常に効果的であると信じられています。

蠍(さそり)、蜘蛛(くも)

蠍(さそり)、蜘蛛(くも)

クモとサソリは、その毒のある噛みつきのため、部族の人々に恐れられていました。
盗難を防ぐために、彼らは宝石をサソリの形に似せて配置していました。
そのため、クモやサソリのような有毒な動物の絵を敷物に描くことは、部族を悪いエネルギーから守る役割を果たしました。

駱駝(らくだ)

駱駝(らくだ)

遊牧民の文化では、ラクダは輸送を助けてくれたため貴重な動物でした。
アラブでは「アルジャマルン・サフィーナトン・アッサハラー」(駱駝は砂漠の舟)というほどです。
ラクダは厳しい砂漠の環境に耐える能力があるため、強さと忍耐の象徴としてよく使用されます。
裕福な遊牧民だけがラクダを飼育できたため、ラクダは富の代用にもなります。
駱駝にはヒトコブラクダとフタコブラクダの2種がいますが、イランが生息地の境界になっており、イランの部族が製作するトライバルラグにはその両方が見られます。

蝙蝠(こうもり)

蝙蝠(こうもり)

蝙蝠は一部の文化や宗教において死や不吉、悪霊や暗黒の象徴として扱われることがあります。
その夜行性の生活環、洞窟に棲むこと、または吸血のイメージから、蝙蝠は不吉な存在として恐れられるのでしょう。
一方で、蝙蝠は夜間に活動することや暗闇に適応する能力から、夜や暗闇、転換や変容、新たな始まりを象徴する存在としても捉えられることがあります。
蝙蝠が姿を変えることから、変化や再生、成長などの象徴としても解釈されるのです。
また、蝙蝠は優れた聴覚とエコロケーション(超音波を使った位置確認)によって暗闇で生活しており、知恵や洞察、直感力を象徴する動物であり、その独特な特性から知識や洞察力を持つ者と結びつけられることもあります。

鶉(うずら)

鶉(うずら)

鶉は、イランの伝統的な芸術や文化の中でもしばしば登場します。
ウズラをモチーフにした絵画や彫刻、詩や物語などが存在し、鶉はイランの文化的な象徴としても重要な位置を占めています。
イスラム教の中でも、鶉はクルアーン(イスラム教の聖典)においても言及されており、特に断食月のラマダン期間中にウズラを食べることが推奨されています。ウズラの肉は清浄であり、イスラム教徒にとって許された食材とされています。
鶉の卵や肉は高タンパク質で栄養価が高く、特に贅沢な料理や祝祭日のメニューに用いられることがあります。
また、鶉の飼育は、イランの一部地域において経済的な収入源となっています。
ウズラの飼育は比較的簡単で、小規模な農家や家庭でも行われており、ウズラの卵や肉の販売によって収入を得ることができます。

耳飾

耳飾

耳飾は結婚したいという織手の願望を示しています。
花嫁のジュエリーやフラワーヘッドは、花嫁が受け取る贈物の1つです。

蝶

蝶は美しく色鮮やかな羽を持つ昆虫であり、その美しさや神秘性から、イランでは美や魅力、神秘性を象徴する存在として捉えられています。
蝶は、その美しい姿や舞い踊るような飛び方から、幸運や喜び、平和や平等を象徴する動物としても捉えられています。蝶が現れることで、幸せや希望が訪れると信じられていることもあります。
また、イランの文化や宗教において蝶は魂や精神の象徴としても扱われています。
蝶は、肉体を離れて自由に飛び回る姿から、魂の解放や浄化、再生などの象徴として捉えられることがあります。
幼虫から成虫に変態する過程を経て生まれ変わる姿を持つことから、変化や再生、新たな始まりを象徴する存在としても捉えられており、この意味で蝶は人生の変化や成長を象徴するシンボルとして広く受け入れられています。

ギュル

ギュル

トルクメンの絨毯に見られるギュルは、小型のメダリオンのような文様です。
これは、バラや花を意味する「ゴル」というペルシャ語に由来していると言われます。
ギュルは部族の紋章のようなもので、部族ごとに異なるデザインのギュルを使用していました。
ギュルの中には「メムリングクのギュル」として知られるものがあります(画像参照)。
これは15世紀のフランドル派の画家、ハンス・メムリンクの絵画の中にたびたび登場することから名付けられたものです。
メムリンクのギュルは、初期のキリスト教絵画にギュルを頻繁に取り入れており、販売されている部族の絨毯の一般的なモチーフであるメムリンクのギュルもその1つです。

鳥

鳥は飛翔の奇跡と人間の限界からの自由の可能性を象徴し、より広い視点から物事を見る可能性を示しています。
また、意識の自由と心の限りない喜びを求める人間の生来の努力も象徴しています。

川

遊牧民にとって水は非常に貴重な資源でした。 彼らは過酷な気象条件の元で暮らしていたからです。
流水はどこにでも生命を表しており、さまざまなラグの模様で示されるモチーフは、流水の重要性と幸運を表すことを意図していました。 古代の手作りの部族のラグにはさまざまなテーマがあり、その重要性と意味が各ラグに命を与えています。 次に素晴らしい古代の部族のラグに出会ったときは、それらのシンボルと模様を探してください。そこには語るべき物語があるからです。 コーカサスの遊牧民の羊飼いと定住農耕民の古代の絨毯織り職人は、生命の成長を育むものすべてを神聖なものとみなしていました。 水は生命を維持し、養うために絶対に必要でした。 絨毯の周りの流水の縁取りは、部族の人々と動物の両方にとって水が生命を与える性質を表しています。 また、内面の浄化の可能性も象徴しています。

牛蒡(ごぼう)

私たちのスパルタラグには、邪悪な目から守るために境界線に沿ってダイヤモンドのメダリオンが付いています。
最大のメダリオン (スパイクのあるもの) は、とがったゴボウを表しています。
古代、ゴボウは呪いを防ぐと信じられていたため、身を守るためにキリムに織り込まれていることがよくあります。
ゴボウは食用、薬用としても利用され、美しい花を咲かせます。
ラグのデザインに登場するゴボウのメダリオンは豊かさを表現しています。

店舗案内

名称Fleurir – フルーリア –
会社名フルーリア株式会社
代表者佐藤 直行
所在地

ペルシャ絨毯ショールーム【予約制】
〒135-0063
東京都江東区有明3-5-7
TOC有明2F(2-1~2-3号室)
【来店予約電話】03-3304-0020
【来店予約メール】info@xs659340.xsrv.jp
【営業時間】10:00-18:00
【定休日】不定休

サロン・ド・フルーリア(フルーリア東京事務所)
〒175-0083
東京都板橋区徳丸7-2-4 7 Carat State 302
【TEL】03-3304-0020
【FAX】03-4333-0285

イラン事務所
Spbdgharani 114, Bozorkmh, Esfahan, Ian
【TEL】98-32-678243

警備事業部(準備中)
〒175-0083
東京都板橋区徳丸7-2-4 7 Carat State 302
【TEL】03-3304-0020
【FAX】03-4333-0285

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